10.ミッキーもびっくり

 地上に出た三人は、斜陽に焼かれて目を細めながら、ひとまず池袋駅に向かった。

「俺と佐々木はともかく、お前は家帰らない方がいいんじゃないの」

「どうして」

 帰宅しようとしていた堀田に、高瀬がそんなことを告げた。

「だってお前ん家に来たチンピラストーカー、別に逮捕されてないんだろ?」

「まあな」

「拘留されてねえなら、事情聞いてすぐ返されてんだろ。家の前で待ち伏せしてたらどうすんだ」

「……確かに」


 というわけで、堀田はその晩、ビジネスホテルに宿泊することとなった。そして、

「何で俺が佐々木とネカフェに泊まるんだよ」

「だってえ、俺と高瀬の家にもヤクザが来てるかもしれないだろ」

「金ねえのに……」

 佐々木の泣き落としによって、高瀬もまた彼とネットカフェで一夜を明かす羽目になった。


 翌日午前10時過ぎ、堀田がホテル横のカフェチェーンで観光客や学生風の若者らに混じり遅い朝食を取っていると、佐々木から「腹減った」と連絡が来た。堀田は眉一つ動かさずに「水でも飲んでろ」と返信して、それから高瀬に連絡して集合場所を決めた。

 そして三人は足立区某駅前に集った。

 駅にほど近い、側溝から排気ガスと雑巾の混じったような匂いが立ち込める高架下で、堀田はパーラメントのほんのり芳しい煙を喉の奥で味わった。佐々木が道中で買った明太マヨの握り飯を咀嚼しながら、今にも折れそうな錆びた防護柵に座った。


「俺も少し調べたんだが」

 口火を切ったのは堀田で、彼は落書きだらけの壁に背を預けてスマホを弄った。

「東堂組は、杉島会の直参ではなくその下の三次団体じゃないか。しかも藤峰はまた別の直参の下だ。俺はこういうの詳しくないが、こんなの会ったことない遠戚みたいなものじゃないのか。なんで険悪になってるんだ」

 すると高瀬は、紙パックのコーヒー牛乳をストローで吸うのを止め、首を捻った。

「俺、そういうのよく分かんねえんだよな。若えうちにしょっ引かれたし」

「そんなことだろうと思った。まあいい、むしろ接触するハードルは下がった……若干だけど」

「なあ、本当に俺は行かなくていいんだよな」

「来てくれるなら是非と言いたいが」


 堀田がそう返すと、高瀬は「勘弁しろよ」とストローを噛みながら顔をしかめた。

「事務所の手前までは送ってやるから、後はどうにかしてくれ。向こうも、会って話をしただけで乱暴はしねえよ。取締りも厳しくなってるし、むしろ通報されないよう慎重になるはずだぜ」

 すると、握り飯を食べ終わった佐々木が指についた海苔を舐めながら訝しげに眉を潜めた。

「俺たちはお前の言葉を信じるしかないんだぞ」

「いざとなったら組員が若頭を止めるだろうし、大丈夫だよ」

「それ本当に大丈夫なの?」

「佐々木が飯食ったならもう行くぞ」

 堀田が携帯灰皿に短くなったタバコを入れて、バックポケットに仕舞った。そして三人は、高瀬の案内でその場を離れた。


 高瀬が言うには、東堂組の事務所は、表面上は不動産会社であるとのことであった。

「社長はそのまま組長で、基本的に事務所には顔を出さねえ。副社長の若頭は定休じゃなきゃいるはずだ」

「そういえば、その若頭の名前聞いてないな」

「君島幹岳って人だよ。俺らより一回りくらい年上だったかな」

「君島幹岳……」

「きみしまみきたけ……」

 堀田と佐々木が、舌をもたつかせながら東堂組若頭の氏名を呟く。すると高瀬が二人を振り返って険しい表情をした。

「君島さんはフルネームで呼ばれるのが嫌いだからな、気を付けろよ。特に佐々木、お前変な冗談口走るんじゃねえぞ」


 対する佐々木は、顎を上げてふんと鼻を鳴らした。

「俺は元ホストだぜ。ミッキーもびっくりの陽気さで、あっという間に仲良くなっちゃうかもよ」

「高瀬が言ってんのは、お前のそういうところだよ」

「あと君島さんの前でミッキーって呼ぶなよ」

「そんなヘマしないって。話すのはほぼ堀田だし」

 軽口を叩き合いながら、三人は商店街に入った。店のほとんどが閉店しており、ましてや炎天下ということもあって、通りは人がほとんど見られず閑散としている。その割に、こぢんまりとした店舗が密集し、街灯が幅狭く立ち並ぶ様子はどこか情報量が多い。そんな商店街を抜けて数分、日射を照り返すアスファルトに佐々木が文句を垂れようと口を開きかけたところで、高瀬は足を止めた。


