第5話 忘れてしまいたい事

東堂の助けのお陰で平静を保てるようになった紫月は、少しずつ穏やかな日々を過ごせるようになっていた。

ある日の拝謁で部屋に戻ろうとした紫月は、羅雨に呼び止められる。

迩留緯に人払いをさせ、玉座の間には羅雨と紫月だけ。

「可哀そうだけど指月は生贄様だから、世話人と仲良くしてはいけないんだよ。

 わかるだろう?」

「わかりません。」

気をつけていたが、隠れて東堂と会っているところを、誰かに見られたようだ。

「紫月、本当はわかっているよね?

 お前の気持ちを考えると心苦しいが、続けさせてあげられない。

 東堂にも、ここを離れてもらったよ。」

「東堂を、東堂をいかがなさいました?」

“もしや東堂の身に何かあったのでは!”と、思わず羅雨に掴みかかってしまった。

羅雨は力いっぱい掴んでいる紫月の手をそっと握り、諭すように答えを返す。

「安心しなさい、このことは私と迩留緯しか知らない。

 彼には役職を上げて、国境近くに赴任してもらったから。」

「そうですか、咎めがないで下さりありがとうございました。」

言い知れぬ喪失感が猛烈に襲って来たが、平気な振りをして踏ん張る。

「では、失礼いたします。」


冷たい石の回廊を肩を落とし歩く紫月の後ろ姿は、羅雨に生贄様として連れて行かれた日のことを思い出させた。

「なぁ迩留緯、見てくれよあの紫月の落ち込みよう。

 私はアイツに、悲しみしか与えてやれないのだろうか?」

「紫月様がもう少し成長されたら、羅雨様の立場では国の理のために人の理は通用しないというのを理解されるはずです。」

「そう思ってもらえると嬉しいが、どこかで紫月にはそんな聡い大人にはなって欲しくない気もしている。」

「皇帝ではなく、兄御の視線でございますね。」

「あぁ、私が唯一可愛がれる存在だからね。

 なぜ第三皇子に生まれたんだろうか、どうして紫月なんだろうかと毎日くらい考えてしまう。

 どうにもしてやれないのに・・・・情けない。」

複雑な気持ちを抱えたまま、王宮の奥へと消えて行く紫月に背を向けた。


唯一、紫月の本性を知る東堂はもういない。

どんどん自分を失って行く。

でも東堂が紫月へ頻繁に手紙出し、思い出させてくれた。

忘れては、手紙で思い出しを繰り返す。

そうしている間に常時薄っすらと、今の自分は本当の自分ではないと思えるようになった。

だが覚えていることは、良いことばかりではない。

「ここでは冬だけど、現代はどの季節だろう?」

寒い冬の日、制服の下に着こんで学校に通ったり、夏の猛暑の中、汗と泥でドロドロになって部活をするなんて、今はもうない。

あの時は辛いと思っていたけれど、出来なくなるとわかっていたならば、もっと頑張れたと反省してしまう。

「食べたいな、大根の糠漬け。」

贅沢な悩みだが、豪勢な料理は毎日見飽きていた。

だけど本当に食べたいのは、母が作ってくれていた日常のご飯。

「会いたいよ・・・お母さん。」

この感情だけは、思い出したくない。

なぜならば、辛く悲しいだけだから。

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