5.どちら様ですかあ?

 翌日、土曜日午前10時も半ば頃。

 堀田はぐちゃぐちゃに乱れたシーツから腕を出して、サイドテーブルを探った。彼の目当ての銀縁メガネはそこにはなく、代わりに残り数本となったパーラメントの箱を握った。堀田は仕方なく、飲酒と「運動」の疲れを引きずる体に顔を顰めながら、タバコを持ってベッドから抜け出た。


「おはよ」

 堀田がボクサーパンツ一枚のまま、一服しながら靴箱の上に放置していたメガネを取りに向かうと、背後から華やかなネイルの施された腕が腰に巻きついた。振り返ると、昨晩の乱れはどこへやら、着替えて化粧を施しすっかり身支度を整えた女が、少し隈のできた目もとを細めて微笑んでいる。彼女は、堀田の口からタバコを奪って自分の口に挿した。


「勝手にコーヒー飲んじゃった」

「別にいいよ。俺のもあるか」

「今、注いであげる。そしたらもう行くわ」

「ああ」

「また会う?」

「お互い気が向いたらな」


 機嫌のよさそうな女の後ろをついていきながら、堀田はその細い足首や太腿の隙間を見てぼんやりしていた。キッチンでコーヒーを注ぐ女がその視線に気づくと、悪戯っぽく首を傾げる。

「なあに?」

「いい足だなと思って」

「ダメよ、アタシ帰るんだから」

「まあそうか」

 堀田の意図を察した女が呆れた笑みを浮かべる。堀田はさほど残念そうではなく、適当な黒いパンツとTシャツに着替えた。


 堀田が女からコーヒーを受け取って、玄関先まで彼女を見送ろうとした時、室内にインターホンが響き渡った。

「宅急便?」

「何も頼んでいない」

「昨日の人たちかしら」

「だとしたら縁を切ろうかな」

「意地悪しないの」

 堀田はひとまず、モニターを確認した。1回のエントランスには、知らない男が2名ガニ股でポケットに手を突っ込んで、いかにも「ワルです」といった風貌でこちらの反応を待っていた。堀田は昨晩の珍騒動を思い出す。

「ガラの悪い奴らが来ている。とりあえず無視して様子を見よう。君もまだ帰らないほうがいい」

「あ、ショーへーじゃん」

 堀田が面倒そうに無言で女を見ると、彼女は涼しい顔でタバコをふかして男の一人を指し示し、「アタシの元夫よ」と付け加えた。


「結婚したことないって言ってなかったか」

「籍は入れてなかったの、お互い色々事情があってさ。ま、1年ちょっと前に別れたけど」

「……まあいい。俺も他人の過去に口を出せる立場じゃない」

「あなたのそういう無関心なとこがイイのよね」

 にっこり笑う女に反して、堀田はげんなりと肩を落とした。インターホンがもう一度鳴る。

「追い返しましょ」

「待て、それより居留守を」

 堀田の制止は間に合わず、女が応答ボタンを押した。

「どちら様ですかあ?」

「ミワかあ、お前そこのカスと降りてこいや」

「しつこいのよ、アンタとはもう別れたでしょ」

「ンなこと言ってんじゃねえよ」

「じゃあ何なのよ」

「いいから降りてこいミワ! コラ、野郎もそこにいるんだろ」


 女の問いには答えず、女がショーヘーと呼ぶ男は落ち着かなげに貧乏ゆすりをしている。堀田は寝癖を整えていない髪を乱暴に掻いて一呼吸置き、諦めた表情で男に呼び掛けた。

「お引き取りください。他の入居者の方もいますので」

「今そういう話してねえんだよ。ミワに手出しといて何言ってんだ」

「ねえ聞いたあ? やっぱアタシに未練あって尾行したのよ。ストーカーよストーカー」

「君は少し黙ってて」

「おいミワに指図してんじゃねえ何様だ」

「ミワミワうるせえな……」

 マイクに入らないよう顔を逸らして小声でぼやき、それからもう一度引き取るように伝えた。男はそれでも文句を吐き続ける。


「これで三度目です。お引き取りいただかなければ、警察呼びますよ」

 通告虚しく、男は感情を徐々に昂らせながら降りてこいだの女を返せだの喚くだけだ。堀田は淡々と110番に通報した。

「自宅に不審な男性が。ええ、はい。私の家に宿泊した友人に」

「ふふ、友人ねえ」

「……その友人の元交際相手のようで。はい、はい、伝えておきます。私の番号は————」

 堀田は自分の電話番号を警察に伝えて通話を切った。そして電話口に聞こえる声で余計な茶々を入れてきた女を一瞥すると、手に持ったままぬるくなってしまったコーヒーを飲む。

「下の男のことについて、署で話が聞きたいんだとさ」

「ええ、あなた一緒に行かないの」

「必要があれば後日俺も呼ばれるだろう、だと。ストーカー被害にあってんなら、今後近づかないように対応してくれるんじゃないのか」


 インターホンが再び鳴らされるが、堀田は舌打ちをしてこれを無視した。女は余裕のなさそうな堀田を見て、愉快そうににやにやしている。

「じゃあ警察来たら下まで送って。アタシじゃうまく説明できないわよ」

「まあ、後で呼び出されるよりはマシだな」

 それから10分足らずで、堀田のスマホに警察から到着の連絡があった。堀田が女と共に1階エレベーターホールに降りると、自動ドアの向こうのエントランスにおいて、警察官3名が男たちの話を聞いていた。そのうち、婦警がこちらに寄ってきたため、堀田は自動ドアに近づいて彼女を中に入れた。それに気付いたショーへーなる男が、女と、そして堀田を見て目を見開いた。


「てめえ昨日のっ」

「まあまあ、話なら聞くから」

「見つけたぞ、歌舞伎町で——」

 男が何かを言いかけて口をつぐんだ。堀田はそれを聞き逃さず、背中を嫌な汗が伝った。愛想のいい婦警に事情を説明している間も、堀田は男の様子や警察と話す口の動きに注目していた。

「なるほど。ではあなたには、必要があればまたご連絡します」

「はい」

「ミワさん、じゃあ行きましょうか。彼とは別車両でお連れしますね」

「はあい」


 もう一度自動ドアが開く。男性警察官二人に挟まれた男が、振り返り様に吐き捨てた。

「おいコラ、お前の顔覚えたからな!」

「やめなさい、行きますよ」

 喧騒が去り、堀田は思い足取りで部屋に戻った。そしてシンクの縁に置いたままのコーヒーを飲み干し、ソファに身を沈めて天井を仰いだ。


「マジかよ」

 堀田の途方にくれた声は、誰にも届かず虚しく消えた。

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