青色の冬

主水大也

青色の冬

 冬が姿を隠し始めた日、男は、纏わりつく土くれのような街の中に何本か咲いているカンナを眺めていた。たおやかな緑の茎の先には、多数の熱を持った、赤い光でがなる花蕊があった。その周りは最初裸のようであったが、段々と橙色の花弁が、滲むように、潜水艦が浮かぶように現れた。じっとそれを見ていると、それは内側から何かが溶け、ぐったりと周りを照らしているように感じられた。

ゆらりと、男が現実に立ち返ると、街は背が凍り付くような喧騒に襲われていた。低い音や高い音が、水に滑り落ちた水彩絵の具のように、伸びて千切れて、混ざって、且つ闇のなかの電光の如き様相で鋭くひび割れていた。喉に血を滲ませながら大声で泣く壮年男性や、口元を何かで赤く濡らしながら、子どもを抱えてうずくまる女性、どこかから盗んできたであろう大きな仏像に、頭を摺り寄せる老いた人間などがいた。割れた容器から漏れ出るオーデコロンと、街のそこかしこに飛び散っている吐瀉物の匂いとが混ざって、奥深い不快感を彼にもたらした。

 三日以内に、世界が滅んでしまうという報道が、世界を包み込んだ。信じる者は祈り叫び、喚き暴れ、信じない者も、専門家を名乗る数学的カリスマもどきが、何も言わず目を伏せたのを見て、泣き喚いた。この世にもはや逃げ道などないというのに、人々は光を求めて執拗に壁にぶつかっている。彼らの眼は、そうして既に潰れてしまったのだと、男は思った。

 男は雑貨屋によった。道中何度も、走り回る何者かに足を踏まれた。彼の足には、染み出てくるような緩い痛みが残った。

 雑貨屋には、誰もいない。動くものは、男と、街の熱量に当てられて、自らゆらゆらと絹のように揺れている吊るされた飛行機の模型のみだった。店内は、店員が逃げ出して間もないのか、小綺麗に思われた。所々で浮いている羽虫のように小さな埃も、未だに音を鳴らして割れている窓から、いそいそと外へ飛び出していった。青い夜更けが、窓の隙間に存在していた。

 男は、棚に無礼に置かれている絵の具を手に取り、カバンに詰め込んでいった。何度も何個も、詰めに詰めた。そのうち、彼のカバンは地割れのような悲鳴を上げて、これ以上絵の具がその身体に入れられるのを拒んだ。彼はカバンを壁に引きずるようにして運んで、雑貨屋を後にした。ブリキの玩具が、様々な衝撃によって床に落ちた。それが気持ちの良い音楽に思われて、彼はその音に耳を傾けながら足をそのまま進めて行った。

 外は相も変わらず喧騒に閉じ込められている。道路では車が無造作に並べられていた。もはやそれらは生きてはいない。剝がれてしまった手の爪のような、痛々しい生きた跡であった。

 彼は家に戻ると、そそくさと身に着けていた灰色のコートや寒気のするような色のズボンを脱いで勢いよく地面に叩きつけ、絵の具が入っている丸々としたカバンを机にそっと置き、ベッドに潜り込んだ。ベッドと毛布の隙間には、気持ちの悪い隙間が広がっていて、そこには外の喧騒が幾度となく反響している。彼はそれに耳を塞ぎ、目を瞑った。すると残響は瞬く間に棘のついたさざ波になって、彼の四肢を捥ぎ、痛みもなく溶かしていった。彼は柔らかい隙間が段々と自分に馴染んでいき、なくなっていくことをひそかに感じながら意識を落とした。

 男は夢を見た。彼は観覧車に乗っていて、目の前には祖母と祖父が、隣には母が椅子の背にもたれている。

「もう六歳か」

 彼の祖父が、開きにくそうな煙たい口でそう噛みしめるように言った。その瞬間彼の目線は酷く小さくなった。彼は悩ましいほどの既視感を持った。

(これは間違いなく私の六歳のころの思い出だ。この夢は曖昧な自身の体を揺すって整えて、自身を回顧録のように見せているのだ)

