修道院長の涙

宇部詠一

修道院長の涙

 青年は言葉を綴っている。自らの言葉ではない。それは許されない。月明りの下で、聖なる言葉を写し取っている。

 彼の爪は深くインクに染まっている。何度洗ったところで落ちないほどの年月、文字を書き記してきたためだ。黒い文字が羊皮紙の上に繋がっていく。月が沈むまで手を真っ黒にしながら、いにしえの言語を引用する。文字は小さく、そのうえ夜も遅いので、青年の目はかすむ。

 彼は写字生だ。すなわち本を作る者だ。機械によって知識が広められる前の時代、書物はすべて手で写されてきた。書物を所有するものは限られており、それらは豪華に飾られるのが常であった。豪奢な祈祷書は信仰のためのものであるが、それ自体が財産でもあった。金箔や貴石で描かれた挿絵は、神の恵みを伝えている。

 御言葉の意味を反芻しながら沈思黙考し、神への信仰を深める。己の罪深さを知り、赦しを請う。無限の慈悲と来世の至福を観想する。そうするべきだとは言われてはいるものの、ひたすらに文字を写し続ける青年はそれどころではない。綴りを誤らないか、行を二重に書いていないか、節を丸ごと飛ばしてきないか。そればかりが気にかかり、言葉の意味など二の次だ。

 もっとも、彼にとってそれは苦行ではなかった。身寄りのない彼は物心ついたころからここに預けられ、文字を覚えると間もなく今の仕事を任せられた。懐かしむべき外の世界を知らず、恋しがるべき父も母もいない。兄弟も幼馴染もいない。将来を約束した相手もいない。

 同じ写字生と、養蜂にいそしみ、ワインを作り、労働にいそしむ修道士のことしか知らない。同じ写字生たちと親しく話をすることもない。外もおおよそそんなものだと思っている。目の前の書物には、栄えては滅んでいった都市のことがかかれているけれど、おおよそこの修道院の建物と似たようなものだと考えていた。外の世界に出たところで、遠すぎて足を運ぶことも叶うまい。聖なる書物には婚姻の喜びについても書かれているが、女性を見たことのない彼は、胸を焦がすこともなかった。下手をすれば、天国にも何も期待していなかった。

 月が沈む。青年は伸びをして作業を終える。予定されていたよりもはかどっていた。本来、彼の義務は日中に限られていた。しかし、近頃は月が出ている間は作業にいそしむように命じられている。修道院長自らがこの部屋を訪れたとき、青年にだけ命じたのだ。厳かで笑うことのない院長は、この修道院から数十年出たことがない。同僚は青年が罰せられたのだと陰で笑う。青年には笑われる訳が理解できない。字を書くことは苦痛ではないからだ。むしろ、作業の速さを期待されたのではないかと思っていた。特段誇らしいとは思わなかったが、期待されたからには励むべきだと考えた。

 やるべきことをやる。問題なく一日が終わる。それが青年の喜びであった。歳月が経過する。降誕祭や四旬節、復活祭と季節が巡っても、心は動かされなかった。極端な暑さか寒さで眠れないときは不快だったが、それもずっと続くものではないと知っていた。黙って本を書き写していればいずれ過ぎ去るものだった。


 青年は部屋に戻ろうとする。院長に命じられた分が終わったことを思い返す。喜びというには消極的過ぎる気持ちを抱えたまま廊下を歩く。褒められるとは期待しない。院長がまた写本室を訪れることもあるまい。彼は忙しいのだから。祈りの時間にしか顔を見ない。監督の修道士さえやってくることはまれだ。自分のおかげで書物がこの世に一つ増えれば結構だ。たくさん作業が進むとよい。だが、それがどんな人物の手に渡るだろうかとまでは空想しない。そうやって一生は過ぎるものだと思っている。

 夜風はあたたかい。まもなく聖ヨハネの祭りだ。だから夜も寒くない。しかし熱すぎる昼間が間もなくやってくる。青年のかすかな喜びがかすむ。中庭から見える星空を見ても美しさに心を動かさない。この星座は暑さの兆候だからだ。

