上野駅に到着すると、予告放送で集まるよう指示があった電報扱所の前には、大人達の目線より高い位置に臨時の大型ラジオが設置されていた。


 汚れ一つ見当たらない白い布に覆われた台の上に、ラジオがうやうやしく設置されている。さながら御神体を崇めるように、ラジオの周囲には貞春たちより先に到着していた大勢の人々が輪となって集まっていた。


 擦り切れたモンペ姿の婦人。色褪せた国民服を身に纏った壮年男性の姿。粗末な着物をまとった骨と皮ばかりの老人――皆が正午に予定されている玉音放送が流れるその時を、今か今かと待ち構えていた。


 定刻が近づくにつと聴衆は増えるばかりで、放送時刻が間近に迫ると人集ひとだかりに「苦しい」と不満を漏らした貞夫を考慮して、群衆から離れた位置で放送を見守ることにした。


 遠目から辺りを観察すると、皆一様に顔を強張らせて並々ならぬ緊張感を漂わせている。左前方の派出所では警官が増えていく群衆に睨みを効かせて立っていた。


 ついに正午を迎えると君が代の演奏から始まった。地方によっては受信状態が悪く、酷い雑音が混じっていたせいで何を言っているのかよく分からなかった人々も多かったと聞く。それでも上野駅前広場に流れる天皇陛下の声は、雲一つない青空のもと淀みなく広場に伝わった。


朕深チンフカク世界ノ大勢タイセイト帝国ノ現状ニカンガミ非常ノ措置ヲモッテ時局ヲ収拾セムト欲シココ忠良チュウリョウナルナンジ臣民ニ告ク――朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇シソ四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スルムネ通告セシメタリ――ガタキヲ堪ヘシノヒ難キヲ忍ヒ以テ万世バンセイノ為ニ太平タイヘイヲ開カムト欲ス――」


 初めて耳にする天皇の肉声は、貞春が想像していたよりも高音で、独特な抑揚とわざわざ難解な言葉を使用していたこともあってある種の滑稽さを聴くものに感じさせた。


 頭を垂れながら詔勅しょうちょくを聞いていた大人達のなかにも、詳細をすぐに理解するに至らなかった人たちもいて、困惑している顔がちらほら窺える。


 ただ、共通して理解できたことはあった。それは――日本が〝戦争に負けた〟という受け入れ難い事実。


 放送が終わるのを待たずに、せきを切ったように大人たちがあちこちですすり泣き始めると、地に伏して嗚咽を漏らす人まで現れた。

 日本が戦争に負けたという実感が瞬く間に聴衆の間に伝播でんぱしていくと、強烈な感傷が渦となってその場にいた人々を飲み込んでいく。


 そのなかで薄汚れた貞春たちと同じく、遠巻きに玉音放送を聞いていた浮浪者たちは、なんの未練もない様子でさっさと広場から消えていった。


 必死に唇を噛み締めて涙を堪えていた警官が、放送後も広場から離れぬ聴衆を分け入ってラジオを片付けだすと、背後からドタドタと駆けてくる足音ともに貞春の名を呼ぶ声が聞こえた。


「おーい、貞春」


 振り返ると、浅黒く焼けた肌から滝のように流れる汗を拭いながら、シゲチーが片手を振って駆けてきているではないか。

 貞春より一つ歳上の十五歳ではあるが、既に体付きは恰幅かっぷくのいい大人と比較しても遜色ない。生まれは両国で、空襲によって両親と幼い妹を同時に亡くしたと聞いている。


 これで気性が荒ければ愚連隊の仲間入りをしていてもおかしくないが、如何せん見た目にそぐわない臆病な性格の持ち主で、そこが長所でもあるのだが初めて会ったときなんて、年下の悪ガキたちに強請ゆすられていてところを救い出してやったほどだ。


「遅かったじゃないか。一緒に聴くって約束してた玉音放送は終わっちゃったぞ」

「ごめんごめん。でもタダで遅れたわけじゃないよ」


 おおらかな気性ゆえか、毎度待ち合わせ時間に遅れがちなシゲチーの小脇には、驚くほど大振りな西瓜が抱えられていた。


「おいおい……まさか〝田舎周り〟でもしてきたのか?」

「そんなんじゃないよ」慌ててかぶりを振って否定する。


 田舎廻りとは、戦火による被害が比較的軽微な農村部に出向いて農家から米や野菜といった農作物を手に入れる行為を指す。

 手に入れた戦果は都市部では高値で売られる。これは大人よりも断然子供――特に親をなくした浮浪児が盛んに行っていた。


 農家も自らの食い扶持を手渡すことになるのだから、そう簡単には譲っては貰えない。なかには強盗まがいの荒っぽい手口で盗みを働く者や、少しでも同情を買おうと血の繋がりもない幼い浮浪児を引き連れ、講談師ばりの口上で風呂敷一杯に戦果を持ち帰ってくる強者もいたほどだ。


 貞春も幼い貞夫を引き連れて一度だけ試したことがあったが、唯一の肉親をダシに使う行為はいつまでも後味が悪いものを残したので、結局一度っきりで手を洗っている。


「足の不自由なおばあちゃんを見かけてさ、須田町まで行くって言うもんだから背負って送り届けたら、お礼に貰ったんだ。冷やして食べたら、きっと美味しいよ」


 シゲチーは遅れた理由を告げると、西瓜の表面をポンと叩いて小気味いい音を響かせた。貞夫も真似してポンポン叩いて喜んでいる。なんせ西瓜なんて最後に食べたのいつのことか、すぐには思い出せないほど昔のことに感じた。


「シゲちゃん。この西瓜すぐに食べたい」

「そうだね。痛む前に食べちゃおうか」


 冷やさなくていいのかと思ったが、口の中はすっかり西瓜を食べる準備が整っていた。結局悪巧みを企んでる二人に貞春も乗っかることにした。


「いいこと思いついた。ヒロヤンが来る前に食べちゃおう」


 ここにはいない友の名を口にすると、上野駅のホームに汽車が滑り込むブレーキ音が聴こえた。構内に設置されている時計の針は十二時四十分を差している。


 ラジオが片付けられてもなお立ち尽くしている者。項垂れている者。前に進めない大人たちをよそに、貞春たちはその場をあとにした。

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