第8話 再び、来客

 浅いはずだった刀傷は、数日立つと八重やえに熱をもたらした。雪乃ゆきのが刃に毒を塗っていたことを疑って侍女たちは騒いだが、医者の見立てによると心労が出たのだろうということだった。刃を向けられた恐怖と、雪乃に面罵されたことへの衝撃と、どちらがより影響したかは考えても仕方ないだろう。


 元より待つことしかできない八重だったが、ただの無聊に加えて布団に押し込められることになってしまった。慰めと言えば書画か猫のはなくらいなものだ。布団に潜り込んだ華が喉を鳴らす細かな振動は、傷に響くといえば響くのだが。痛みよりも温かさと愛らしさが勝るから、これはこれで薬になっているかもしれない。


主殿頭とのものかみ様は父上や殿のお言葉に耳を傾けてくださっているか……吉太郎きちたろう殿はどれほどのお叱りを受けたのか……雪乃殿は? 大納言だいなごん様には、もうお伝できているのか……)

 一橋ひとつばし卿や松平まつだいら定信さだのぶ公の次の手も気に懸かる。八重が布団に溜息を呑ませた時──侍女が、そっと襖を開けた。


「ご新造しんぞう様。分家から遣いが参っておりますが……」

「ああ……吉太郎殿か?」

「いいえ。ご当人ではございません。詫びだというのに代理の者を寄こすだなんて……!」


 憤りに満ちた侍女の声音が不審で八重が身を起こすと、相手は勢いを得て前のめりに訴えて来た。幼いころから仕えてくれた侍女の、皺の刻まれた顔が八重の眼前に迫る。


「しかも、ほんの子供なのですよ。まったく、あちらの奥方がしでかしたことが分かっているのかどうか」


 八重の周囲の者たちは、やはり雪乃を許してはいないのだ。それに心を痛めながら、八重は子供、という言葉を聞きとがめた。豊太郎とよたろう──吉太郎と初めてまともに言葉を交わした時に、居合わせた少年を思い出したのだ。水野みずの家の縁者では本来ないが、八重たちが頼る将軍世子に近しく仕えている者。吉太郎が、あの少年を送り込んできたとしたら。


「それは……もしや、十二、三の年ごろの、背の高い人懐こい子ではないか? 名は、何と?」

「それが、家名も名乗らず豊太郎と言えば分かる、ご新造様に直接お会いしたいの一点張りで。見た目は品よく仕上げておりましたが、まったく図々しくて、無礼な……!」


 まさしく思い浮かべていた名を聞いて、八重は布団から勢いよく立ち上がった。外気に触れさせられた華が布団の奥に潜り込むのを目の端に捉えながら、短く命じる。


「すぐに会う。その遣いの子供には団子でも焼いてお出しするように」


 傷を庇いながらの着替えは思ったよりも手こずってしまった。下ろしていた髪は、簡単に根結いの垂髪すいはつに結う。人と会ったら熱をぶり返しそうな予感がするから、すぐに崩せる髪型が良いだろう。


 そうして、化粧を済ませて奥を出るまでにずいぶん待たされただろうに。行儀良く姿勢良く端座していた豊太郎は、八重の姿を見るなり太陽が雲間から姿を見せるがごとく、晴れやかな笑みを浮かべた。


「八重様……!」

「またお会いできて大変嬉しゅう思う、豊太郎殿。若い方の成長の、なんと早いこと」


 近しい間柄の龍助りゅうすけですら、会う度に目を瞠るほどの成長ぶりなのだ。数か月振りに顔を合わせる豊太郎はなおのこと、あらかじめ名乗ったのを聞いていなかったら気付くこともできなかったかもしれない。


 八重が座ると、豊太郎は表情を神妙に改めて、畳に手をついた。


「あの、此度のことでは大変心配しておりました。変わらぬお美しさを拝見して安心いたしました。……ご無事で、本当に良かった」

「相変わらずお上手でいらっしゃる。……家中のことでお耳を煩わせるとは、お恥ずかしい限りなのだが」


 分家の遣いを名乗った時点で予想はしていたが、豊太郎は雪乃の一件を承知しているらしい。子供にいったい何をどのように聞かせたのか、と。吉太郎への怒りに八重の声尖ったのを聞き取ったのだろう、豊太郎は慌てた様子で腰を浮かせた。


