第6話 幼い嫉妬

 万喜まきの父──松平まつだいら周防守すおうのかみ康福やすよしは、八重やえたちの姿を認めて相好を崩した。八重も何度もあったことがある通りの、好々爺こうこうやそのものの笑顔だった。


「おや、金弥きんや殿と八重やえ殿までいらっしゃるのか」

「はい。ご無沙汰をしておりまする、周防守様」


 約束のない者が同席しているにも関わらず、機嫌を損ねる様子もない──この方は、やはり本来は穏やかで温厚な人柄だと思いたい。共に訪れた定信さだのぶ公の目つきの鋭さ冷たさには気付いているのか、気付いた上で知らぬふりをしているのかは分からないのだが。


「お約束をしておりましたのに……」


 周防守と違って、定信公は八重たちを見て軽く顔を顰めた。つい一昨日、金弥と物別れに終わったことを思い出したのかもしれないし、先客を帰していなかった非礼を咎めようというのかもしれない。意次おきつぐは、取り成す笑みで周防守と定信公と、双方に向けて答えた。


「ちょうど話をしていたものですからな。無関係という訳でもなし、良いでしょう」

「そう仰るのでしたら致し方ございませんな」


 不承不承の表情で型通りの挨拶が済ませた後──御三卿ごさんきょうの血を引く貴公子は、切りつけるような鋭さと性急さで本題に入った。


「今日は、周防守殿のご相談を受けて参りました。孫君のことで、気を持たせることばかりで確たる返事をくださらぬとか。そろそろ良いお答えを聞かせていただけるか──あるいは、第三者が仲介したほうが良いかもしれぬ、としゃしゃり出た次第でございます」


 例によって、定信公は言葉で言うほどへりくだっているようにはまったく見えない。むしろ、わざわざ出向いてやったのだぞ、と言わんばかりの空気を纏っているのが、今日は襖を隔てていない分、はっきりと感じ取れてしまう。やんわりと頷く意次の寛容さは、八重には信じがたいほどだ。


「それは、ご心配をおかけしたのですな」

「周防守殿は、そもそも田沼たぬま家を助けると思ってのお申し出なのだ。金弥殿が離縁されるならば、孫君と争うことにもなりかねぬ。だから双方が家を継げるように、と──そういうことでございましたな?」

「うむ、良い考えではないか、主殿頭とのものかみ殿?」


 完全に定信公の尻馬に乗る形になった実の父に、万喜が向ける目は冷ややかだった。田沼家の失脚の巻き添えを食らうのを恐れている癖に、と。失礼ながら八重もまったく同感だが、彼女たちには口出しなど許されない。


(主殿頭様は、何と……!?)


 答えられるのは、意次だけだ。理屈だけは通った名案とやらに、どう応じるのか。先ほどのやり取りが、少しでも届いてくれているのか。客人を迎え入れて脇に寄った八重たちは、一様に息を呑んで身を乗り出した。


「これはできた息子でございましてな。兄の遺児を立てると申しております。孫にも話をしましたがどうしても嫌だとのことで。だから周防守殿には申し訳ないが、例のお話はなかったことにさせていただきたいと思っております」

「そう、か……」


 周防守が吐いた落胆の息に、定信公の不服も露わな聞こえよがしの溜息が。そう──周防守はともかく、この方が黙って引き下がるはずもない。


「お身内ゆえに言いづらいならば、私から申して差し上げよう」


 あくまでも周防守のために、と含ませて、定信公は傲然と責め立てる。いかにも傍から理を説いてやるのだ、という体で。高貴な血筋のゆえか、自らの才を誇るからか、この方はどうも自身を他者よりも上に置いている節が見えた。


「失礼ながら主殿頭殿はお狡い。同じく婚姻を交わした家同士でありながら、出羽守でわのかみ殿と周防守殿でどうして答えを変えられる? 周防守殿は年長でいらっしゃるからなおのこと、田沼家のためにもなるというのに?」

「期待を持たせたことについては周防守殿にお詫び申し上げる。とはいえ、愚息が水野みずの家に合わぬと言われれば致し方あるまい。一方で龍助りゅうすけ──孫は亡き息子の忘れ形見だ。意知おきともの無念の分、田沼家を継がせてやりたいし、教えてやりたいこともある。当家にとってはそれが最善と、思い直したということです」


 お前に謝る筋合いはない、と。意次が言外に告げたことで八重は密かに快哉を叫んだ。はっきりと言葉にされたことも、彼女を喜ばせる。彼女たちの懇願を汲んで、意次は一太刀を返してくれた。無論、定信公が易々と引き下がるはずはないが──


(早く早く、西の丸からお沙汰があれば……!)


 膝の上で拳を握りしめて、八重は切に願った。今この時にも、家斉いえなり公に彼女の文が届いていれば良い、と。いや、そもそも金弥が誘いを断った時点で、意次を追い詰めるという定信公の企みは半ば潰えているのだ。英明との評判が本当ならば、引き際を誤らないで欲しいものだった。


 けれど、八重の祈りを裏切って、定信公は嘲るように唇を歪めて意次を詰る。


「ご自身のことが第一とは恐れ入る」

「私のことではございませぬ。当家のためと申しました」

「いや、結局のところご自身だ。孫可愛さの我が儘としか見えませぬな」


 辛抱強く訂正する意次を、言下に否定する語気の強さは不可解なほどだ。悪意からの発言としか見えないのに、忠告してやっていると信じ込んでいるようなのも。親子ほどにも歳が離れていながらどうしてこのように不遜な態度になるのか。定信公の威光を借りようとしたはずの周防守でさえ、困惑した体で眉を顰めているのに。


「──恐れながら!」


 舅への仕打ちを見かねたのか、万喜まきが声を上げた。実の父周防守と定信公を交互に睨みながら、震える唇が訴える。


「龍助は田沼家で生まれた子でございます。犬や猫の子ではあるまいし、父を亡くしたばかりで他家にやられるのは惨くはございませぬか……!?」

「とはいえ母君のご実家だろう。屋敷も同じ江戸で、会おうと思えばいつでも会える」

「そのような……!」


 それこそ犬猫の話のようにこともなげに断じられて、八重も眉を逆立てた。女の癇癪など取るに足らぬとでもいうのか、定信公は咎めもせずに嘲笑を深めるだけだったが。


「私が白河しらかわ藩に養子に入ったのも、父の亡き後でしたな。孫君に比べれば幾つか年上ではありましたが。言葉もろくに通じぬ遠国に送られるのを思えば楽なものだ」


(え……?)


 だが──横目で意次を当てこすりながらの定信公の台詞が、八重の耳に引っかかる。徳川家から養子に出されたこと、それによって将軍位を得る望みが潰えたことへの恨み節だとは、分かる。白河藩は確かに奥州の北国で、気候も風俗も江戸とは異なるのだろう、ということも。けれど今は龍助の話をしているのであって、自身の境遇を引き比べるような定信公の物言いは──


(まるで、龍助殿を妬んでいるかのようではないか。身分も名声もある御方が)


 まさか、とは思うけれど──先ほどの定信公の言葉の中に、そういえば不釣り合いなものがあった、かもしれない。


「狡い、とは……龍助殿のことでございましたか……?」


 政敵を詰問するにしては、その言葉はずいぶんと子供っぽく感情的ではなかっただろうか。

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