第8話 将軍親書

 葵の御紋ごもんを帯びた文箱を受け取り、将軍家治いえはる公の親書に目を通した時の反応は、三者三様だった。意次おきつぐは目を見開いて食い入るように紙面を見つめ、定信さだのぶ公は眉を寄せて唇を噛み締めている。そして最年長の周防守すおうのかみはというと──みるみるうちに顔色が青褪め、親書を握る手は傍目にも明らかに震えていた。


「父上。上様は、何と……?」


 父を案じるというよりは、親書の内容が気になったのだろう。焦れた様子で万喜まきが身を乗り出して問うた。娘に呼ばれて顔を上げた周防守は、意次のほうを窺い、八重やえたちを見渡し、隣に座っていた定信公からほんの少し身体を離してから、やっと口を開いた。


「……お叱りだ。山城守やましろのかみ殿のことでただでさえご心痛の主殿頭とのものかみ殿を、さらに悩ませるのは止めよ、他家の嫡子を奪わんとする横紙破りは止めよ、と……」

「まあ……!」


 悄然として絞り出すような父の声と裏腹に、万喜は喜びの歓声を上げた。八重と金弥きんやも、顔を見合わせてやっと微笑むことができる。


(ああ……やっと……!)


 理不尽ばかりが続いていた。悲しみ嘆き憤り、世間のすべてが敵に回ったかのような思いだった。そんな中に届いた家治公の御言葉は、なんと当たり前で月並みで、けれど思い遣りに満ちて聞こえることだろう。人の死は痛ましく、子供は家族と共にあるのが道理だと──そのていどのことさえ、田沼たぬま家には取り上げられかねぬ状況だったのだ。


「──越中守えっちゅうのかみ様にもご同様に?」


 金弥の問いには言葉で答えず、険しい一瞥のみで応じて、定信公は親書を届けた吉太郎きちたろうに詰め寄った。


「西の丸小姓と言ったな。なぜ、そなたが上様に御目通りする機会がある……!?」

「我が主君は、上様の御養君おんやしないぎみでいらっしゃいますから。御養父ごようふ様のご機嫌を窺うのは当然のことでございます。それがし大納言だいなごん様のお供にはべっていたまで」


 掴みかからんばかりの剣幕にも、吉太郎は動じずさらりと答える。その内容も、やはり道理だった。家斉いえなり公の父君は一橋ひとつばし卿で、だから警戒せねばならぬとばかり思っていたけれど、今の家斉公は家治公の養子に迎えられた身の上なのもまた事実。だから養父のほうへ訴えを取り次ぐのは、なんら不思議なことではない。


(吉太郎殿が勧めてくださったのか……?)


出羽守でわのかみと謀ったのだな。幼君を唆す奸臣が」


 八重と同じ疑問を、定信公も抱いたようだった。彼女が安堵と感嘆の意と共に考えたのとはまったく逆に、怒りと苛立ちを掻き立てられながら、のようではあったが。父の官職を呼び捨てにされて、さすがに抗議しようと八重は息を吸ったが──


「田沼様のご事情は確かに仄聞しておりましたが、大納言様ご自身でお考えになったことです。まして上様の御心を、某ごときが操ることなどできようはずがございません」


 彼女が声を発する前に、吉太郎が堂々と反論してくれた。金弥の宥める視線も受けて、八重は沈黙を守ることを選ぶ。彼女の訴えが切っ掛けだということを、吉太郎は伏せて庇ってくれたのだ。それに、きっと嘘ではあるまい。急ぎ上使を遣わすほどの心配りは、家治公が田沼家の事情を聴いて心を痛めた証左だろうと思えた。日を改めて各々を召し出すほどの余裕を持たなかったのは、そういうことなのだろう。


 顔を朱に染めた定信公は、まだ何か言おうとしていたようだったが──それを性急に遮って、意次が吉太郎のほうへ身を乗り出す。


水野みずの殿と仰ったか。これは、確かに上様の御心なのか……?」

「主殿頭様ならば上様のご手跡をご存知でいらっしゃいましょう。大納言様にも仰られたのを、この耳でしかと伺ってもおります」


 意次への親書の内容は、ほかのふたりに宛てられたものとは異なるはずだ。吉太郎だけは承知しているのかもしれないが、いったい何がしたためられていたのか──満座の者たちが視線で問うているのにも気付かぬように、意次は深く息を吐き、しみじみと呟いた。


