積み石

妙衣

積み石


 香菜かなは、亮喜りょうきが初めてその話題を口にした時の様子を今でも記憶している。


「なあ、積み石って知ってる? ほら、霊場なんかにあるやつ。例えば恐山みたいなところに石がたくさん積まれてるだろ、塔みたいに。(そう言われて、香菜は「ああ」と声を発しながら頭の中の薄ぼんやりとした知識に光を当てた)……そう。あれを積み石って言うんだけどさ――――」

「あぶない! 前見て」

「うん」


 こちらを向いていた亮喜は横滑り気味に姿勢を戻し、ハンドルを持つ手を強めた。

 車は長いトンネルを走っていた。

 ふたりの顔はオレンジ色の照明のために色を濃くした影ではっきりとは見えなかったが、輪郭の微妙な変化でわずかに動作を確認できたので、香菜の注意深い眼は恋人の油断を見逃さなかった。


「――――あ、でさ。あれって、どういう意味か教えてくれた人がいて、その人が言うには、積み石はあの世とこの世の境目をあらわす目印なんだって」

「へえ」

「その話聞きながら、俺、思い出したことあって。ほら、大学時代にダチと心霊スポット巡りするのにハマってたって、前に言ったじゃん?」

「言ってたね」

「でさ、回っていた中で一か所、妙な場所があったんだよね」

「うん」

「なんかさ、普通心霊スポットってやんちゃな連中に荒らされてさ、落書きとかいっぱいあんじゃん。でもそこにはないのよ。全然。けっこう有名な場所だし、しようと思えば落書きできるところ結構あんのよ、でも全くない。おかしくない?」

「そうかなぁ?」

「まあ、俺たちはおかしいと思ったんだよ。でね、一緒に来てた仲間の一人が、なんか心霊スポットの危険度を示す基準があるんだ、って言い出してさ、なんか、そいつが言うにはね、三段階あるらしくて。まず、落書きがいっぱい書かれているところ、これは一番安全。で、次に落書きが書かれていない、あ、もちろん全く知られていない場所じゃなく、それなりに知られているところね。そういう心スポで、落書きや悪戯がなんもない場所はやや危険。確かにそういうところは三四か所あったよ。で、一番危険な心霊スポットって言うのが、その、積み石が建てられているところって言われているらしくてさ。あったんだよ。積み石が……」


「へぇ~」と、香菜はいかにも興味深そうに相槌を打った。


 亮喜はその後も得意げに語り続け、最後に話のオチのようなエピソードを付け加えたが、その部分については忘れてしまった。


 今、車は林道を進んでいる。

 木々の向こうに青白い空気のヴェールを重ねた緑色の山並みが覗かれ、真っ青な空とのコントラストに、眠気で澱んでいた香菜の瞳は奪われた。


「あと二十分くらいでつくと思う」


 横で亮喜が告げる。

 少し前に、香菜がカーナビをにらみつつ「まだなの?」と催促したためだった。

 ただ車の走行音だけが支配する、静かな心地よい空間を不意に切り裂かれたので、もうちょっとタイミング良く回答をくれてもと香菜は思ったが、真っ直ぐと前方を見つめる亮喜の横顔に妙な頼もしさをおぼえた。

 山の麓の崖下に車は停まった。辺りはまばらに人家があり、ほとんどは廃屋と思われるが、多少の人気もある。

 平野部の気候はすっかり夏めいていたものの、山の方はまだ少し肌寒いだろうし、蚊や虻もいると思い、香菜は細めのカーゴパンツを穿き、薄手だが長袖の黒いニットを着たうえでさらに秋用のブルゾンを準備し、亮喜もTシャツに長袖のシャツを羽織っていたが、どうやら正解だったようだ。

 リュックサックを背負う彼に手を引かれながら、コンクリートに舗装された灰色の急坂を登って行くと、山へ続いているらしい小径に出る。


「この先……?」

「うん」

「ねえ、危なくない?」

「大丈夫だよ」


 いやに柔らかな亮喜の声。不安を感じつつも、香菜は彼の言葉を信じて従った。

 滑らかなアスファルトはすぐに途切れ、杉や楢の木に挟まれた仄暗い山路を歩まなければならなかった。

 スニーカー履きの足では辛いのではないか、トレッキングシューズが必要ではないかと思われたものの、いざ入ってみれば、香菜が予想していたよりは行きやすかった。

 虫除けスプレーを全身に浴びせてきたためか、蚊などの気配もあまりない。

 ただ、山特有のかび臭さや、じめじめとした空気には都会育ちの身としてはこたえるものがある。

 途中まで真っ直ぐだった道は大きなカーブを描いた後、蛇行し始め、道幅も四人から三人、三人から二人分の細さまでスケールを縮めて行き、先導者の後ろを歩く者の心細さに一層拍車をかけて行く。