 その雑居ビルの1階は、開店しているのかどうか定かではない漢方薬局、2階は空きテナントとなっていた。そして3階の窓には、「株式会社サンライズハウス」と丸いフォントの社名シールが貼られていた。三人が仰ぎ見るこのフロント企業は、法人としての最低限の体裁は整ってはいるが、クライアントの大半は後ろ暗い事情があって賃貸契約を結ぶことができない者ばかりで、人からの紹介でなければまず辿り着かない会社である。

「ここだから。じゃ」

 高瀬は言うや否や、彼の腕を掴もうとした佐々木を躱して、青く眩しい空の下を軽やかに駆けて行った。


 取り残された二人は、暑さも相まって何を言う気にもなれずに立ち尽くした。やがて堀田が、眉間の汗を拭って眼鏡の位置を正すと言った。

「仕方ない。行くぞ」

「頼りねー」

「こっちのセリフだ」

 漢方薬局の隣にある急な外階段を、二人は足取り重く上った。かんかん音を立てて鉄製のそれを黙々踏み締めていると、

「だあ! また負けた!」

 空きテナントであるはずの2階のドアの奥から男の苛立った叫び声が聞こえた。堀田と佐々木は思わず足を止める。すぐに、ドア越しにどっと湧き立つ笑い声が聞こえた。


「中の部屋、どうなってんだよ」

「2階も東堂組が管理しているんじゃないか。聞かなかったことにして上に行こう」

 堀田は淡々と告げて歩みを再開した。どうにでもなれ、と諦めているようにも見える。

 3階の扉を開けると、暗い廊下の先にもう一つ扉があり、地上から仰ぎ見た窓のシールと似たような、丸みを帯びたフォントの社名プレートが下げられていた。

 堀田はハンカチで、佐々木はシャツの襟で額に滲んだ汗を拭う。そして堀田の肘が佐々木の柔らかい横腹を小突く。

「入れよ、陽気なホスト」

「俺!?」

「どちらさんで」

 佐々木が声を張り上げると、中にいた者が二人の来訪に気づいた。ハリのある声は、丁寧ながらもこちらを警戒し、威嚇するような圧を含んでいた。


 堀田が佐々木に目配せをして、ついでに爪先で彼の踵を突っついた。佐々木は何度も首を振って抵抗したが、中の人物がキャスター付きの椅子から立ち上がる気配がして、慌てて扉を引き開けた。

「お、お邪魔しまあす」

「お忙しいところ失礼します」

 佐々木が赤べこのように何度も会釈する背後で、堀田がゆっくり一礼して入室した。


 事務所には、六卓の事務机が島を作り、その奥にもう一回り広い机が設置されていた。左には給湯室、右にはファイルの立ち並ぶ灰色のロッカーやオフィスキャビネットが立ち並び、それらを間仕切りとして、その裏側にも部屋が続いていることがうかがわれた。

「少し、相談したいことがありまして」

 堀田はそう言いながら、室内の者たちを確認した。一人は、キャビネットの前で立ち上がっている、スポーツ刈りの男、もう一人は、ワイシャツを肘までまくった、背広姿で脂っぽくテカった緩いオールバックの、胡散臭い中年の男。

「すいませんねえ、うちは予約を入れていただかないと」

 広い机の奥から、オールバックの中年が笑顔を称えて少し声を張った。ごうごうと唸るエアコンの風とは別の冷気が、堀田と佐々木の背筋を冷やす。


「出直します、と言いたいところですが……高瀬龍司からの紹介で、こちらにお伺いしました」

「…………知りませんねえ。お宅ら、ウチに何の御用で?」

「お時間は取らせません。相談したいことが——」

「予約していただくか、さもなくば令状を持ってきていただくかしてもらわないと」

 そこで、堀田は「ああ」と得心した。


「我々は警察ではありません。この男がそんな仕事できると思いますか」

「そうですよ見てこのワガママボディ! 俺がヤクザ相手に大立ち回りできると——」

 中年の眉がぴくりと痙攣したのを見逃さず、堀田が咳払いをして、ついでに佐々木のくるぶしを蹴って彼の言葉を遮った。

「こんな失言まみれの男が、警察な訳ないでしょう。私たちは高木の友人です」

「…………自分は「副社長」の君島です。奥で話しましょうか」

 あくまでも身分は会社員と言い張って、君島は二人をじっと観察した後、事務所の奥の方へと消えた。すぐに「有川! 突っ立ってねえで茶ぁ出せ!」と君島の指示が空気を震わせた。キャビネットの側にいた男が、肩を竦ませ小動物さながらの俊敏さで給湯室に引っ込んだ。


「今からでも、高瀬呼んだら来てくれるかな」

 佐々木がぼそりと囁くと、堀田はほつれた前髪を横に流しながら肩を落とした。

「どうせパチンコに行ってるんだ。2時間は連絡つかねえよ」

「お客さんも、遠慮せずこちらに来てください」

 棚越しに声をかけられて、堀田と佐々木は目配せをした。それから、互いに先に行けと譲り合い、もとい押し付けあいながら君島の元へ向かった。

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