第28話:拙者もまた――
◆◆◆◆
「――光悦様、光悦様。こんなところでお昼寝ですか? もう風邪などひかぬ身とはいえ、おやめ下さいませ」
懐かしい声がした。鈴を振るような少女の声が。眠っていたのか意識が曖昧になっていた光悦は、その声で目を開けた。ずっと待っていた人が、ようやく来たようだ。光悦はゆっくりと頭を上げた。
「藤か」
そこには、彼が最後に見た時と同じ姿の藤がいた。成長した美しい花魁でもなければ、穏やかに老いた尼の姿でもない。まだあどけない少女の姿の藤だった。
「はい。お久しゅうございます。一日千秋の思いだったことでしょうね」
「いや……そうではない」
いざ待ち続けていた藤と再会すると、光悦は急に気恥ずかしくなった。
そもそも、自分と藤の関係はさほど深いものではなかったはずだ。目を落として、今さらながら光悦は気づいた。自分が帯刀していなかったことを。
「お届けに上がりました」
「なに?」
「お腰のものをお忘れでしたよ。ですので、私がこれをお持ちしました」
どこからともなく、藤は重そうに大小を取り出して光悦に差し出した。
「かたじけない」
光悦は刀を受け取る。今まで感じなかった重みが手に伝わってきた。長い間握っていなかったので、重さを忘れてしまっていたのだ。しかし、腰に帯びるとしっくりときた。よく今まで気づかなかったものだ。自分とこの刀とは不可分の関係だったはずなのに。そしてふと思う。藤が自分と再会する理由として、刀を持ってきてくれたのだろうか、と。
「どうしました?」
「なぜ禿の姿だ? お前は、尼になったはずではないのか」
光悦としては、花魁の藤でも尼の藤でも会えるのならば構わなかった。
「あら、どなたか既知の方からお聞きになられましたか。でもよいではないですか。私がこの姿でお会いしたかったのですから」
藤は何食わぬ顔でそう言う。
「そうだな。その姿のお前に会えて嬉しい」
「ふふ。口がお達者ですこと」
藤はころころと笑う。その様子はまるで小鳥のようで、大変に愛らしかった。思えば、禿の藤しか光悦は知らなかった。ならば、この姿で藤が現れるのも道理だろうか。あまり禿の姿にこだわると自分が妙な性癖の持ち主に思われそうだが、世間体というものはもうここにはない。半ば諦めて光悦は目の前の禿を受け入れる。
「死病を患う拙者に、未練などわずか、と思っていた」
藤の光悦を見る目は、在りし日と変わらない、何一つ物怖じしないものだ。その目に惹かれたのだった。だが、今の藤の目にもはや狂気はない。
「藤、お主に最後に会った時、拙者は言った。『黄泉路を一人で歩けぬほど、拙者は幼くはない』と。情けないことに、拙者は幼かったようだ」
「ええ。よく存じております。ですから、こうして私が来たのですよ。割れ鍋に綴じ蓋、と昔から言うではないですか」
まるで諭すように藤は言う。
「成仏せずにいる拙者を見て、無様とは思わぬのか?」
「殿方の重たい情を向けられるのには慣れておりますので」
さらりと藤は流す。彼女が尼として長く人々を助けてきた、その人生の厚みを感じた。
「すまぬ」
「謝らないでくださいませ。それに、光悦様は今ここにおられるではありませんか」
藤はそっと光悦の手を握った。あの時、死の床にあった時に藤が手を握ってくれたことを光悦は思い出す。不思議なことに、死しているというのに藤の手はあの時と同じく、柔らかで温かだった。剣など握ったことのないその手の感触がひどく心地よい。
「光悦様が私のことを覚えていてくださったように、私も光悦様のことをずっと覚えていました」
光悦はその小さな手を握り返した。
「よい男に身請けしてもらい、幸せになれ、と拙者は言ったはずだ」
「私は充分幸せ者でした。ただ、良縁には恵まれなかっただけですよ」
光悦の言葉などどこ吹く風、と言わんばかりに藤は平然と返す。
「戯言を。吉原一の花魁など引く手数多であっただろうに」
「まあ、焼き餅ですか?」
「茶化すでない」
光悦は苦笑する。記憶の中の藤はいつもこうだった。光悦の四角張った言動を軽くいなしてしまう。それが藤なりの気遣いであると、今は分かるのだが。
「藤、お前はもう吉原の遊女ではないのだろう?」
「はい。そして尼でもありません。ですので、共に行くことに後ろ指を指されることはありません」