「もう少しでつくから……」と亮喜が汗ばむ浅黒いうなじを見せながら言った。

「本当に?」

「うん。前も来たところだから心配しないで。歩くの、きついなら俺に掴まっていて」


 香菜は「もういい、帰りたい、帰ろうよ」と言いそうな口を押さえ、彼の腕にすがりつつ、ゆっくりゆっくり登った。


 赤茶けた地肌と下生えのモザイクが視界を席巻し、聞こえるものと言えば小枝や枯れ葉を踏む音。

 時折響いてくる鳥か猿か何かのけたたましい鳴き声だけが躍動する生命を感じさせた。

 もう少しで……と告げられてから十分ほどが経っただろうか、鬱蒼とした木々の並びに変化があらわれたかと思うと、不意に、トタンを葺いた赤銅色の小屋が目に飛び込んできた。

 小屋は、斜面を上がってすぐの場所に建っており、土砂崩れでも起きたら真っ先に転げ落ちそうなほど危ういバランスで持ちこたえているように見える。


「ついたの?」

「うん」


 最初の小屋から視線をずらすと、林木が拓かれた空間の奥の方に、また何軒かの廃屋が建っていた。

 それらは、過去、確かに人が住んでいたと思われる形跡があった。

 ある家の半開きになった引き戸の玄関の前には錆び付いた三輪車が捨て置かれ、また別の家の前のちょっとした広場には、三輪車以上に錆びて赤茶けてしまった井戸ポンプらしきものが、伸び放題になった草木の間から見え、またさらに別の家の軒先には、かつては盆栽が育てられていただろう鉢植えが三つほど置かれていた。

 よく見ると、干し柿等がつるされていたのではないかと考えられる紐の垂れた縁側が見える家もあった。

 しかし、どの家も麓の家々に比べるとややこぢんまりとした造りで、どれも瓦葺きではあるとは言え平屋であった。

 亮喜は集落に着くなり、ざくざくとした迷いのない足取りで奥に向かって行く。


「ねぇ、待って」

「いいよ、今はそこにいて、ちょっと確認してくるから!」


 すでに小さな人形に見えるほど遠ざかってしまった亮喜の声が響く。


「早くね!」


 置いてきぼりにされた香菜の声は空しく投げ出された。

 集落の跡はふたたび会話を失った。周囲を見渡しても、当然、自分たち以外に人の気配はない。もし、彼に何かが起きれば、私ひとりでなんとかしなくてはならないと香菜は思った。

 しかしそうした懸念は杞憂に終わり、ほんの四五分で亮喜は腰ほどの高さの茂みからふたたび姿を現した。


「どうだった?」

「あった! こっちに来て!」

「えっ、だって服が汚れちゃうよ」


 足下に生えた草花の葉が濡れていることに気づいていた香菜は断ろうと思ったが、もうとっくにパンツの裾が泥に汚されているという彼からの指摘にはあらがえず、仕方なしについて行くこととなった。

 また彼に手を引かれながら茂みに踏み込んでみると、靴下に水気が染みてきたので気持ちが悪くなった。


「すぐにつく?」


 涙声で香菜が訊くと、亮喜はすぐだと優しく答えたが、彼はこちらを振り向いてはくれなかった。

 私は、どうしてこんな山奥まで自分はついて来ているのだろうかと考えてみれば、ただ、スマートフォンのカレンダーに『亮君といっしょに心霊スポットへ行く』とメモしてあったからだ。

 自分がそれを書いた当時、何を思ってそう記したのかは見当もつかなかったが、嫌がれば、約束を反故にされたと亮喜が機嫌を損ねるだろうし、近頃は折り合いも悪かったので、彼の気持ちを取り戻したかった香菜は予定通りに動こうと決めたのだった。