 彼がそう考えた途端に、車体が大きく揺れた。頂点に着いたのである。

(もう一度拝めるのか)

 彼は冷えたガラスに頭を打ち付けるようにして外のビル群に目をやった。最初に飛び込んだのは、底が無いように思われるほど黒い夜空に浮かぶ、香ばしい赤のネオンサインだった。そしてその周りにはみずみずしく塩辛い青が、空に飛び散った花火のように平べったく塗られていた。ビルの窓の一つ一つは侘しい白色で何ら面白みを感じることが男にはなかったが、その無数の白が重なって清い青になることに、彼は重苦しい感動を思い出した。男は、自分がこの夢に永遠に囚われることを希望しながら、ガラスに何度も手垢を付けた。観覧車は、初夏の温い風に吹かれる雲のように、鈍く動いていた。

 翌朝、彼は自宅で様々な青を作った。水のような安らぐ青、戦場のような激しい青、傷痕のような窪んだ青などを、パレットに拵えた。その時の男は、深海を想うような、落ちては浮かんでいく果てしない顔を身に貼り付けていた。外では雨が降っている。次々に落ちる水滴が、街をいったん生き返らせ、人々の絶望で冷え切った身体をことごとく温めた。一人の男が、空に向かって口を開けて雨を呑んだ。アルコールが混じっているように思われたのである。

 雨が上がった瞬間、空は膿のような黄白色になった。いよいよ人々は、この世の終わりを真実としたのか、一層激しくなった。ある人は、看取るものがいないなら私は一生死ぬことが出来ないと、首にキッチンナイフを刺して死んだ。辺鄙な様子の道路は、彼の動脈から湧き出た血液によって激しく輝いた。ある人は、ウォッカのロックを何杯も飲んで、体中を真っ赤にしながら、街中を走り回った。眼は、身体のどの部位よりも赤い。それは、オーディエンスを求める芸術家のようにも見えた。ある人は、娘と思われる女児に、いろいろなものを与えていた。可愛らしいビスクドールやサッカーボール、昼寝するのに最適そうなブランケットやカラフルで彼女の顔よりも一等大きい綿菓子などである。父親と思われる人は泣いていた。が、それに反して娘は非常に愛愛しい笑みを浮かべている。大きいように思われる瞳が、ぷっくりとした頬に押されて小さくなっている。男が発狂しないのは、彼女のその、大人が遠の昔に落とした靦然たる笑みを目の前にしているからであろう。

 男は真っ青なパレットを持ちながら、そのような人々をかき分けて、ある一つのビルへ向かった。

 男は目的のビルに着くや否や、敵を追いかける犬のように駆けて屋上へ向かった。建物内部は、暴徒となった社員らに荒らされたのか、捻じれたように机や書類など様々なものが散乱し死に絶えていた。彼の足が何度も絡まるようになる。せいぜい七、八階ほどの階段が、とてつもない旅路のように思えた。

 屋上についたころ、男は息を懸命に吸って肩を膨らませては撫で下ろしていた。屋上は、長年積もった塵や埃に覆われて黒くなっていた。男にはそれが垢のようにも見えた。そこかしこに先ほどの雨で出来たであろう水たまりもあった。それらはビルにへばり付いた垢を流そうとすらせず、寧ろ同化しようとしているようにすら思われた。

 男はおもむろに屋上の端へと向かった。息は未だに絶え絶えである。彼は、錆化粧で彩られた柵に、むくれるようにして小さく痺れた手を掛けた。そうした後男は、つややかな様子で固い表情をした縄を、柵と自身の腹に結び、そのまま空中に身体を投げ出した。シビリアンにとっては、おおよそ致死量であると思われる光景だが、既にここにはそんなものはなく、ただ一様に、整った、猛烈であり共通したカオスに吹かれた人の殻しかないのである。現に、その男の行動に、不審や叫び声を上げる者は誰もいない。ただ同じように、唸りながらとぐろを巻いているカオスに吹き飛ばされたのだと皆は思い、目を向けることすらなかった。縄は美しい叫び声を上げて、男を支えた。柵の震えが、縄を伝って男の腰を撫でている。彼は身体に力を込め、ビルの壁面に足を付け、立つようにして身体を支えた。世界が交わるように傾く。彼は、実は吊るされているのは世界の方ではないかと考えた。もはや艶美な舞のようにも見える黄色の空と、秩序という淡泊色を失った、パッションピンクの糸が絡まる街並が、捏ねられるようにして丸められていた。

