ファム・ファタールが現れない【短編】

柏望

第1話 午後9時2分

「ファム・ファタールといえばマルグリットだろ」


「ほんとに椿姫が好きだよね、麻井」


 ファム・ファタール。男を破滅させる運命の女。何度トライしても上手く書けない。と言ってコーヒーカップを置く元学友は卒業した頃そのままで。多田は思わず笑みを漏らす。


 こんなやりとりは前にもやった。たぶん主人公を五回殴れるなら誰がいいかという話題だったはずで。あの時は二人とも在学中だったなと多田は思いを巡らせる。


 多田が卒業してから何年も経っているが、しょうもない話題しか話さない麻井は二人が大学生のころのまま変わっていなかった。実はまだ留年してるんだと言われても驚きはしないほどに。


 学生の頃のままのように生き生きとしている麻井に比べて自分はどうだろうと、多田は手元のティーカップへ伸びている腕を見つめる。


 白いシャツの袖から覗く手首にはボーナスで買った腕時計が巻かれていて、バンドには肉が少し食い込んでいる。学生の頃より食は細くなっているはずなのだが。と多田は首を傾げる。


 身体も無理が効かなくなっているし、健康診断も注意するべしという項目を出してしまった。


 晩酌をもう少し控えるべきだろうか。いや、まずは肴を工夫してもらうところから始めたい。


「もう嫁さんが恋しくなったのかよ」


 店の雰囲気を崩さない程度には静かだったが。麻井の声色は聞こえれば大半が目を向けてしまうほどに淀んでいた。濁った視線が眼前の相手を締め上げる。


 実際に彼女のことを考えていたのは事実なので、なんと言い返すこともできない。気まずいまま頼んだ紅茶に手を伸ばそうとして、多田はカップを鳴らせてしまった。


 麻井は歯を覗かせながら唇の端を歪めた。自分をうろたえさせるために、敢えて刺すような口調を使ったのだと多田は直感する。


 マトモでいるのは物を書いている時だけ。というポリシーを今も守っているらしい。多田は麻井の相変わらずさに少し腹が立った。


 書き始めたのは大学入ってからの癖に。と揶揄すればどういう状況下でも取り乱す麻井を、昔だったら楽しんだのだけれど。


「ごめんって。麻井があんまりにもそのままだからさ、なんだか懐かしくって」


「どこが懐かしいんだよ。爺臭いな」


 このやりとりはついさっきやった。


 なにを食べに行こうかという話になって、よく足を運ぶ和食チェーン店を提案したらまさに同じことを言われている。次の言葉も簡単に予想できた。


「今からそんなだと、カビが生えるようになるまですぐだぞ」


「生えないよ。忙しんだから」


 実際、多田は今晩の集まりのためにだいぶ骨を折っている。麻井との集まりに遅刻せずに済んだのも、数日前から根回しをしておいた成果だ。帰りの電車の中では引っ越し先の不動産を探すつもりだし、買い物を頼まれているから駅を降りてからはスーパーに寄らなくてはならない。


 時間も体力も、限りなく吸われていく。不自由で目まぐるしいが幸福な日々だ。麻井と過ごすのんびりとした時間で、多田は改めて実感した。


「前言ってたアレ、書きあがらないだろう」


「それはそう。だけど」


 半年ほど前、留年していた麻井の卒業が決まったので祝うことにした。学業の話をしていたのは集合場所の駅を出てから最初の信号までで。


 それからは終電近くまでずっと創作活動の話をしていた。話題の中にはお互いが次に書く物語の話もある。


 あれだけ熱心に語り合ったにもかかわらず。多田は創作をするときに使うエディターを開くどころか、麻井が話題に出すまでそのこと自体を忘れていた。


 つい最近書き上げたという麻井の新作も、二人でやいのやいの言いながらアイデアを出したものだったはずで。


 多田は懺悔をごまかすために紅茶を煽った。麻井が極深煎りだと自慢したコーヒーもここまで苦くてエグい味はしないだろう。


「やはり。書けてないよな」


「うん。やっぱりさ。最近は色々と忙しくて」


 一言喋ったきり、相槌もせずに麻井は口を閉ざす。ケーキにも手が伸びず、コーヒーを味わおうともせず。なにを喋るでもなく、耳を傾けるでもない。虚空を見つめるばかりだった。


