第9話 文遣い

 八重やえは、誤解の余地なく真摯な声と表情で問うたはずだった。なのに、豊太郎とよたろうは間髪入れずに大きくはっきりと頷いた。


「はい。存じております」

「尊い筋に歯向かうことになるかもしれぬのも? 水野みずの家は田沼たぬま様に恩義があるゆえ、父も私も覚悟の上。吉太郎きちたろう殿も承知してくださったとか。だが、将来有望な方が訳も分からず関わってはならないと思う」


 あまりの躊躇いのなさに、八重はかえって疑いを覚えて目を細めた。若者の好奇心や冒険心は良いとして、無茶や無謀は止めるのが大人の務めというものだろう。だが、半ば脅すように念を押したにも関わらず、豊太郎は堂々とした笑みを崩さない。


一橋ひとつばし様や越中守えっちゅうのかみ様のご関与も承知しております。周防守すおうのかみ様を操っていらっしゃるようだとの吉太郎殿の推測、私もまったく同感です」


 口にするのは憚られるはずの貴人の名をすらすらと挙げて、少年は八重を絶句させた。控えるのは家中の者だけなのに──雪乃ゆきのの件の後では人払いなど許されなかった──意味もなく辺りを窺ってしまう。八重の動揺の隙を突いてか、豊太郎は身を乗り出し、声を潜めた。


「吉太郎殿が私に託した役目はふたつ。八重様への詫びを伝える役はすでに果たしました。次は、大納言だいなごん様への遣いを務めたいと存じまする」

「何……? 大納言様へは、吉太郎殿から請願していただけると──」

「吉太郎殿は水野様──出羽守でわのかみ様のご一門です。主殿頭とのものかみ様の腹心の。その御方でさえ離縁を考えたのを、一橋様がたは最初は格好の追い風と思われたはず。でも──周防守様の動きを知っても、出羽守様は同調なさいませんでした」

「ああ……なるほど……水野家は警戒されているのだな……?」


 豊太郎の述べたことは、たとえ吉太郎の考えをなぞったものだとしても筋の通ったものだった。


 意次から離反したと単純に考えるには、父の動向は不審な点が多く見えるだろう。龍助りゅうすけは母の実家の松平まつだいら家に。金弥はその後を埋めて田沼家に。そのように振る舞えば、婿を追い出したという悪評も幾らか避けることができただろうに。殿中では、父はなぜすぐにも離縁に踏み切らぬのかと、越中守あたりに詰め寄られていてもおかしくはない。


(本当に、ただの子供ではないのだな)


 江戸城内の事情や幕臣の機微に関しては、豊太郎のほうが彼女よりも詳しいのだ。それを悟って、八重も姿勢を改めた。子供に対する遠慮など捨てて、対等の相手として接しよう、と。


「一橋様は、吉太郎殿を監視しておられるのか? ご子息である大納言様との密談など許さぬほどに?」

「お側仕えは正当なお役目なのですから、絶対に無理、ということもないですが。それでも目先を変えたほうが良いだろう、というのが吉太郎殿の考えです」

「まあ、確かに意表を突くことはできるのであろうが」


 何しろ父と八重たち夫婦は住む屋敷からして違うのだから。夫が父の企みを知らぬ「ということになった」以上はなおのこと、この屋敷は蚊帳の外と見做されることだろう。

 だが、八重の相槌は、要点のすべてを抑えてはいなかったらしい。豊太郎は軽く唇を結んでから、恐る恐る、といった表情で付け加えた。


「それと……吉太郎殿の奥方のことまでは、一橋様がたもさすがに承知していらっしゃいませんから」

「ああ……父はどうあっても隠すであろうからな……」

「だから、傍目には八重様の離縁とその後の婿入りについて、出羽守様と吉太郎殿の間で行き違いが生じているように見えるかもしれません」


(実際、生じているのかもしれないが……)


 大筋での結果は変わらずとも、父の怒りはまだ収まっていないだろうし、吉太郎も、役目に加えて家中のこと妻子のことと気を配らなければならぬことが多いだろう。だから、婿養子の話など今は頓挫しているのではないだろうか。だが、とにかく──父と吉太郎が反目している、とでも考えたなら、一橋卿らはそちらを注視せざるを得ないだろう。


「だから、今が好機、ということになるか」

「はい!」


 今度こそ八重を完全に得心させたと見たのだろう。豊太郎は晴れ晴れと笑うと改めて畳に手をついた。品の良い所作で、愛らしくも生意気におねだりしてくる。


「八重様にはご不調のところ大変申し訳ございませぬが、大納言様に宛ててことの次第を説明する一筆をしたためめていただきたく。それを、私が、西の丸にお届けいたします」


 控えている侍女が顔を顰めたのを目の端に捉えて、八重は指先で軽く無礼を叱った。怪我人に何をさせるのか、と。主人のために怒ってくれたのは分かるが、そのようなことを言っている場合ではない。


「紙と筆を持て。今は墨をるのも難儀しそうだから、代わってくれるか」

「はい、ご新造しんぞう様」


 八重の命令にはさすがに逆らわず、侍女はすぐに立ち上がった。彼女が言い出したら聞かないことを分かってくれているから、助かる。


「吉太郎殿は、転んでもただでは起きないのだな」

「はい。そこも、頼りになるかと」


 すかさず先輩を売り込む豊太郎の機転に微笑むのと同時に、侍女たちが文机や筆記具を携えて戻って来た。さらに、甘く香ばしい香りが漂うのは、先に命じた団子がようやくできたらしい。


 侍女が磨った墨に筆先を浸しながら、八重は豊太郎に微笑みかけた。


「お待ちしていただく間に団子でも召し上がると良い。西の丸では、お毒見があるのであろうな? 温かいものが良いだろうと思ったのだが」

「はい! ありがとうございまする!」


 日本橋で会った時は、豊太郎は西の丸に上がってから生菓子を食す機会が少ないと言っていた。それを思い出してのもてなしは、少年の気に入ったらしい。これまでで一番の大声での返事は八重の口元を綻ばせ、文字を綴る気力の源にもなった。

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