この祈りが君に届きますように

きょんきょん

昭和二十年 

 八月の空は気味が悪いほど蒼く澄んでいた。中天に燃え盛る太陽は地上にいる者を平等に照らしている。


 先の東京大空襲で建物という建物が焼失した。平らにならされた焼野原には数万の亡者の魂が今も成仏も出来ずに、陽炎となって揺らめいている。


 ぽつんぽつんと点在している電柱や支柱、剥き出しのコンクリートビルが犠牲者を弔う卒塔婆そとばに見えなくもない。


 戦禍を潜り抜けた生存者は、少しずつではあるが生活の基盤を作り始めている。あくまで人間として最低限度の話で、かつての生活とは程遠い。


 大量の瓦礫の山のなかから使えそうな廃材を見つけては、焼け残ったトタンと木材を繋ぎ合わせてバラックと呼ばれる掘っ立て小屋を建てたり、半地下の防空壕に雨水の侵入を防ぐ屋根を取り付けただけの壕舎ごうしゃを建てたりして、知恵を振り絞って雨露をしのいでいた。


 高台にいるわけでもないのに富士山を地上から望む上野の街並みを、沖浦貞春おきうらさだはるはシラミ対策に丸く刈りあげた毬栗頭いがぐりあたまを掻きながら、弟の貞夫さだおの手を引いて上野駅前広場に向かって歩いていた。


 親友の〝シゲチー〟こと菊田繁蔵きくたしげぞうから、「今日の正午に天皇が御自らラジオでお言葉を述べられるらしい」と聞いたときは耳を疑った。


 現人あらひと神――すなわち〝人の姿をした神様〟だと、口酸っぱく大人たちから教え叩き込まれてきた天皇が、まさかラジオを通じて国民に語りかける日が来るとは――。


 度重なる空襲で日本は電力の供給が逼迫ひっぱくしていた。にも関わらず、今日に限っては本来送電の予定がない地域にも特別に送電を実施するという判断がなされたことから、予定されている放送がいかに重要なものであるか伝わってくる。


「にいちゃん。ぼくたちどこ行くの?」

「これから天皇陛下のお話を聞きに行くんだよ」

「なんのお話かな」


 弟の貞夫は今年で八歳とまだ幼いため、〝玉音放送〟が意味する重大さをまだ十分に理解できていない。

「ふーん」と興味なさげに答えるだけで、甘さを感じない蒸かし芋の最後の一口を頬張りながら、指先についた食べカスを執拗に舐め取ることに意識を傾むけていた。


 その指先は老人のように骨張っている。栄養のあるものをここしばらく食べさせてやることができていないため、四肢から肉は落ちてアバラは浮き上がり、対称的に腹部は太鼓を詰めたようにせり出していた。

 典型的なの症状である。

 

 毎日のように餓死者がでる上野の街で、倫理や道徳はまるで意味をなさない。

 今日の命を明日に繋ぐためには、他人が手にしている食べ物を公然と掻っ攫うくらいの芸当ができなければ到底生き抜いていくことは不可能だった。


 それは貞春とて例外ではなく、兄弟で分け合った一本の蒸かし芋も元を辿れば、誰かの稼ぎとなるはずの商品を屋台から盗んで手に入れた盗品にちがいない。

 

 罪悪感がないといえば嘘になるが、繰り返すうちに不思議と慣れを感じていた。年下でありながら大人顔負けの組織だった犯罪に手を染める戦争孤児も珍しくはない時代に、貞春はせめて越えてはならない一線だけは跨がないよう固く誓っていた。


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