第5話 束の間の和やかさ

 心に浮かべるだけでも恐ろしいことを、言葉にするのはなお辛かった。それによって、悪い想像が現実のものになってしまいそうで。だが、吉太郎きちたろう金弥きんやも、聞こえの良い慰めを言ってはくれない。


「はい。むしろ、はっきりと勧めた──あるいは命じた方がいたのではないですか。周防守すおうのかみ様が一も二もなく従うような御方が」

「確かに、出羽守でわのかみ様のお考えを漏れ聞いただけで思い切るのは、飛躍しているかもしれぬな」


 万喜まきの父である松平まつだいら周防守の人柄は、悪だくみとはほど遠いのだ。周囲に足並みを合わせ和を尊ぶ温和な人柄ゆえに、老中ろうじゅう首座しゅざとは名ばかりで、意次おきつぐの政策にも諾々だくだくと従ってきたという。だからこそ、八重やえも最初は父の入れ知恵を疑ったのだ。だが、同輩の老中などではない、より尊い筋からの圧力があったとしたら。田沼たぬま家を巡る情勢は、思った以上に分が悪いことになる。


「あの、それでは大納言だいなごん様もお父君と同じお考えでいらっしゃるのでしょうか。周防守様の横槍がただの暴挙ではなくて、後ろ盾があってのことだとしたら……。吉太郎殿の婿入りの件を承諾したのも、お父君の意を汲んでのことだったのでは──」


 家斉いえなりの人柄を、八重は知らない。だが、いかに寵愛篤い小姓の強請りごとといえども、実の父君に逆らっていただくことなど期待してはならないだろう。その御方に周防守への口添えを願うという案は、こうなると成算が薄くなってしまう。


 失意に声を沈ませる八重に、けれど吉太郎は身を乗り出した。


「いえ、大納言様も、将軍世子の選定に当たってご尽力くださった主殿頭とのものかみ様の御恩は承知していらっしゃいます。八重様のことも気に懸けてくださっていらっしゃるし……」

「え──私などを、わざわざ……?」


 身を乗り出したといっても、せいぜいが半歩分近づいたかどうか、というだけだ。それでも吉太郎の語調の強さは、すぐ目の前で熱弁されるのと同じ勢いに感じられて八重は目を瞬かせる。それに、家斉公がわざわざ八重に心を砕く謂れはないと思うのだが。


「いえ、その、金弥殿との間を裂かれる訳ですから、ひどいではないか、ということで」


 八重が首を傾げたことで我に返り、金弥の存在を思い出したのだろう。吉太郎はそそくさともといた位置に座り直した。どうにも慌ただしいし、金弥はお前が言うか、と言いたげに軽く眉を寄せたが──悪意がないことは、よく分かる。事実、八重たちの目を交互に見据えて語る吉太郎の眼差しは、真剣そのものだった。


「幼い御方にも、無理と道理の区別はつくということです。ですから、田沼様のご嫡子のこと、お伝えすればお力になってくださいましょう。ただ──一橋ひとつばし様には知られぬように慎重に運ばねばなりませぬ」


 彼の熱弁する力の源は、単に田沼家への同情が理由ではないだろうと八重は直感した。八重たちへの罪悪感を埋め合わせるため、もすべてではない。幼い主君の正義感を歪めてはならぬ、将来その御方を将軍と戴く者たちに不信を抱かせてはならぬという一心が吉太郎を動かしているように見えた。


(こうまで言わせる御方ならば、きっと……?)


 八重としては、吉太郎を通して家斉公の器を推し量るしかない。この熱意ならば信じられると思いたい──というか、結局のところほかに採れる術はないのだが。


 金弥も八重と同じ感想なのだろう。目を細めて、試すように鋭く問う。


「父君に秘密を持っていただくことになるが。お主としては、そこは構わぬのか」

「一橋様こそ、大納言様には知らせていらっしゃらないのだと思います。幼い御方に、父君が悪事に手を染めているなど教えられるものではございませんから」

「……そうだな。取り繕えることではない……大声で言えることでもない、か」


 確かに、家臣の家の後継者、それも家斉公と同じ年ごろの少年を横から攫うなど、父君から語れることではないだろう。


(そう……だから決して、後ろ暗いことではない。理はこちらにこそあるのだから)


 将軍世子たる御方を私事に巻き込むのも、苦肉の策。理を通すためにそれ以外に方法がないからこそなのだ。金弥と並んで、自らに言い聞かせてから、八重は残る懸念を口にする。


「周防守様は、一橋様や越中守えっちゅうのかみ様にはかられるでしょうな? 大納言様のお言葉がいただける前に、強引な手段に出られるというようなことは……?」


 こうなると、周防守を牽制したことで得られる猶予は思いのほかに少ないかもしれないのだ。ひとりで思い悩んでくれれば幾らでも時間を浪費してくれていたかもしれないが、一橋卿や越中守に注進が及ぶであろうと考えると、次の動きは早いだろう。


「はい。ですから、大納言様にはすぐにお伝えしようと思います」

「俺も、父上にご忠告申し上げよう。大納言様のご厚意をいただけるならば、それを無にせぬように心を強く持っていただかねば」


 とはいえ八重の前にいるふたりの反応も早く、そして心強く、彼女に希望を抱かせてくれた。


 吉太郎の見送りのために座敷の障子を開けると、黒と白と橙の塊が跳ねた。庭の散歩から帰ったところだったのか、日向の温もりを求めてか、三毛猫のはなが、すぐ外にいたらしい。見慣れない客の姿に驚いたのだろう、長い尻尾を逆立てて金色の目を見開いて硬直する小さな獣は、金弥の手にあっさりと捕まって抱き上げられた。


「なんだ華、盗み聞きしていたか」


 不服そうに唸ってはウナギのように身をよじる華に構わず、金弥は機嫌良く腕の中であやし、吉太郎も目を輝かせて覗き込んだ。


「八重様の猫ですか」

「当家の猫だ。挨拶をしていくか?」


(まあ、以前は見向きもされなかったのに)


 少し前までは、華は八重だけの猫だった。いつの間に金弥にも持ち分ができたのかは分からないが、恐らくは華に異論はないから良いのだろう。猫の愛らしさを自慢するかのように吉太郎に差し出す、金弥の得意げな表情こそ愛らしかったりもするのだが。客の前でそれを口にするほど八重は慎みを忘れていない。


「はい。──華様、どうぞお見知りおきを」


 金弥に勧められた吉太郎は、相好を崩して華に手を伸ばした。意外と猫好きなのかもしれない。だが──


「あ」


 見知らぬ男に触れられるのは、華が許すところではなかったらしい。気まぐれで気位が高い猫は牙を剥いて唸ると、金弥の腕から素早く逃げ出して、脱兎のごとく──猫なのだが──庭に消えていった。


「父上のお姿を見ても逃げるくらいですから。お気になさらずに……」


 笑いを堪える金弥を横目に、心底残念そうに眉を下げる吉太郎を慰めながら八重は思う。離縁だの婿入りだのは何もかも放って、このような和やかさがいつまでも続けば良い、と。


 そのようなことが叶わないのは、百も承知しているけれど。

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