第16話 洗面台のクシ

勇一は洗面所の静寂の中で、まだ記憶に鮮明に残る私服で長髪の昨日までとは、全く別人になってしまった鏡の中の自分の制服姿を見つめ、整理しきれない感情に戸惑っていた。3ミリまで剃られた髪は、頭頂から後頭部へと綺麗なカーブを描いていた。髪がなくなったせいか、顔は以前に比べて小さく感じ、その対比もあってか、新たにそのてっぺんまでが露出した耳は、今まで感じたことがないほどに巨大に見える。


自分がこんなにも変わってしまったことへの違和感、そしてそれを受け入れるべきかどうかの迷い。彼の心はまだ揺れていたが、言葉にできない何かが彼を後悔へと引き寄せようとしていた。


鏡を見つめ、何度も頭を触りながら整理できない自分の感情と向き合っていた勇一は、洗面台の端にふと目を落とした。するとその目に飛び込んできたのは、ぽつんと置かれたクシだった。その黒く光る歯が、勇一の心を突き刺す。


このクシは、小5の春の宿泊学習に行く際に買ってもらって以来、今朝までの自分が毎朝、通学前の支度に使っていたものだ。でも明日からはそのクシは使わない。丸刈りにした今、もはやクシを通す髪がない。勇一がそれを震えながら手に取ると、その歯が自分の髪を優しく撫でる感触が想像できる。その思い出の中の感触が、自分が丸刈りにした現実をむごいほどに突きつけた。


その瞬間、勇一の心は激しく揺れ動いた。そして、大人たちの決めた校則に従って、「これでいいんだ」などと自分を騙してまで丸刈りにしてしまったことへの嫌悪感と恐怖、丸刈り校則に対する理不尽さ、不条理さ、同じ小学校からは長髪の学校に通う子もいるのに自分だけが丸刈りにしなければいけない悔しさ、悲しみ、苛立ち、そして諦めといった感情が、痛みとともに一気に全身を支配するのを感じた。


彼は、嘘で自分を納得させ、自分の頭髪に丸刈りという不可逆な変化を与えてしまったこの選択が、これからどれほど自分自身を苦しめることになるのか、この時初めて気づいたのだ。


「くそっ、くそっ…」


体の力が抜け、洗面台に手をついて何度もそう呟く勇一の胸には、自分の髪がなくなったことに対する悲しみと、自分で自分を裏切ってしまったことへの怒りで満ち溢れていた。やがで大粒の涙が彼の長いまつ毛を濡らし、その滴が頬を伝い落ちる度、彼の自己嫌悪と内なる痛みは、一層深まっていくのだった。


勇一はしばらく、その悲しみと悔しさにただただ身を委ねながら、その場に立ち尽くしていた。クシの他にも、ヘアスプレーやドライヤーなど頭髪の存在を思い出させるものが並べられた洗面台は、まるで過去の自分を閉じ込めた遺物のように感じられ、彼の存在は、一時停止されたかのように、怒りと無念さに包まれたままだった。


やがて勇一は見つけたクシを、リビングの自分の引き出しの奥にそっとしまった。引き出しを閉じる瞬間、彼の心には一瞬、世界から色が消えたかのような感覚が広がった。勇一は、クシだけでなく自分の存在そのものが、虚無へと溶け込んでしまいそうな感覚に襲われていたのだった。

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