藍 あい

 桅の送別会が終わり、桅が地の神を統べる存在である陸様によって神の役目を終えてから数週間後のことだった。


 藍は管理員のオフィスに出勤し、すでにルーティンとして染み込んだ動作でパソコンの電源をつけ、メールボックスの新着を確認する。件名に緊急と書かれたものがあり、それを開く。


 ある田舎の山間の町に住む少年が明日、小学校までの通学路を歩いている帰り道に、家のそばの用水路に咲く遅咲きの花を摘もうとして用水路に落ちてしまう可能性が高いという地の神の予測が書いてあった。雨だと水嵩が増えて、足を滑らせる危険も大きくなるため、天気を晴れにしてほしいという依頼である。


 地の神の中には、人間の行動を観測し、データに基づいて分析し、将来起こりうる出来事を予測するアナリストのような役目を負う者がいる。長年の観察に裏付けられた勘もフルに活用したその分析はほぼ外れることはない。桅も樒も優秀なアナリストであった。神は人間の未来を無条件に予知することはできないが、丁寧な観察によってそれを可能にしていた。


 予測によると、少年が用水路に落ちてしまう可能性の高い時間帯は、習い事を終えて帰宅する、夕方の時間だった。宵である。今日の分の作品の提出はもう宵から受け取ってあり、その天気は雨だった。


 夕方から夜じゅうにかけて静かに町を濡らす秋雨。時間を確認すると、今から新しい絵を描いてもらうにはぎりぎり、いや、あまりにも時間が足りなかった。


 藍はオフィスを飛び出し、隣のデザイナーの部屋へ飛び込む。


「宵、緊急の依頼が入りました」


 藍が言うと、キャンバスに向かっていた宵は筆を止める。


「なんですか?」


 いつも口うるさくリジェクトをする先輩が現れて、急に締め切りぎりぎりのリジェクトを出したら、嫌な顔をされるだろうか、と藍は少しひるんだ。


 今度こそ空様に藍の勤務内容を報告しに行ったりなどして、自分はデザイナーばかりか管理員も辞めさせられる、何の仕事もまともにできない神のレッテルを貼られてしまうのだろうか。


 正直言って、このような急な仕事はデザイナーの身になると、本当に厳しいのだ。デザイナーをやったことがあるだけに、藍は依頼内容を伝えるのをためらってしまう。自分が同じ依頼を受けたとして、締め切りまでに完成させられる自信はなかった。


「……」


 ためらう藍の様子を見て、宵が言った。


「どうしたんですか?緊急なんですよね。言ってください」


 眼鏡の奥の宵の目は冷静だった。


「実は、……今日の天気のことなんだ」


 藍は宵の目を見れずに、描きかけの空が書いてあるキャンバスに目をやりながら言った。


「時間的にもう修正は難しいだろうということはわかってる。描きかけの作品も仕上げなくてはならないし、この依頼を受ければそれがどんどん後ろに遅れていくのもわかってる」


 宵は藍の手から依頼のメモを勝手に取って目を通した。


「これは、厳しいですね」


 宵は言った。藍は肩を落とした。自分の無力さを実感した。今まででこれほどどうしようもなく、自分の無力が悔しいのは初めてだった。


「でも、やりますよ」


 宵が続けた言葉があまりにも意外で藍は宵の顔を見る。相変わらずの涼しげな顔がそこにある。


「僕たちの仕事は、人間の幸福を創ること、ですよね」


 宵はすたすたと壁にかけてあるコルクボードまで歩いていくと、他のメモと同様に、今回の依頼のメモを画びょうでとめた。


「やってくれるのか?」


「仕事ですし」


 宵は部屋の隅に少しずつ拡大していくキャンバスの山をごそごそやりだした。そこには、習作らしき提出していない未発表の作品がたくさん積み重ねてあった。宵は練習として、勤務時間意外もここで絵を描き続けていたのだ。宵はいくつかのキャンバスをつかみだし、壁に立てかけて並べ、見比べる。


「雨を降らせないだけなら、この絵かこの絵あたりを、前の時間帯との兼ね合いも見て少し直せばなんとか間に合わせられると思います」


「ありがとう。……ありがとうございます!」


 藍は宵に礼をした。宵は描きかけの絵をディーゼルから退けて、習作のほうをセットし始めていた。


⛩ ⛩ ⛩


 藍は管理員のオフィスに戻る。宵から以前提出してもらった雨の絵をデスクから退けて、パソコンに新たなメールが来ていないかチェックする。


 依頼者の地の神は変動する予測を数時間単位で更新し、藍に送ってくれていたが、少年の行動の予測に変化はないようだった。現在、午後3時を過ぎて、時間はあまり残されていなかった。