 亮喜の案内した先には、太い杉の木の根元に祀られた小さな祠が据わっていた。

 祠のそばには大小様々な石の残骸が散らばっている。石は、草花と同様に湿っているように見える。


「これ、そこのバラバラになっているのがその積み石。というか、積み石だったもの」

「壊されちゃったの?」


 不吉なものを感じて、香菜は恐る恐る訊いた。


「そん時のツレがさ、やっちゃったんだ」

「亮喜の友達なんだ」

「俺たちもよくないとは思ったんだけどさ。その時は触るのも気味悪くて、慌てて逃げ帰っちゃった」


 祠は、とうの昔に忘れ去られた存在のようで、供え物はなく、薄汚れている。亮喜の話を聞きながら祠を見つめる香菜は寄る辺のない哀しさに飲まれていた。


「どうするの?」


 沈んだ瞳で亮喜を仰ぐと、彼は「うん、それでさ――――」と言いながら歩き始める。


「ちょっと、またこっちついて来てくれる」

「何、何、怖いよ」


 香菜は一生懸命に追おうとしたが、亮喜の向かう先が熊笹の藪だったので、思わず立ち止まってしまった。

 すると、ほぼ同時に彼も足を止める。


「なあ、聞こえる?」

「何?」

「川の音」


 彼に言われたとおりに耳をすませば、ざぁざぁと水の流れる音が木立の隙間から響いてくるのが分かった。

 そしてよくよく確かめてみると、藪と思われた方向には、やっと一人通れそうなていどだが、小さな道が続いているのが見えた。


「少し下って行くと渓流があるからさ、今からいっしょに来てくれる?」

「でも、大丈夫かな……」

「俺が前歩いて安全確かめながら行くから」


 そこまで言われると、断るのも気が滅入る。


「わかった。けど、危なかったらすぐに帰ろうね」

「うん。ありがとう」


 降りる前に亮喜はリュックから取り出した丈夫そうな厚手の軍手を香菜に渡し、自分も同様の軍手を手にはめ、香菜はそれに倣った。

 小径を進んでいると、斜面に生えた熊笹の葉に肩が触れた拍子に飛沫が舞って顔に掛かり、不快感に悲鳴を上げそうになったが、前方の亮喜が全神経を集中しながら足下の安全を確かめているので迷惑もかけられず、なんとかこらえる。

 今はしがみつくこともままならないので、木漏れ日の輝きをよすがとして、わずかな間だけ現実を忘れることでこの場を乗り切ろうと試みた。

 その試みは彼女の精神をどうにか救い、目的地まで無事に大人しくいさせられたのだった。

 たどり着いた渓流は深い青緑色の水面を湛え、川原は灰白色の石や岩に埋め尽くされており、恐らくここから持ち出した丸石があの積み石の材料だろうというのが亮喜の推察だった。


「今から二人でこの石を運んで積み石の塔を作り直したいんだけど、香菜も手伝ってくれる?」

「私も?」

「うん。俺一人でやるよりも二人でやった方が確実に早いからさ、頼むよ。重たい方は俺が持つから、軽い方をお願い」

「わかった……いいよ」


 渋々承知して、香菜は大きめの石を運び出した亮喜に続いて手のひらにおさまる石を二つ拾った。

 祠と川原は一往復に五分もかかった。距離としては目と鼻の先ではあるが、斜面が急であるのと、泥道、と言うほどではないにせよ、湿り気のある土に足をすべらせたり、木の根で盛り上がった部分で躓いたりする危険があったから慎重にならざるを得ないのだ。

 積み石が一体どれほどの高さになるのか、香菜には想像もつかなかったが、とにかくできるだけ多くの石を運んでくれと頼まれたので、やけになった彼女は無我夢中の形相で小石を拾い集めては上へ持って行った。

 大石を抱えながら亮喜は時々、彼女の身を案じて疲れたら休んで良いよと言ってくれたが、一度休めばしばらくは動きたくなくなるだろう――――そう思い、香菜は耳を貸さなかった。