「吉太郎は、詫びを人任せにして良しとする男ではございませぬ! ただ……出羽守様がまだお許しにならぬのと、夫ある方に見舞いなど外聞が悪いからというだけで。その、子供ならまだ会っていただけるのではないかと……私から、買って出たのです」

「ふむ……?」

「吉太郎殿は八重様を心から案じております。許しを願うことさえおこがましい、八重様が望まれるならお手打ちになっても構わないと──あの、私からは何とぞご寛恕を願うのですが」

「いや、そのようなことは望まないのだが」


 少年の、意外なほどに熱のこもった言葉に気圧されて、八重は幾度か目を瞬かせた。豊太郎が単なる見舞いで八重を訪ねるはずがない。吉太郎に、詫び以外の思惑があるなら早く聞き出さなければならないのだろうが──つい、この子供と吉太郎の間柄が気になってしまう。


 傷の疼きを散らすべく脇息きょうそくもたれながら、八重は豊太郎をしげしげと眺めた。西の丸に仕えるからにはこの少年も優秀で将来を約束されているのだろうに、どうして年上とはいえ同じ役の吉太郎をこうも熱心に弁護するのだろう。


「吉太郎殿はずいぶんと慕われているご様子。一族の者としては光栄に思うべきだろうか」

「できることなら大納言だいなごん様に長く仕えて欲しいと思っております。ええと、私と共に、ということです。頼れる男と思っておりますので」

「ここにいらした以上はご存知なのだろうが、私は大納言様からあのお人を奪ってしまうかもしれないのだが」


 豊太郎の口上は、商人が扱う品を売り込もうとしているかのようで微笑ましかった。それも、世慣れた商人ではない。八重も店先での買い物などほとんど経験がないのだが、初めての客を逃がすまいと意気込む丁稚というのはこのようであるかもしれない。


 八重の無礼な想像も知らず、豊太郎は大きく頷いて続ける。


「はい。存じておりますし、八重様もご心痛かつお怒りだと聞きました。このようなことがあってはなおさら……ですが、どうか吉太郎を嫌いにならないでくださいますように。決して、悪い男ではないのです」

「それは、とてもよく存じている」


 悪い男ではない──むしろ夫としても父としても真逆だったからこその、雪乃の狂乱なのだろう。迷いなく頷くことができたはずなのに、八重の胸を刀傷よりなおひどい痛みが過ぎる。それを振り払って、八重は豊太郎に笑みを繕った。夫婦のことも男女のことも、子供に聞かせることではない。そもそも彼女にも分からない。それよりも、伝えるべきことがある。


「吉太郎殿もさぞ落ち着かない心持ちでいらっしゃるだろう。父からもお叱りがあったと聞くし……」

「はい」

「私については、お気になさらぬように伝えてくださるか。そう……いつぞやお出しした茶を返していただいたまで、と。それで分かるだろう」


 婿の話を聞かされた場で、怒りに任せて吉太郎に浴びせた茶のことだ。八重にしてみれば消え入りたくなるような恥ずべき的外れの激昂だったが、吉太郎のほうでは幾らか気が紛れたのだとか。勝手な気休めに過ぎないのは百も承知だが、雪乃の鬱憤を傷として受け止めたことで、八重は確かに救われたのだ。吉太郎なら、このような薄暗く後ろめたい考えも理解できるだろう。


(詫びの話はここまで……あとは──)


 判じ物めいた物言いが腑に落ちないのだろう、首を傾げる豊太郎に、八重は改まった声をかけた。


「先ほど手打ちになっても良い、とのことだったが──」

「はい! でも──」


 豊太郎は何か恐ろしい想像をしたらしい。その思い違いに微笑むのも一瞬のこと、すぐに表情を改める。


「そのようなことを命じるつもりはないから安心なされよ。ただ、私は吉太郎殿に難題を出そうとしている。あの方おひとりならば罪滅ぼしと思って遠慮なく押し付けることもできたのだが。──豊太郎殿は、すべての事情をご存知なのだろうか」

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