 藍はデスクで頭を抱えた。今、デザイナーである宵は必死に絵を描いてくれているが、管理員である自分にできることはない。


 ふと、藍の耳に、他の管理員同士の会話が入ってきた。


「デザイナーの方はなんて?」


「絵を変える予定はないみたいで。地の神に何とかできないか相談してみますよ」


「オーケー。じゃあこっちはその周辺の時間帯のデザイナーに相談して、その男性のその後の行動に変化を起こせないかかけあってみるよ」


 藍ははっとして顔を上げる。そうだ。管理員にもまだできることはある。用水路に咲く花を少年が見つけなければ。少年がもし用水路に落ちてしまったとしても、すぐに助けに入れる人間がいたら。少年のために少年だけの行動を変えようとする必要はない。少年の周りの人間の行動を少しずつ変えたら?


 神一人にできることはちっぽけだ。でも、神がほんの少しずつ、たくさんの人間の人生を変えたら。一人の少年を救うことくらい、できるんじゃないか。


 藍はパソコンにメールを打つ。依頼者以外の、他の地の神に連絡をとり、少年の周りの人間の行動に関する分析を至急してもらえるように依頼をする。依頼者の神には、少年の行動によって起こりうる、その後の出来事を広い範囲で分析しなおしてもらう。


 藍は今度はデザイナーの部屋に飛び込んで、宵の後の時間である晩のブースに向かった。最悪のケースを想定し、少年がもし用水路に落ちて怪我をしたりしても、救助が来やすいように、夜だけれど、辺りが見やすいように、少し絵を修正してもらうお願いをする。


「これは管理員として私個人からの依頼です」


 晩は笑って頷いた。


「月明りをもう少し明るくしておくよ」


⛩ ⛩ ⛩


 作業を必死でしているうちに、とうとう締め切りの時間になった。


「藍さん!もう反映の時間です!早く!」


 管理員のオフィスはピリピリとした空気が漂い出す。


「すみません、もうすぐです」


 藍は最初に提出された雨の絵を眺めた。


⛩ ⛩ ⛩


 藍は宵のブースにやってきた。宵は、必死で筆を動かしていた。額には汗が浮かんで、宵のブースにしては珍しく床に物が散乱していた。


 しかし絵は、提出できるクオリティまでは達していなかった。藍がブースに訪れた気配を感じて、宵が振り返る。その顔は絶望感で今にも泣きそうに歪んでいた。


「先輩、すみません。まだ、完成しそうにありません。あと、あと5分あれば……」


「いいんだ。もう最初の絵を反映した。宵、頑張ってくれてありがとう」


 宵はぶんぶんと首を横に振る。


「申し訳ありません。僕がこれを完成させられなくちゃ、あの子は……」


「宵だけに責任を押し付けるようなことをしてすまなかった」


 藍は宵に頭を下げた。宵はその行動にわけがわからないと言うように目を丸くした。


「許してくれ。デザイナーの神一人にできることなんてほんのちっぽけなことなんだ。でも、神ひとりにできることがどんなにちっぽけでも、たくさんの神が協力すれば、人間一人の人生を、少しは変えられる」


 宵は椅子から立ち上がる。椅子は後ろに倒れた。宵は藍の横を通って走り出し、管理員のオフィスへ駆け込んだ。管理員のオフィスの大きな窓からは空の様子が見える。しとしとと静かに雨が降っていた。


 藍がその後ろに追いつく。


「あの子は無事ですか?」


 藍は頷いた。


「さっき、地の神から連絡が来た。用水路に落ちたことは落ちたが、擦り傷で済んで、今は元気に家で家族と夕食を食べているそうだ」


 宵はへなへなとそこにへたり込んだ。


「よかった……」


 安心して緊張がほどけたようで、くしゃっと顔をゆがめる。宵は眼鏡を取って、少し目をぬぐった。


 拍手がした。見ると、縹が二人に向かってあたたかな拍手をしている。拍手はやがて大きくなる。オフィス内の管理員の神全員が二人に拍手を送った。


 多くの神の協力で、一人の少年の人生を、ほんの少しだけれど、変えられたのである。

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