第19話:……許せ、とは言わぬ。済まなかった
◆◆◆◆
徒桜が荘子楼の中に消えてからしばらく経ち、光悦が居心地の悪さを少し感じ始めた頃、ぱたぱたと藤が奥から出てきた。
「まあまあ。これは光悦様。お久しゅうございます」
藤は可愛らしく前掛けをつけ、それで手を拭いている。
「……仕事中に呼び出して済まない」
自分の間の悪さに頭痛さえ光悦は覚えた。しかし、藤は気にせずほほ笑む。
「夕餉の仕度のお手伝いをしておりました。白粉や沈香の香りの代わりに、味噌と焼き魚の匂いがするのはお許し下さいませ」
「……迷惑だったな。すぐに帰る」
「ふふ、姐さんたちも生温かく見守っていますよ。情に棹さして流されるお侍様は絵になりますので」
光悦は空恐ろしくなる。どうやら自分は藤に熱を上げていると思われているらしい。
「それで、ご用の趣は? もしかして、寂しくなられました?」
まるで一流の太夫のように、藤はそんなことを言ってきた。
「……いや」
これではまるで花魁に袖にされて醜態をさらす野暮天だ。何から何まで藤の手の平の上にいる気がしつつ、光悦は覚悟を決めた。
「……藤」
「はい」
彼の覚悟を知るはずもなく、藤は無邪気な顔で彼を見上げる。
「……世話になった。お主が引き合わせてくれたおかげで、拙者はまた少し、剣の道を究めることができたと思う」
「鬼を斬ることが剣の修行になるのでしょうか?」
「……然り」
そう言いつつ、光悦は風呂敷包みを彼女に差し出した。
「……これは礼の品だ。よければ受け取ってくれ」
「まあ、何でしょうか?」
いそいそと藤は受け取り結び目をほどく。
「これは……」
「……猫だ」
「ええ。見れば分かりますとも」
風呂敷の中から出てきた三毛猫の焼き物を見て、藤は目を丸くしつつもそっと両手で持つ。
「ふふふ、可愛らしい猫ですこと」
気に入ったか、と聞こうとしたが黙る。間合いを保ち、後の先を狙うかのように待つ。
「とても気に入りました。これをもらってもよろしいのですか?」
「……ああ。同門の者たちと探し回ったが、お主の迷惑にならぬものが贈れたようでほっとした」
「それはそれは。吉原の女の冥利に尽きます」
藤は愛おしげに手で猫の背を撫でる。
「私、この子を枕元に置こうと思います。一緒に布団の中で寝ることはできませんけど、枕元なら皆の邪魔にもなりませんし」
「……そうか」
じっと藤は猫を凝視する。
「名前をつけましょうか。三毛猫ですから……ミケ、それとも……タマ。いいえ……」
不自然なほど藤は猫の焼き物を見つめ続ける。まるで、自分の心の奥底にどんどんと沈んでいくかのように。
「……モミジ」
ぽつり、と藤は呟いた。
「……良い名前だな」
光悦の声が聞こえないかのように、藤は憑かれたように猫から視線をはずさない。
「……きっとこの子は、いたずら好きで、ネズミを捕まえるのが上手で、でも甘えん坊で――」
藤の唇がとめどなく言葉を紡ぎ続ける。
「……夜はすぐに布団に入ってくるし、私もこっそりと台所から煮干しや鰹節を持ってきて、夜やって来たモミジにあげて、そのまま抱きしめて布団に――」
――ぽろぽろと、涙が藤の目からこぼれた。
「あれ――? 私……私……なぜ、泣いているのでしょう――?」
「……藤」
涙が藤の頬を伝って、猫の焼き物の上に落ちた。
「どうしてでしょう? この子を見ていると――なぜか、ひどく懐かしくて――悲しくて――知らず涙がこぼれてしまいます――」
涙腺だけが壊れてしまったかのように、泣き声さえなく涙だけが藤の目から流れ落ちる。
「……お主は」
きっとそれは、藤の忘れてしまった記憶だろう。忘れなければ、生きていけなかった記憶だ。大店の娘として育てられ、何不自由なく暮らしていた頃のことだ。きっと彼女の側に、この焼き物のような三毛猫がいたのだろう。彼女はそれをいたく可愛がり、寝ても覚めても一緒にいた。あの夜――彼女を除いた皆が盗人に惨殺されるまで。
だから、藤は壊れた。狂うことによって、幸せだった日々を一切合切忘れ、吉原に生きる一人の禿として平然と生きている。図らずとも、光悦の贈った猫の焼き物は、藤の塞がっていたはずの古傷をわずかに開いてしまったのだろう。涙は滲み出た血だ。
「も、申し訳ありません。あの、私は――どうして……泣く理由などないのに……涙が――――」
こちらを向いて懸命に笑おうとして、しかしできずにいる藤を見て、光悦は初めて肺病以外の理由で胸が苦しくなるのを感じていた。
「……もうよい」
手を伸ばして藤を抱こうとして、光悦は止めた。自分は人を斬ることを熱望し、事実人を斬った男だ。血の臭いを藤につけたくはなかった。
「……涙は自然のものだ。泣きたいのならば、泣くとよい」
光悦の言葉を待っていたかのように、藤は彼にすがりついて号泣し始めた。何度もしゃくり上げ、声を上げて泣いた。かすかに「とと様」「かか様」という言葉が嗚咽に混じる。光悦は藤のしたいようにさせていた。
「……許せ、とは言わぬ。済まなかった」
藤の泣く理由をかすかに察し、光悦は呟いた。藪蛇なことしかできない自分が情けなかった。
◆◆◆◆
ひとしきり泣き終えてから、藤は光悦の着物から顔を上げた。ひしと掴んでいた袖からも手を離す。
「――みっともないところを見せてしまいました」
「……お主はまだ童女だ。気にする必要はない」
「今日だけは、自分が太夫ではなく禿だったことに感謝しております」
もうその顔は、いつもの痴れた故の落ち着きで満ちた顔だった。
「泣くだけ泣いたらすっきりしてしまいました。私、なぜこんなに泣いたのでしょうか?」
「……拙者の贈った品があまりに無粋で、涙が出るほど呆れたのであろう」
「もう、茶化さないで下さいませ。私はこの子がとてもとても気に入りました。光悦様の贈り物、大変に嬉しかったですよ」
「……気に入ったのならば、拙者も肩の荷が下りた」
「はい。毎夜枕元において、朝起きたら声をかけて撫でてあげようと思います」
藤のその言葉は、先程の繰り返しだ。
「……いつまでもお主を引き留めていては迷惑がかかる。これにて御免」
「はい。ぜひ今後も荘子楼をご贔屓下さいな」
身を翻す光悦に藤は頭を下げる。去り際に、光悦の耳に藤の呟きが聞こえた。
「この子の名前……何にしましょう」
光悦は思わず振り返った。藤は焼き物を抱え、にっこりと笑った。
「とりあえず、ミケにしましょう。ねえミケ?」
その笑顔は何の心痛も憂いもない、しかしそれ故にどこか空虚だった。光悦はそれ以上何も言わずに妓楼を後にした。自分のしたことが果たして良いことだったのか、それとも悪いことだったのか、彼には最後まで分からないままだった。
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