第十五話 邂逅

その日は、まぶしい程に綺麗な満月が出ていた。

夕食を終えて自室に戻った雪穂は、ベランダからなぜかその月を見ていた。

「綺麗だな……」

今まで、それに惹かれたことなどほとんどなかったというのに。

だが、彼女はそれに全く違和感を抱かなかった。まるで、ずっとその銀色に輝く月が、好きだったかのように。


ベランダから外に向けて、手を伸ばす。

まるでそれは、傍から見れば月に向けてそれを掴もうともしているようにも見えるだろう。

「……痛っ」

頭の右側のあたりに、鈍い痛みが走る。

雪穂は祈るように、魔除けのペンダントを握りしめながら、気づけばどこかへと歩き出していた。

「ちょっと雪穂!こんな時間にどこ行くのよ!」

母親の制止する声も届かず、そのまま家の扉を開けて外まで向かう。


月明かりに照らされた夜の道は、仄暗いながらも前がはっきりと見えるほどには明るい。

少し肌寒い夜の道を、寝間着のまま雪穂は歩いていた。

どこに向かうでもなく、何かに惹かれるようにして、歩いていた。

最早そこに自分の意思や意識などは、なかった。


「……おや、ついに"目覚めた"のかい?」

明らかにそこから浮いた雰囲気の、ひどく色白な男がそこに佇んでいた。

肌の色こそ病人のように青白かったものの、そこに不健康そうな雰囲気はない。

月明かりに照らされた絹糸のような銀色の髪が、浮世離れしたような雰囲気を放っていた。

「…………」

雪穂はそれに答えることはない。

「つれないねぇ。せっかく僕が"迎えに来て"あげたというのに」

「…………はっ!?何!あんた誰!?」

どこか遠くへとぼんやり飛んでいた意識が、不意にふっと戻される。


「八坂雪穂さん。僕は君を迎えに来た者だよ。君の居場所はここじゃない」

「いや、いきなり言われても困るんですけど……それに何であたしの名前知って」

「知らないわけがないだろう?僕はずっと君の姿を探していたというのに、本当につれない子だ」

全く要領を得ない青年の言動に、雪穂の警戒心は最大まで上がっていた。

「話が見えないんですけど」

青年から、前にも感じたことのある嫌な気配を感じる。

そう、まさかこの青年は……。


「儀式具を抜いたか。気づかないとでも思っていたのか?」

不意打ちをしようとしたのがバレた。雪穂は気づいていた。この謎の青年が"悪魔憑き"であることに。

だが、彼からは今まで見た悪魔憑きのようなむき出しの狂気を感じられなかった。

「どうした?そんな怖い目で見つめないでくれよ。僕たちは"仲間"だろう?」

「はぁ?」

「第一、君はあの男を信用してしまっていいのかい?君を助ける代償に、君を利用しているだろう?だったらあんなやつ見捨ててしまえ」

青年の言葉が、じっとりと雪穂の頭の中へと絡みついてくる。


青年の言う「あの男」とは、おそらく黒崎という名前のあの神父のことだろう。

実際、それしか選択肢がなかったし、もし悪魔との戦いに身を投じずに助けてもらえる選択肢があるのだとしたら、自分もそうしていると、雪穂はどこか納得しかけていた。

だが、それ以上に雪穂の心にはある一つの感情が芽生えていた。

「…気に入らない」

「ん?何かな?」

「確かにあいつは胡散臭いし、信用できないところもある。でもね、それ以上にあんたが気に入らない!」

「……へぇ」


「自分の言うことならまず聞いてくれるだろうってその態度が気に食わない!一方的なんだよあんたの話は!!」

「……君はどうあっても僕に従う気はないわけだ。へぇ、面白いね。もうそこまで人間に染まっちゃってたってわけかい」

雪穂は痛感した。ああ、この男は冷静なように見えてもやはり『悪魔』なのだと。欲望だけが自分を突き動かし、周囲など見えていない。あのクラスメイトと同じだ。

「なら、力ずくでも連れていくしかないねぇ!!」

ふと、雪穂の腕に鋭い痛みが走る。

「痛っ……」

何か刃物のようなもので切り付けられたのだろうか。痛みで右腕の力が緩み、儀式具を地面に落としてしまった。


「卑怯、な……」

「卑怯?そうかい君から見たらそうかもねぇ。でも、勝つために策を練るのを"卑怯"とか言わないでほしいね」

想像以上の痛みで意識が飛びそうになる。そして、寝間着に滲んできた赤黒い模様を見れば見るほどに、雪穂の中に焦りのような感情が走っていく。

「(ヤバい……マジで痛い……腕切られるってこんなんなんの…!?それに動かないから儀式具も拾えないし……!)」

あっという間に追い詰められ、雪穂は万事休すかと周囲を見る。こんな異常が起きているのだとしたら、気づいた人間がどうにかしてくれるだろうと。

誰かに頼ってしまうのは癪だったが、あいにく今の雪穂にはそういった思考がすぐに浮かんでしまうほどに、焦りというものが濃かったのだ。


「さあ、泳がせるのもこのくらいにしておこうか」

青年が腕を振り上げる。その腕には、まるで獣かと思うほどに鋭い爪がついていた。

それを視認したと同時に、先ほど以上の激しく鋭い痛みが雪穂を襲う。

「ぐっ……ああああああっ……!!」

目の前がチカチカと明滅し、背中から倒れ込みそうになるが何とか踏ん張る。

右腕はもう完全に使い物にならない。それどころか、それを庇おうとした左腕にまで、鋭い傷が走っていた。

「まだ立つのか。根性だけは一人前だねぇ。どうせ君にはもう何も出来ないというのに」

「もし、あたしが手も足も出ないって言ってもね…それならあんたの心が折れるまでずっと根性で立ってやる……」


ほとんどやせ我慢だった。実際はあまりの痛みですぐにでも意識が飛びそうだし、正直相手の心が折れる前にこちらの方が折れるだろうと確信していた。

だが、このくらいのハッタリをかまさなければ、このまま無抵抗で切り刻まれてしまうだろうと、その方が雪穂にとっては嫌なことだった。

「虚勢を張るのはやめたまえよ。僕だってそんなに君を痛めつけたいわけじゃない」

「うる、さい……っ……!」

「ほら、もうすぐにその虚勢も崩れそうじゃないか、早く諦めて僕の方に……」

青年の言葉は途中で途切れる。青年が何者かに切り付けられたのか、突如目の前で倒れ込んだのだ。


「…すまない。遅くなった」

青年が倒れ込んだ後ろでは、銀の髪を持つ長身の青年が雪穂の方を見ていた。

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