 彼は、パレットに込められた青を、筆に丁寧に沁み込ませ、振り払うようにビルの壁面へと塗り付けた。薄灰色の透明だった壁が、見る見るうちに、秩序だった憧れへと染められていく。今の男はほとんど無心だった。彼の体内には、憧憬を復唱する潤った唇のみが立ち尽くしていた。

 男はあの日の情景が単なる思い出に一つとして鮮明になっていくのが恐ろしく、そして我慢ならなかったのである。あの薄い情景は、決して過去ではなく、あの日から今まで地続きに存在している現実であるのだと、子ども特有の鋭くやわらかな感性でしか得られない幻想ではないのだと、知らしめたかった。否、知ろうとしていた。

 彼は1日中壁に張り付いていた。この世にみるみると「青」が増えていく。空には、太陽が常時張り付いていた。人々には、燃える赤い孔のようにも見えた。

 最後の壁に筆を入れた後、彼は、壁面をつたって地上に降り、そして折れたように立ち尽くした。これはただのあの日の思い出の青でしかない。余りにも鮮明すぎる。彼が全体図を見たとき、不覚にもそう考えてしまったのである。男は咽び泣いて、地面にパレットを投げつけた。パレットは、しかつめらしく固まった地面に砕かれ、雪の結晶のようになった。

 幼子のように丸まった男は、ふと、背に熱を感じた。喧騒に吹かれた人の殻の、煎られたような熱ではない。正しく、体内にある炉を激しく稼働させている、「人」の熱であった。

 振り返るとそこには、「人々」が閑静を破る歓声を上げていた。それはヴァイオリンの旋律のように揺らめいており、不可侵の甘い渇望があった。人々はビルに描かれた粗末で抒情的な青に、文字通り感動していた。彼らは、もう二度と見ることはないだろうと考えていた青空を、もう一度崇めることが出来たと考えたのである。彼らは各々手に持っていた酒瓶を割り始めた。仏像は世界の隅に追いやられている。中には穏やかに話し合い、静かに踊る者もいる。人々はすでに、それぞれの思い出にかえり始めていた。

 彼の現実は、人間たちの過去への強い執着心によって蝕まれてしまったのである。男は、オーギュストルノワールの絵画のように、ゆったりと空間に微睡む人々を後にし、当てもなく歩いた。リードによって誘導されている老犬のような惨い足取りで進んでいる。突然、男は転倒した。彼の足元に転がってきたサッカーボールに足をからめとられたためである。彼がゆっくりと立ち上がると、少女が駆け寄ってきた。あの、様々なものを与えられていた可愛らしい少女である。彼女は、男に謝りながら、ボールを大切そうに拾った。彼女は長袖のシャツを着ていたが、暑かったのか脱いでいる。タンクトップの下着姿で、何とも涼しげだった。

「今の季節は?」

 しばらく黙りこくっていた男が、思いついたかのように少女に話しかけた。

「今は……」

 彼女は悩みながらあたりを見渡した。そして、一輪の赤い花を見つけたかと思うと「春」と元気よく言った。男は、彼女に少年のような闊達な匂いを感じた。

「そうか、僕はまだ冬のままだ」

 彼がそう言った途端、世界は痛々しい強い光に包まれた。そして、地面が地震ではない気味の悪い震えを起こした。雲が、水に落ちた綿あめのように溶け始める。少女は、その黒曜石のような大きい目を細めた。その隙間に浮かぶように見えた男の泣き顔は、彼女の思い出となってしまった。

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