「そうか。そうであったか……」


 じんわりと、意次の老いた面に笑みが広がった。この方は、穏やかな笑みを帯びるのが常ではあったけれど、近ごろのそれは諦めた枯れた風情が漂うものだった。それが今は、実に幸せそうに晴れ晴れとして。そんな満面の笑みのまま、意次は定信公に向けて口を開いた。


「誠に相済まぬが、越中守殿。先ほどの隠居の話はなかったことにしていただきたい。何しろ上様直々に、勝手に辞めるなとの仰せなのでな」


 意次は恭しい手つきで、誇らかに親書をこちらに向けて見せてくれた。全員がその文面を読み取ろうと身を乗り出して、衣擦れの音がさざ波のように響いた。


(困りごとがありながら相談もしないとは薄情だ、とまで……!)


 将軍直々の文を確と読んで、八重の胸も感動に震えた。不幸はあったけれど引き続き仕えてくれるように、と。家治公が意次を慰め、かつ叱咤する筆致は親しげで、将軍の信頼を得るとは、忠誠とはどういうことか、やっと本当に理解した思いだった。紙上に綴られた文字だけで、意次は一切の迷いも弱気も捨てたようだった。


「上様のご意向を笠に着るか……!」

「思えば今の私があるのもすべて上様のご信任あってのこと。何もお伝えせずに職を辞すなど、確かに不忠も甚だしいことであった」


 意次はごくにこやかに、いっそ浮き立った様子で言い切った。ことが将軍の耳に入った以上、定信公はおろか一橋卿でさえも龍助りゅうすけを攫うことはできないだろう。定信公の歯軋りも、もはや何の脅威ではない。とはいえ、実際の脅威よりも、意次にしてみれば心の重石が取れたほうが大きいのではないだろうか。定信公の憤怒の表情を、意次は涼しい顔で受け止めている。


「色々と思うこともあるだろうが、越中守殿には今しばらくご辛抱を願いたい。何、私もこの年だ。さほどお待たせすることにはなるまい」

「まことに。金や権力に目が眩む者ばかりではないと心得られるが良い」


 吐き捨てるなり、定信公は荒々しく立ち上がった。ろくに挨拶もせずに退出する非礼を、咎める者はいない。この御方については下手に声をかけるだけ矜持を傷つけ怒りを搔き立てるだけだろうと、恐らくは誰もが了解していた。


 周防守も、きっと定信公について退出していれば良かったのだ。だが、穏やかな人だけにそこまで踏み切ることはできなかったのだろう。取り残されたのに気付いた周防守は、途方に暮れたように辺りを見渡し──弱々しく、意次に微笑んだ。


「その、主殿頭殿。私は──」


 何かしらの弁明か、家治公への執り成しを依頼しようとしたのかもしれない。だが、舅に労をかけるまでもなく、万喜がぴしゃりと実の父に言い渡した。


「上様の仰せです。私も龍助も田沼家に残りまする」

「万喜。だが……」


 意次と万喜の間で視線をさ迷わせる周防守の頭の中では、打算が渦巻いているに違いなかった。家治公の庇護も永遠ではない。龍助の代になった時に、定信公がどの地位にいるのか、田沼家にどのような仕打ちをするのか。自家に累は及ぶのかどうか。──だが、知ったことではないと、万喜は考えたのだろう。実父の弱気を切り捨てるかのように、有無を言わせぬ笑みで断じる。


「どうしてもご心配ならば、死んだものと思うてくださいませ。この先何があろうと、関らないでくださって結構です。──よろしゅうございますね、義父上様?」

「早まったことはして欲しくはないが……だが、父君と娘御で話し合われた末にそう思うなら、止めることはできまい」


 実父に対する万喜の容赦なさは、せめて一太刀、ではすまない苛烈さだった。穏やかな万喜の内に秘めた鬱憤に驚いたのか、意次は苦笑し、周防守も慌てたように手を振った。


「いや、今はそこまでは言わぬが。そう……これからも、よろしゅう頼む」

「うむ。どうぞよしなに……」


 周防守は、いずれ意次が失脚することがあれば田沼家を見捨てるかもしれぬ、と言ったも同然だった。けれど意次は言葉尻を捉えて責めることはしなかった。龍助を守り切れただけで十分と、そのように考えたのだろう。

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