絵描きと死んだ娘の話

尾八原ジュージ

絵描きと死んだ娘の話

 むかし、ひとりの男がいた。画家を志していたが、あまりに売れないものだから、墓守の仕事をやることにした。

 墓守は広い墓地を一日二回、それも一度は真夜中に隅から隅まで見回らねばならない。そのうえ、たまに墓穴から這い出してくる死者を、元のところに戻さねばならない。とてもじゃないが愉快な仕事とは言えなかった。その代わり待遇は悪くないし、見回りさえ済ませてしまえば、あとの時間は概ね絵を描いて過ごすことができた。

 そういうわけで、男は墓地を見守るかたわら、墓地のすぐ横にある小さな古い家で絵を描いた。新しいキャンバスをなかなか買えないので、つまらない絵はどんどん塗りつぶしてその上にまた絵を描いた。それで、男の絵は少しずつ分厚くなっていった。


 ある真夜中、男が墓地を巡回していると、先日病気で死んで埋葬されたばかりの娘が、自分の墓石に腰をかけてぼーっと空を眺めていた。青白い顔の美しい娘だった。土まみれのドレスは桃色で、肩には長い黒髪がゆったりと垂れていた。

 男は娘に声をかけた。

「こんばんは」

 娘は死人の目で男を見つめた。

 むろん、こうした死人はもとの墓穴に戻されねばならない。ところが男はそうしなかった。娘があんまり綺麗だったので、ちょっとの間絵のモデルをやってはもらえないかと考えたのだ。貧乏な絵描きに金を払ってモデルを雇う余裕はなかったし、第一墓地の隣の家に住んでいると知れた途端、若い娘はみな気味悪がって離れていくのだった。

「実は、僕は画家なんだが、絵のモデルになってくれるひとがいないのだ。よかったら君、手伝っちゃもらえないだろうか」

 そう言うと、男は娘に向かって右手を差し出した。死人はなにを考えているのか、差し出された手をじっと見つめていたが、やがて冷たい手を伸ばし、男の手をとった。

 それでふたりは連れ立って、墓地の隣の小さな家へと歩いていった。男は娘を家に入れると墓へとって返し、墓穴を埋めて痕跡を隠した。

 

 それから男は寸暇を惜しんで絵を描いた。なにせ娘は死人だから、刻一刻と腐ってゆく。モデルを務めてもらえる時間はそう長くない。

 娘の蒼白い顔はだんだん黒ずんでいき、いやなにおいが家中にただよい始めた。それでも男にとってはまだ十分だった。娘の長い黒髪は肩の上で渦をまき、憂鬱で繊細な顔立ちはまだ生前の美しさをとどめていた。

 部屋の中に置いた小さな椅子の上で、娘は静かに、ちんまりと座っていた。ときには林檎を手に載せ、ときには頭にうすいレースを被り、またときには床の上に立ってみせた。

 画家は画帳に所狭しと娘の姿を描いた。食事を少し減らして新しいキャンバスを買った。その合間には墓守の仕事もこなした。娘の墓に毎日のようにあたらしい花が手向けられるのを、彼は申し訳ない気持ちで見守った。


 ある朝男が目覚めると、娘の姿がなかった。

 男は娘を探しに、大慌てで墓地に向かった。さいわい、娘はすぐにみつかった。自分の墓石に座って空を眺めていたのだ。

「君、もしかして空が見たかったのかい」

 男が尋ねると、娘はどす黒く膨れてきた顔で小さくうなずいた。その顔を見ながら男は考えた。彼女は長く病んでいたそうだから、ベッドの中から空を見上げるくらいしか、楽しみがなかったのではなかろうか。そう思うと、すぐに連れ戻すのが申し訳なく思われた。

 男は墓石の横に立ち、並んで空を眺めた。目のさめるような青を背景に、雲雀が歌いながら飛んでいった。美しい朝だった。

「君、空が好きかい」

 娘はうなずいた。

「雲雀も好きかい」

 娘はまたうなずいた。

「ぼくも雲雀のように空を飛んでみたいと思うときがあるよ。君にもあるかい」

 娘はまたうなずいた。

 男は娘の膨れ具合と腐臭の強さをみて、そろそろ墓穴に戻さねばならないだろうと思った。

「君にはずいぶん世話になったから、どうだろう、ぼくが空の上へ連れてってあげるというのは。もっとも、絵の中での話だけども」

 娘は素直にうなずいた。

 それで男は娘を連れて家に戻った。いつもの椅子に娘を待たせておいて、まずはキャンバスを外へ出すと、ありったけの青や白の絵具を出してきて空を描いた。大急ぎで描いたわりにはなかなかよい出来になった。

 それから部屋に戻った。椅子にちんまりと腰かけ、腐って蕩けかけた娘を見ながら絵を描いた。絵のなかで、娘は生前のような姿に変わっていた。白い頬は薔薇色に輝き、黒髪は艶々として、ほころんだ唇のあいだに白い歯が見えた。桃色のドレスを着た娘が絵の中の青空の中を飛んだころ、空はもう夕暮れだった。

「どうだろう」

 男は胸をどきどきさせながら、娘に絵を見せた。娘は白く濁った両目をこらしてじっと絵を見つめた。それからここへ来てはじめて、ぎこちない笑みを頬にうかべた。

「それはよかった」

 男は満足してそう言った。「僕もうれしいよ」

 その晩、辺りが真暗になってから、男は娘を墓へ連れていった。男は埋めて隠した墓穴を掘り返し、娘は自分から進んでその穴の中に入っていった。もう二度と出てくることのないようにと、男は土を叩いて丹念に固め、墓石の位置を直した。それからひとり、家に帰った。

 座る人のいない椅子が、ぽつねんと部屋の真ん中にあった。とたんに、胸に深い穴が空いたような虚しさが男を襲った。


 青空を飛ぶ娘の絵は、男の作品の中ではたいへん出来がよかった。たまたまそれを見た人々は、娘が生前にモデルを務めたのだろうと思った。それほど絵の中の娘はいきいきとして見えた。

 何度か売ってくれと頼まれたが、男はそのたびに売り物ではないからと断った。娘との思い出のためにとっておきたかったのだが、やがて手放すときがやってきた。噂を聞きつけたのか、娘の両親が男の元を訪れたのである。

 代金を払うというのを強いて止め、男は夫婦に絵を贈った。遠くの空で雲雀が鳴いた。


 それから男は墓守の傍ら、若い娘が大空を飛ぶ絵を何枚も何枚も描いた。だが、あの一枚よりもよく描けたものは一枚もなかった。やがて男は、あの娘の絵が自身の最高傑作だったと認めなければならなくなった。

 男は墓守をしながら絵を描き続けた。たまに死人が墓穴からでてくることがあれば、粛々と墓穴に戻した。もう死人にモデルを頼むことはなかった。

 墓地を見回って、絵を描いて、墓地を見回って、絵を描いて、そのうちに老いて男は死んだ。

「今日は君が空へ連れていってくれるのか」

 朦朧となった男が今際の際にそう呟いたのを、看取った医者だけが聞いていた。傍らのイーゼルにはキャンバスが立てかけられており、一面に塗りたくられた青と白の絵の具はまだ乾ききっていなかった。

 男は最後の最後まで売れない画家で、そして墓守のままだった。生涯勤めた墓地の片隅にひっそりと埋められた彼が、穴から這い出してくることは一度もなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

絵描きと死んだ娘の話 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