藤はそっと手を引く。あの、進み続ける無数の人の流れへと。しかし、光悦は一歩を踏み出さない。
「光悦様、どうかなさりましたか? やはり、気が進まないのですか?」
「いや」
光悦は藤の肩に手を置いた。
「ただ、お前に会えたことが嬉しくてな。言葉が出てこなかっただけだ」
「ふふ、そういう誉め言葉、できれば生前お聞きしたかったです」
「あの時のお主はまだ禿だっただろう」
そう言いつつ、ようやく光悦は一歩を踏み出した。思いのほか足取りは軽かった。
「どこへ行くのだろうな」
仏僧の説話で聞いたあの世とは、この先は少し違うような気がする。
「どこでもいいではありませんか。せっかく塵界のしがらみから離れられたのです。花鳥風月の如く、行雲流水の如く、自由に行きましょう」
「ああ、そうだな」
藤に手を引かれ、光悦は歩く。どこだろうか、ここは。春の桜並木のようであり、夏の海岸のようであり、秋の薄野(すすきの)のようであり、冬の山野のようでもある。
ただ、ひどく心が穏やかになる。懐かしく、郷愁をかき立てられる場所だ。
「お主の父母に会わねばな」
何気なくそう光悦は呟く。これが他界への道ならば、その先に藤の父母がいることだろう。きっと藤にとっては、待ち焦がれた再会となるはずだ。
「まあ、律儀ですこと。『娘をくれ』ととと様におっしゃいますか?」
「お主も会いたいだろう?」
「ええ、もちろん。ですが――」
そっと藤は身を寄せる。着物越しに藤のぬくもりを確かに感じた。
「今はこうしているのが、心地よいのです」
「拙者もだ」
多くの人が行き過ぎていく。けれども、誰一人として二人に気づく者はいない。彼らは彼らの道を行く。だからこそ、ようやく光悦は正直に自分の思いを告げた。
「お主を未練がましくずっと待っていた」
「はい。一目見て分かりましたよ。まるで迷子のようでした」
「共に来てくれるか?」
「お望みのままに」
その言葉を、自分はずっと待っていたのだろう。ようやく、未練というものが消えていくのを光悦は感じていた。
「皮肉だ。死してようやく、生きることとは何かを悟るとは」
孤立無援。それが志度光悦という男の生だった。死病を患い、他の者たちが当たり前のように享受する生きる喜びを知らずに、ただ這いずるようにして生きてきた。だからこそ、彼の剣は異形の流派である外刀流によって冴え渡った。彼にとって生きるとはもがくことであり、生の実感は病の苦悶だった。
それなのに今、心はこんなにも穏やかで明るい。隣に藤がいてくれること――それが望みだったのだ。人を愛しく思うこと――それが生だったのだ。今ようやく、生きることの歓喜を知った心は晴れやかだ。
「あら、光悦様。そのお顔は初めて見ました」
ふと、光悦の顔を見上げた藤がそう言う。
「どんな顔だ?」
「晴れ晴れとお笑いになられた顔です」
そうだろう。思えば一生涯病と共にあった生だ。今までの光悦の笑みとは、猫がネズミをいたぶるときのような、死闘を前にして冷えた血を滾らせる不気味なものだった。だが、死してようやく、生の苦渋から解き放たれたのだ。もう、無理やり口角を釣り上げる必要はない。ただ――心のままに笑うことができる。
「男前ですこと」
「相変わらず、お主は口が上手だ」
「太夫でしたから」
「ふっ……」
「あ、また笑いましたね?」
「いや、すまぬ。あまりにもお主らしいと思ってな」
光悦は藤の手を握る力をわずかに強める。すると、藤は指を絡めてきた。温かくて、柔らかな手。そして、安心するような匂い。
「この先どうなるのか、拙者には分からぬ。しかし、それでも共にいてくれ」
「はい。もちろんです」
そうして二人は歩き続ける。その道は果てしなく長く、けれど、何一つ不安はなかった。光悦は空を見上げて、呟く。
「拙者もまた――幸せ者であった」
とある無名の剣客と、とある有名な花魁の話はここで終わる。
しかし、きっと二人の物語はまだ続いていくことだろう。
花鳥風月の中に、行雲流水と共に――――どこかで。
◆◆◆◆
(完)
刀花幽明譚~とある肺病を病んだ剣客と吉原の少女のつかず離れずの話 高田正人 @Snakecharmer
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