 入学して互いを知り合って。多田が麻井にこの店を紹介し。折を見て集まるようになってから、お互いに口を噤むようなことは何度もなかった。


「イルガチェフェ。あと、クリームチーズレモンクランチをお願いします」


「今日はお喋りですね」


「普段は椅子で溶けてるだけだものなぁ。お冷もよろしくお願いします。こいつの分も」


 麻井が水を注いだ店員を見送ったあと、ぐるりと店内を見回す。久しぶりに来店したときの自分が重なって、多田も麻井の視線を折っていた。


 眩しくない程度に明るい照明。木目の美しいカウンター。ラックに飾られたコーヒーカップの数々。厨房でなにかを作っているマスターと、誰かの会計をしている店員。


 記憶しているままの光景を、自分と同じ気持ちで麻井も見つめているのだろうか。


「懐かしく見えてきた」


「んなわけない。先週も来てる。時間が過ぎたんだなとは感じただけだ」


 注文の際に追加された水を一気に飲み干して、麻井は深く息を吐いた。カップに残った氷を眺めながら滔々と言葉を紡ぐ。


「俺たちが通うようになる何十年も前からある店だ。時々メニューのラインナップが変わるくらいだから懐かしみようがない」


 麻井が見つめたものを。追うように自分が目にしたものを。多田は思い返した。今聞こえている音楽は、初めて自分がこの店に来た時も流れていたことに気づく。


 出会った時と変わっていない麻井が多田を見つめている。目の前にいる男も、客として店の風景になっていた。


「変わってないここが懐かしいと感じるのは。俺が変わったからなんだろうね」


 多田は麻井の追加注文と一緒に頼んでおいたブレンドに口をつけた。


 麻井に馬鹿にされるのが嫌で唇をひん曲げながら呑み込んだ苦い液体。在学時は見栄でしか口にしなかったけれど。今では仕事の合間合間に飲む缶コーヒーとの味わいの違いくらいはわかるようになった。


 過ぎていった過去を懐かしんでばかりいた多田の胸中に、過ごした時間への誇らしさもこみあげてくる。


 きっと。自分がどう変わろうと。この店は優しい思い出の一部でいてくれるのだろう。多田の期待は一瞬で裏切られた。


「そうだろう。残念だ」


 今日一番、穏やかな麻井の声についさっきまでの打ち解けた様子はもうなかった。


「お前はもう。書かないんじゃない。書けないんだ」


「そんなことない」


 咄嗟に出た否定の言葉だったが、言うだけの自負が多田にはあった。書き始めたのは自分の方が先だし、プロアマ問わず作家の知り合いは今でも多い。読んできた物語の量だって麻井とは比べ物にならなかった。


 書き上げる速度だって段違いだった。この店に二人でいた時は、作品を完成させられない自分を呪う麻井の弱音にどれだけ付き合ってきたことか。


 麻井もそのことはわかりきっているはずで。多田は真意が読めなかった。


「最後になにか書こうとしたのはいつだ」


「書かないとなって思いだすことはある。今日だって、会社を出てから」


「一文字も書いちゃこなかったんだよな。ネタを考えたりも」


 多田の反論を一蹴した麻井は、静かに言葉を並べていく。


 新聞は読んでたろう。なんか話のネタになりそうなものはあったか。


 今期のアニメはどれを見ている。サブスクにはまだ入ってるよな。


 お前が好きな作家が新作を出してたぞ。俺の趣味じゃなかったが。どうだった。


「うるさい」


 という一言が声にできずに、多田は沈黙するばかりだった。


 書き始めた頃の麻井が執筆に悩み苦しんでいた時、多田は助言を与えて製作を助けた。多田も就職したばかりの頃に慣れない環境で執筆がおろそかになっていることを、怒られ半分ながらも麻井に慰められている。


 小説が書けないことをなじられるだけなら、今と過去の状況に違いはない。問題はとある部分が決定的に違うことだと、多田は言われずとも理解していた。


「結婚するんだろ、お前の生活はお前の都合じゃもう動かせない。子供だって欲しくなるかもな。赤ん坊の世話なんて十年以上やってないが、仕事のついでにできることなんかもうないぞ。書けるわけがない」


「そんなこと。わかってる。わかってるけどさ」


 二言三言を続けたが、麻井は聞く素振りすら見せずにコーヒーを喉へ流し込む。


 入学したての頃は苦いと言いながら大人の味を楽しんでいて。今ではソムリエのように香りや味わいを楽しんでいる。おかわりを頼むために、目のまえで財布の中身を空にする瞬間を何度も見た。


 それほどに熱心だった麻井が、ドブを啜るような顔でコーヒーを飲んでいる。


 微かな音を立ててコーヒーカップを置いた麻井は歪んだ表情のまま口を開いた。


「不甲斐ないと思わないんだな」


「え。だってしか」


 しかたない。すべて発音する前に口を閉じることはできたが、麻井に多田の意志が伝わるには十分だった。


 麻井は多田を真正面から見据えたまま、真一文字に唇を結んでいる。両手で数えるほどの年数通い続けた店に迷惑をかけたくない一心で怒りを押さえつけようとしているが、胸の前で組んだ指は震えていた。


「舐めたこと言うなよ」


 静かだが、堰を切ったように麻井の言葉が溢れだす。


 玉置先輩とかお前とかがあんまり楽しそうでさ。書いてみたくなったんだ。書き方を教えてくれたのはお前だろ。


 今だってぶっちゃけ自信はないが。だいたいの作品は酷い出来だろ。大して面白くもないんじゃないかってしょげる俺のケツを、締め切りの度に叩いたのはお前だろう。


 出すたびに今度はなにを読んだとか。冷やかしたのはお前だったよな。あと、叩かれるとわかってて毎回批評会に出す面の皮が凄いとか。悪口のつもりだろうが、作品出さなかった奴に言われてもなんも感じないぞ。


