第20話:その病が、お前の剣の道を絶ってもか?
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秋も終わり、徐々に風の冷たさが冬のそれに変わりつつある日の午後。外刀流の道場で向かい合うのは光悦と、一目見てただ者ではないと分かる壮年の男性だった。彼は外刀流とは違い、由緒正しい柳生シン陰流の剣客、御子柴芳次(みこしば よしつぐ)である。将軍家剣術指南役という、このようなただの道場に絶対にいるはずのない人物だ。
シン陰流免許皆伝の彼は尚武の気風が甚だ盛んであり、時にこうして身分を隠してあちこちの道場で腕比べとしゃれこんでいる。もっとも、町人はまだしもここにいるのはいずれも剣術を学ぶ者だ。彼の身分はとうの昔にばれている。実際芳次もこの道場では、ことさら出自を偽ることはない。
まさか将軍家直々の剣術指南役に木刀を当てることはできない。しかし、同じ武道に生きる者として、身分を越えて技を競い合いたい気持ちもまたある。芳次の豪快な人柄も手伝って、このお忍びの勝負は江戸の道場の公然の秘密となっていた。元より外刀流の指南である長谷川正忠は、この芳次の顔なじみである。
「――えぇい!!」
割れんばかりの芳次の気合い。鼓膜が震えるだけでなく、後ろめたいものが浴びせられれば身がすくむ迫力である。振られる木刀を体を密着させてかわすのは光悦だ。
「……ふっ!」
爬虫類が威嚇するような短い気合い。ぬるり、と光悦の木刀が突きの形となって伸びる。振り下ろされた芳次の木刀が、間髪入れずに切り上げられる。
受けずに光悦はよろけるようにして後ろに下がった。ふらふらと的を絞らせない外刀流の流れに吞まれると、並の剣客ならば苛立ちと焦りで自然と動きが大雑把になる。しかし、芳次は静かに木刀を正眼に構えた。よどみない水の流れ、苔むして大地に据えられた大岩。その二つが彼の構えに体現されている。剣客ならば惚れ惚れするような立ち姿だ。
光悦はひるまずに攻めかかった。転がるようにして木刀で足を払おうとする。惑わされずに、芳次は紙一重で届かない位置にずれる。同時に芳次の激しい踏み込み。
「せやぁあああ!」
床板が割れんばかりの音が響く。胸のすくような音だ。振り下ろされた木刀を光悦は受け、手首のひねりを利用しつつ脱力する。相手の刀を絡め体勢を崩そうとする。
だが、芳次は踏みとどまる。熟達の剣客の前に、搦手は通用しない。光悦が切っ先をひっかけるようにして芳次の額を狙う。同時に芳次の突きが放たれた。互いに理解している。芳次は強く踏み込むことによって切っ先からわずかに逃れることを。光悦は絶妙な間合いで身を倒すことによって突きをかわすことを。
――しかし。
「……ぐっ」
光悦の、それまで風に揺らぐ煙のような動きが大きく乱れた。耐えるように、堪えるように体が硬くなる。明らかに、肺からせり上がってくる不快感を必死で押さえ込もうとする動きだ。畢竟芳次の突きはかわすことができず、その切っ先が光悦の胸を、肋骨の間をめり込むように突いていた。
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「……参りました」
その突きが決め手となり、光悦と芳次の立ち合いは終わった。肺腑を抉るようにして突かれた木刀の突き。その激痛を顔に出さず、光悦は木刀を置いて芳次の前に伏す。
「うむ。影と切り結び、煙と争うかのような手ごたえのなさ。まさに変幻自在の外刀流に相応しき剣であったぞ。見事」
「……もったいないお言葉です」
あくまでも平静な光悦を前に、芳次が目を細めた。
「さすがは長谷川正忠の秘蔵っ子よ。あ奴、良い弟子を持った」
「……いえ」
「隠すでない。お前の太刀筋は柳のようにしなやかであり、決して折れず曲がらず、同時に隙あらば果敢に攻める意思を秘めておる。巣を張るオニグモの狩りを見たことがあるか? 某はお前の剣にそれを見たぞ」
こう見えて、芳次の趣味は昆虫の採集である。彼は光悦の剣に蜘蛛の如き狩猟本能を見出したらしい。
「……師の長谷川正忠殿の教えあってのこと。これからも精進いたしまする」
神妙に伏せる光悦を見て、豪快に芳次は腕組みをする。
「しかし――どうした? 最後にお前がよろけたのは、某の剣によるものではないな?」