 結果的に休みを取らず、十五往復ほどで亮喜からストップが掛かった。

 体力の限界だった香菜は、祠のそばに亮喜が敷いた一畳のレジャーシートに倒れ込むように腰を下ろすと、母乳を貪る仔牛のようにミネラルウォーターを飲み干した。

「お疲れ、ありがとう」

 最後の石を運び終えた亮喜がタオルを渡す。


「これでいいの?」

「ああ、あとは積み上げるだけ」

「私も手伝った方がいい?」

「そうしてくれると助かる」

「じゃあ、少し休んでから……」

「うん、じゃあ俺は先にあるていどまでやっておくから」

「怪我しないでね」

「ありがとう」


 水分補給し汗を拭ってから、亮喜は作業に取りかかり始めた。崩れた積み石の土台を修復するように、そこへ自ら拾ってきた大きめの石をがちゃがちゃと置いて行く。

 太陽はすでに真上で燃えていた。

 涼やかな川からの風も、蒸し暑さで台無しになっているようで、彼の額や背中は汗で濡れそぼって、ぽたぽたと滴をまき散らしている。

 彼の後ろ姿を心配しながら見守っていた香菜も、しばらくしてようやく体力が回復してきたので作業に加わった。

 円形に並べられた積み石の土台は、半径三十センチメートルはあり、ここからどのくらい大きな塔を造り上げる気なのかと、香菜は慄く。


「ねえ」


 大きめの石を亮喜といっしょに抱えて積み上げながら香菜が切り出した。


「ここってさ、いつごろまで人が住んでいたんだろう?」


 しかし、亮喜が答えなかったので、香菜は追い打ちをかけるように言葉を続ける。


「なんで、どうして心霊スポットになったんだろうね?」


「さぁ」と、彼は重たげな口調でようやく反応した。


「よくは知らないけど、先生によれば……」

「先生?」

「……あ、なんていうか、ちょっと詳しい人に訊いたらさ、ここには昔、山林の管理を任された数世帯が暮らしていたらしくて、その人たちは下の集落の住民とはちょっと毛色が違うというか、あんまり親しく交わらないようにしていたらしい。でもある時、ここで育った一人の娘が、下の集落の青年と関係を持ってしまって、村では大問題になってしまったらしい。結局、二人は引き裂かれる形で別れることになって、青年は村を出て行っちゃって、娘はここに置かれることになったんだけど、その娘はやっぱり青年と結ばれたくて、家出をしようと試みたんだけど、麓の集落の方じゃなくて渓流を渡って逃げようとしたら、夜で足下が見えなかったものだから、川の中で転倒してそのまま溺死してしまった、ということが起きた場所だそうだよ」


 亮喜はまるで取り繕うように語り出したかと思うと、作業の手を止めて、香菜の方も見ず、息継ぎも疎かに曰くを述べ尽くした。


「そんなの、嘘、でしょう?」


 率直な感想を疑問文に変えた。


 だが、亮喜は回答することなく、そう聞いただけだからと言ってはぐらかすと、おもむろに作業を再開したのだった。

 そこからの二人は互いに肌を接しつつもあえて触れ合おうとはしない、緊張した空気の流れる関係となり、たまに挿まれる小休憩と、亮喜の頭にある設計図に合わせた調整の際に投げられる「待って」「そこに置いて」等の指図を除けば、黙々と石を積み上げるだけの機械になりさがった。

 悪戦苦闘の末、石がとうとう百六十センチある香菜の肩まで迫ってきたところでようやく完成を見る。

 最後の一石を乗せた時には、すでに太陽が西に大分傾いていた。

 空を流れる雲が淡い黄色に染まっている。

 影は青黒く、香菜と亮喜の汗ばんだ顔は暗がりで怪しく光っている。


「もう、これで終わり?」


 木陰のレジャーシートで休みながら訊くと、


「うん、終わり」

「できあがったら、どうなるの?」


 亮喜の澱のように沈んだ声にそわつく心が思わず口をついて出る。

 彼は続けざまに放たれた質問を横面に受けつつ、まるで質問を追い風にして飛ぶ凧のようにふらふらと移動をしながら、


「あの世とこの世の境目ができたことになる」と静かに告げた。


 ――――それは、どういうこと?


 彼は切り株に置いたリュックサックを拾い上げ、また帰ってくるなり、伸びてきた女の手を取った。


「大丈夫? 歩けそう?」


 女は弱々しくうなずき、積み石を横目に覚束ない足取りで引かれて行く。


 ――――待って、私も!


 彼がこちらを振り返ることはなかった。ブルゾンを着たどこかの女を肩で支えながら去って行く。


「香菜、香菜、おかえり、香菜」と彼が愛おしげに言ったのが聞こえた。


 声に釣られて追いかけようとしたものの、前へ進めない。

 積み石の向こうへ行こうとしても、なぜだか足が竦んで踏み出せない。


 彼が、積み石はあの世とこの世の境目だと言ったから……彼が……誰が……?


 誰かを待っていた気がする、ずっと前から、ここで待つようにと、迎えに来るからと約束されて……。


 日が山陰に落ち、闇が降りてくる。

 虫が鳴いている。鳥が鳴いている。

 淵の瀬音と木々の葉の擦れる音が聞こえる。


 ≪了≫

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積み石 妙衣 @TAEKAZUMI

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