第2話 生霊 ~舐犢之愛に導かれた母親の妄念~

親友の想い人

 今夜はさく、すなわち新月である。

 陰が極まり、陽に転じるこの夜は、陰と陽が交錯こうさくし、古都鎌倉の霊的結界が一番弱まる夜でもある。


 深夜にもかかわらず、郊外の森林がにわかに鳥たちの喧騒けんそうに包まれた。

 鳥たちは何か邪悪な霊的存在の気配を感じとったようだ。

 

 それは常人の視覚でとらえることができないが、どうやら獣のようで尾が二股になっている。猫又に見られるように、複数の尾は歳を経て妖力を得た動物に見られる特徴だ。


 それは一瞬の出来事で、森は再び静まり返り、木々のざわめきだけがかすかに聞こえるだけとなった。あるいは、鳥や動物たちは、邪悪な存在を恐れて息をひそめているのかもしれない。


     ◇◆◇


 普光院凜月りつきの朝は早い。

 彼女の霊力を封じていたブレスレットが砕け散ったその後、祖父の覚元に命じられて日々修行に明け暮れる日々が続いていた。


 最初は不承不承ふしょうぶしょうやっていた。だが、これ以上強力なブレスレットは作れないというのだから、霊力を持っていることが前提の生活に改めなければならない。

「その辺の小物ならば自分ではらえるようにならないとな」という覚元の言葉は、もっともなことなのだ。


 彼女は、毎朝日の出の前に起きて、寺の本尊の大日如来が安置されている本堂でお勤めをする。寺には、立派な毘沙門堂もあるのだが、これは護摩行ごまぎょうなど特別なときにしか使われない。


 覚元の勧めにより、お勤めの前にヨガをして自律神経をリラックスさせてから、本番の仏前勤行式ぶつぜんごんぎょうしきを行う。

 合掌礼拝がっしょうらいはいし、懺悔ざんげ、三帰、三境、十善戎などの後、般若心経はんにゃしんぎょう、十三仏真言、光明真言こうみょうしんごんなどを唱えていく。


 最後の仕上げに阿字観瞑想あじかんめいそうをする。心の雑念を払い、心と宇宙=大日如来だいにちにょらいのつながりを感じとり、悟りを開いていくのである。


 調伏に関する知識・技術は、学校が休みの日に集中して覚元から厳しく仕込まれていた。


 

 凜月は、今朝も哪吒ナージャを叩き起こすと強引に朝食を食べさせ、学校へと引っ張っていく。彼は、顔はハーフ顔のイケメンで、腕っぷしは強いが、それだけの男だった。

 家ではだらけた生活を送っているし、学校へ行けば女子の尻を追いかけ回すか、男子とけんか沙汰を起こすか……。とにかく、トラブルメーカーなのである。


 だが、凜月りつきはまだ初心者なだけに、祖父に命じられて物の怪のたぐい調伏ちょうぶくするときは、頼りになる存在であることは間違いない。毘沙門天の三男というのは、伊達だてではない。

 ……ということで、ある程度こびを売って保険をかけておくことも必要なのだ。


 そして、昼休み。

 凛月は、仲良しの女子たちと雑談をしていた。高校生女子の一番の話題といえば恋バナである。

 一時期、凛月も哪吒ナージャとの仲を冷やかされたこともあったが、今はそれも落ち着いていた。


「あたしさあ、気軽に行けるお洒落なカフェデートに憧れてるんだけど……」

「そうよね。雰囲気のいいレストランでディナーとかだとお金がかかっちゃうし、かといってファミレスっていうのもねえ」


「夢を語るのもいいけど、その前にいい人を見つけることが先決でしょう。ねえ誰かいい人いないの?」


 皆にめぼしい反応がない中、いつもはお調子者で話題の中心にいる京華の様子がいつになく静かだ。


「あれっ? 京華。今日は静かだね。なんだか怪しくない?」

「そう言われてみれば。ねえ。本当は何かいいことがあったんじゃないの? 白状しなさいよ」


 それまでおとなしくしていた京華は、相好を崩した。


「えへへ。実は気になる人がいるんだけど……」

「えーっ! 誰っ。学校の人?」


「お父さんの会社にインターンで来ている大学院生のお兄さんなんだけど……すごくイケメンで、頭もよくて、仕事もすごくできるって、お父さんもびっくりで……」


 その日からしばらくの間、京華の恋の話で盛り上がった。


 しかし、十日ほどたった頃。


 いつもの雑談のさなか、京華に話題が振られ、普通に相槌あいづちも打ってはいるが……。

 誰あろう凛月だけは、京華が無理に笑顔を作っていることに気付いた。


 そこで放課後、誰も見ていないところを見計らって、凛月は京華に聞いてみた。


「ねえ。京華。何かあったんじゃないの? 私で良ければ力になるよ」

「もう、凛月にはかなわないなあ。実は彼の体調が悪くて病院へ行ったんだけど、原因がよくわからなくて。結局は精神的なものだろうということで心療内科のお薬をもらってきたんだけど、それも効果がないみたいなの」


「彼って、ナイーブな性格な人なの?」

「彼は、お父さんの会社の本町専務の甥御おいごさんなんだけど、専務の話だと、そんなにやわなやつじゃないって」


(なんだか辻褄つじつまが合わない話ね。まさか霊障? でも、この情報だけではわからないわ)


「もし、よかったらなんだけど、私の家でお護摩をくのはどうかな? 気なぐさみにしかならないだろうけど」

「心配してくれてありがとう。お父さんに言ってみるね」


 このことが、イケメンインターンの本町遥斗はるとを救う切っ掛けになるとは、この時点では凛月や京華は知る由もない。


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舐犢之愛しとくのあい】は、『後漢書』楊彪傳にある故事からうまれた言葉で、年老いた牛が子牛をなめ可愛がるような溺愛の情のことをいう。


後漢の楊彪の子、楊脩は魏の曹操に重く用いられていましたが、のちに曹操に殺される。のちに楊彪は、曹操にこう語った。


愧無日磾先見之明、

 愧はづらくは日磾ジッテイが先見の明無くして、

猶懐老牛舐犢之愛

 猶ほ老牛舐犢の愛を懐くを


これを聞いて、曹操は思わず態度を改めたという。  


※ 金日磾(自分の双子が武帝のためにならないことを予見して、わが子を殺した)

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