「……いえ、拙者の力量が芳次様の気迫に呑まれただけのことです」
敗軍の将は兵を語らず。光悦は素直にそう言うが、芳次は少し困った顔をする。
「いや、まあ、お前がそう言うのも分かるがな。某は別に問いただしているわけではない。言い訳とは思わぬ。いったいどうしたのだ?」
芳次がさらに尋ねるので、光悦は顔を上げた。
「……恐れながら、持病が悪化し時折呼吸が乱れまする」
「肺病か」
「……はい。医者の見立てでは、そろそろ覚悟を決めるべき時だとか」
「そうか。無念よな」
芳次は改めて光悦を見る。痩せた一目で病身と分かる青年だ。胡乱な目と気配は、身を蝕む業病の故。もしそれがなければ、光悦は飄々とした行雲流水の如き好漢だったことだろう。
「……己に課された宿命と受け止めております。これもまた、剣の糧になるかと」
病さえも剣の鋭さに変える。剣客としての模範解答を、しかし芳次は一喝する。
「その病が、お前の剣の道を絶ってもか?」
光悦は黙った。どれだけきれい事を並べても、病は病だ。病のせいで剣は衰え、身は衰え、やがて無惨に死ぬ。その無念は決して消えはしない。
「……受け止めなくては、なりませぬ」
ややあって、血を吐くようにして光悦は言った。何度も何度も自問自答した。業病に対する怨み。活人剣に対する妬み。師の長谷川正忠にも問われ、今ここでシン陰流の御子柴芳次にも問われる。たとえ鬼に変じるほど我が身を呪っても、病は消えない。受け止めるしかない――そう応えるのが光悦の精一杯だった。
光悦の言葉を、芳次は噛みしめるようにしてうなずいた。
「某も今は壮健だが、後二十も生きればお前と同じ所に立つであろう。その時某はどうするだろうな? 仏にすがるか、それとも仏を恨むか。みっともない最期は迎えたくないものだ」
そうなのだ。光悦はただ早いだけ。いずれはどんな剣客も光悦のように衰えて死ぬ。誰も逃れられない。
芳次が膝を折って光悦の肩に手をかける。淀んだ光悦の目と、年齢を経てなお少年のように清涼な芳次の目が合う。
「言わば、お前は某の先達だ。清濁併せ呑むその姿勢、学ばせてもらうぞ」
無様に生に執着しつつ、己の運命を受け止めていく。生を諦めれば剣は捨て鉢になり、運命を受け止めなければ剣は迷う。光悦はそれをぎりぎりで成していた。
「……何とももったいなきお言葉。身に余る光栄にございます」
改めて光悦は伏して感謝する。病に蝕まれた身に変わりはない。だが、師の正忠もこの芳次も、それを超えて男として見てくれることが嬉しかった。
「それにしてももったいないな。お前、本当にシン陰流の門下になる気はないのか?」
芳次が以前から勧めているのは、光悦にシン陰流を学ぶようにとの誘いだった。著名なシン陰流を学ぶのみならず、その師範である芳次、しかも将軍家剣術指南役からの誘いである。普通ならば色めき立って当然であるが、光悦は断る。
「……拙者は病魔に侵された身。もし芳次様やその身内の方々に病をうつしてしまっては、申し訳が立ちませぬ」
光悦の肺病は幸い伝染性のものではない。共に暮らす門下生にも、師の正忠にも彼の病がうつったことはなかった。しかし万が一、光悦の死病が芳次に伝染した場合を考えれば、とても光悦はその誘いに応じることはできなかった。そしてまた――仮にシン陰流を学ぼうとしたところで、残された時は少ないということもある。
「しかし、お前ほどの腕があれば……いや、無理強いはせぬが」
「……重ね重ね、拙者にはもったいないほどの厚遇の誘い。感謝いたしまする」
もとより芳次ははるかに身分が上であるだけでなく、幕府に仕える柳生の身内である。逆に言えば、このような道場で好き好んで一般の剣士と渡り合う彼は、身分を気にせず剣に邁進する豪胆な侍なのだった。
「くれぐれも、体に気を付けて励めよ」
「……はっ」
再び頭を下げ、光悦はその場を辞した。芳次の目に、わずかに憐れむような光が宿ったが、すぐに消えた。死に対して昂然と受け入れようとしているのが光悦という剣客だ。それを不憫に思うだけでなく、男児として背を見守る。それが芳次という一人の男としての敬意だった。
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