 心は動かされないものの、戸惑いはした。地下に通じる階段からうめき声がしたためだ。青年は亡霊を信じていないので何も恐れなかったが、盗人かもしれないと思い用心した。あるいは、大胆にも修道士の元に忍んできた何者か。男女の罪について熱心に説く修道士がいるので、そういうこともあると聞いたことはあった。しかし女の声だろうか。女の声は高いと聞いていたが、これはまるで獣の声だ。狼の出る森は遠いが、なんであれ確かめねばなるまい。青年はそう判断し、地下に降りた。

 声はワイン蔵のところからしていた。うめき声は強まる。何か痛みをこらえているかのようだ。蔵は施錠されていない。礼拝で使うワインを納めるためなのに不用心なことだ。青年は耳を押し当て、隙間からのぞいた。そこにいたのは修道院長だった。杯にワインを入れて飲んでいた。

 青年は謹厳な院長が酒に溺れているのかと疑い、戸惑った。しかし、正体を失うほどは飲んでいない。院長は獣のように酔いつぶれてうめいているのではなかった。泣いていたのだ。誰かの名前をつぶやきながら手で顔を覆っていた。杯を飲み干すと、横倒しになるのも構わず乱暴に置いた。そこには威厳ある姿はなかった。涙をこらえようとしてもできずに泣いている。その姿からは修道士たちに指図する姿を想像できないだろう。彼はため息をつき、嘆き、後悔している。

 青年は困惑した。だが、声をかけることはできなかった。院長がこんな姿を見られたと知れば、かえって傷つけてしまうだろう。同僚たちがどれほど見栄っ張りか知っている。一日に何文字書き写したかを自慢しあっている。聖なる言葉をどれほど暗記したかを張り合っている。聖歌をどれほど美しく歌えるかを、声をどこまで長く響かせられるかを。なら、その上に立つ院長が弱いところを見られては、どれほど恥をかかされたと思うだろうか。青年は静かに立ち去り、廊下に戻り、部屋に入った。青年は、自分が珍しく誰かの気持ちを推し量ったことに気づいていない。


 寝床に入ったものの、眠れはしなかった。なぜ泣いていたのだろうと疑問が浮かんだ。同僚と話すことが少なく、冷淡と言われがちな青年であったが、他人が普段と様子が違うと悟るのは早かった。悲しみの原因は何か。この修道院で何かがうまくいっていないのか。

 そうではあるまい。ならば部下を叱責すれば済むことだ。なら、原因は修道院の外にある。呟いていた名前は、外の世界の誰かだろうか。届くはずのない声で呼んでいたのだろうか。それほどまでその人が恋しいのか。手紙さえ書けないのか。行方が分からないのか。もはや生きてはいないのか。

 青年の心にざらざらした思いが立つ。そんなにも外の世界を求めてしまうものなのか。恋しいと思う相手のいない青年は、思うべき相手がいないことによる空虚さを覚える。おそらく初めて感じる痛みだった。

 その痛みは青年に、外をのぞき見たいという欲望を教える。そしてまた、修道院長を慰めたいとも願う。年齢も違う。身分も違う。ろくに話したこともない。命じ、命じられる関係の二人に友情が芽生えることがあるだろうか。それでも青年は他者の孤独を知りたいと初めて思った。同時に、自分もとても孤独であるのだと知った。

 こうして言葉を引き写す生活は静かで幸福だったが、それ以外のことを知るべきときが来た。目をつぶったまま彼は思う。外を知りたい。院長のことを知りたい。いや、その前にこの修道院で働く人のことさえ何も知らなかったのだから、もう少し知るべきだ。同僚がなぜ修道院に入ったのかも知らない。中と外、どちらを先に学ぶべきなのだろう。外に出れば院長のように、誰かを恋しいと思う日が来るのだろうか。中にとどまれば、皆の心の痛みを知る日が来るのだろうか。

 そんなことを考えているうちに朝が来る。身支度をすると、つかつかと院長の元へ向かう。もう礼拝の時刻だ。

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