 お前。お前。お前。麻井が自分に言及するたびに、多田のこめかみに力が籠っていく。言われて思いだした程度だけれど。思いだしたとしても忘れてしまう程度かもしれないけれど。以前のように物語を産み出せなくなっていたことへの哀しさと無念さは確かにあった。


 会社にいる自分。家庭の一員となった自分。かけがえのない将来を掴めた自分。なにも知らないでネチネチと嫌味を垂れ流す麻井に、多田はもう耐えることができなかった。


「あのさ。俺は学生じゃないんだよ。麻井もさ、そろそろ自分の人生のこと考えなよ」


「本を読み物語を楽しみ。長生きして誰よりも書き続ける。上等だろうが」


 結婚や出産を迎えたり。地方へ居を移したり。人生を次の段階へ進めようしているのは自分だけではなかった。多田と麻井の両方に面識がある人物にもライフステージのコマを動かした者は少なくない。


 麻井だって自分と同じようにすべてを把握してないわけでもないだろうが、一部は知っているだろう。


 周りと比べて焦りがない方でもなかった多田には、我が道を歩むという麻井の言葉は放言にしか捉えられなかった。


「そんなさ。ペンネーム以外の自分の人生を空っぽにしなくてもいいんじゃない」


「作家冥利に尽きるだろうが」


 目を見開いてぎこちなく口角を挙げても、悩みを射抜かれたことまではできなかった。かすれてしまった声をはっきりと自覚したのか、それきり麻井は喋らない。


 麻井が三杯目を頼んで、カップから湯気が消えた頃。多田のスマートフォンが振動する。帰宅時間を告げるアラームだった。閉店まではまだ先だが、ここを離れてからもやらなければならないことがある。


 学友のために精一杯裂いた時間にも限りはあるのだから。


「時間になったから、今日はこの辺で。じゃあ」


 麻井は変わらないと思っていたが、思い違いだったと多田は感じた。


 物を書く人間に憧れていた麻井は、作家としての自負を持つようになったらしい。先輩や同級生、そして自分の姿を見て目指していた姿に追いついてしまったのだろう。


 昔はもっと。他のことにも頭を抱えられる人間だったのだが。


 多田の脳裏にかつての麻井の苦悩する姿が過って消える。物語を書けなくなった自分が、もうこの男と会えるかはわからなかった。


「残念だ。お前の新作が、もう読めないとはな」


 席を立った多田に、麻井がかけた言葉はこれだけだった。


 余人が見れば無感情無表情な捨て台詞だったが、多田だけは麻井が泣いているのを受け取っている。目で見たのではなく、耳で聞いたのではなく、魂が確かに感じたのだ。


 カウンターへ向かう多田の足取りは一瞬止まったが、間を置かず再開した。


 執筆を諦めたことすら忘れた自分が、麻井の苦しみに寄り添う資格はない。彼も望みはしないだろう。なにより。自分が植え付けた情熱が再び我が身を焦がすのが怖かったから。


 取り残されたように椅子に腰かけている麻井はずっと目を瞑っている。震えたままの手を何度も鞄へ伸ばそうとしたが、コーヒーカップへと戻っていく。


 ラストオーダーを店員が告げに来た時、冷たくなったコーヒーを一息に呑んで麻井は口を開いた。


「バリ・バツールマウンテンを」


「コーヒー。一度に三杯までにしとかないとお腹痛くなるんじゃなかったんでしたっけ」


「後悔を不摂生のせいにしたいときもあります」


 月に何度も、何年も通い詰めていれば客と店で面識ができる。麻井と麻井たちが座っていたテーブルへ給仕をしていた店員はそのようにして気安い関係になっていた。


 ラストオーダー直前に追加注文をしても笑顔で受け答えをしてくれることが、今の麻井にはありがたい。


 注文の品が来るまでは手持無沙汰なのでチーズクランチを平らげようとしたが、皿には空になっていた。いつの間にか食べきっていたらしいと合点して、麻井は天井を見上げる。


 アイツは俺の読者ではない。書けなくなった作家になにを言われても気にはしないが。天井にある木目がいくつか数えてみたい気分になった。


「多田の野郎。サロメ派だったか」


 金がない。センスは磨けばいいが、才能があると感じたことはない。文学的な運命の女に狙われることはないだろう。と二人でお互いを煽りあったのを忘れていない。


 あの時は先のことなぞわからんだろうがと強がりはしたが。多田の方にだけ現れるとは思いも寄らなかった。


 冷水の感覚を喉に感じながら、麻井は多田の婚約者の顔を思いだそうとしたが叶うことはなかった。


 喜んだ記憶はあるし祝福もしたが、欠片も思いだせない。すっかり忘れているらしい。


 その女は、世間的に見れば大したところのない善良な女性なのだろうが、自分にとっては運命の女ファム・ファタールなのだと麻井は確信した。


 一人の作家を確かに葬ったのだから。

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