第4話 繋がる糸

「主君のためならば悪評も顧みない、ということか……」


 吉太郎きちたろうの言葉を噛み締めるように、腕組みをして瞑目することしばし──やがて目を開いた金弥きんやはしみじみと呟いた。


「そのように大したことではございませんよ」


 応える吉太郎の声は思いのほかに鋭く硬く、吐き捨てるようでさえあった。その語気の強さは、八重やえと金弥に揃って息を呑ませる。


それがしが勝手に案じているだけのことなのですから。一橋ひとつばし様も越中守えっちゅうのかみ様も、あえて大納言だいなごん様に害なすことなどございますまい。ゆえに、これはまったくの私情であって──」


 ふたりの反応にも気付かぬ風で捲し立ててから、吉太郎はふと言葉を途切れさせた。今はまだ夫婦として並ぶ八重と金弥とを見比べて、顔を歪ませて笑う。


「私情のために、八重様を望みました。某はそのような男です」


 少しずつ、八重にも分かって来た。これは、自らを卑下することで八重の後ろめたさを減じさせよう、という吉太郎の手管なのだ。茶の件も暴言の件も、相応の扱いなのだから気にするな、と暗に匂わせて。まったく狡いやり方だ。このように苦しげな顔をされては言葉通りに受け止めることなどできはしない。


「……身勝手というなら私もまったく同様です」


 だから、八重は狡いやり方を真似ることにした。吉太郎の後ろめたさを減じさせるために、図々しさを承知で乞い願うのだ。自身のためだけのことではないと、必死に己に言い聞かせながら。


「詫びるためにお呼び立てしながら、次はもう頼みごとをしようとしております。しかも、吉太郎殿の大納言様へのご忠誠を聞いた後で、我が殿と田沼たぬま様の御為に。雪乃ゆきの殿にも午之助うまのすけ殿にも申し訳ないと思っておりますのに」

「いくらでも無理難題を申し付けていただいてくださいませ。詰るのでも責めるのでも──そのほうが、気が楽というものです」


 案の定、というか。あからさまに安堵した表情を浮かべた吉太郎を前に、八重の胸は乱れた。彼女は、この男と夫婦になる。それがどのような絆になるのか、近いであろう未来が垣間見えた気がしたのだ。


(ああ、私はこの御方と──)


 優れた人物ではあるのだろう。敬いもするし、家のために手を携えもしよう。情も、いずれは芽生えるかもしれない。


 けれど、何よりもまず、双方の負い目を気遣い合う関係になるはずだ。もともとの妻や夫を捨てさせたことをどう償うか、相手のために何ができるかを常に考えて心を砕くのだ。それはそれで、生涯を共にする夫婦の在り方のひとつと言えるだろうか。


「──大納言様のお口添えをいただきたいと存じます。見過ごせぬことが起きようとしているのです……!」


 金弥との別れを確実なものとして見てしまった、心の痛み。前の夫の実家のために頼みごとをする浅ましさ、それによる躊躇い、恥じらい。それらをすべてかなぐり捨てて、八重はひと息に告げた。




 龍助を田沼家から取り上げようとする万喜まきの実家の思惑を聞き終えて、吉太郎は深々と溜息を吐いた。


「あの周防守すおうのかみ様が……思い切ったことをなさるものですねえ」


 万喜の父、松平まつだいら周防守への印象は、八重たちと吉太郎でさほど変わりないらしい。つまり、温厚で当たり障りのない人物。悪く言えば日和見ひよりみとさえ言えるだろう。そのような御方がご自身だけの考えで今回のように強引な真似に及ぶものなのかどうか、八重は疑い始めている。


「父の企みを仄聞なさって勢いづいたのかとも思うのですが」


 八重の父が婿を切り捨てるなら、出遅れて田沼家の陣営に取り残されることがあってはならないとでも恐れたのではないだろうか。父が悪意をもってそそのかした訳でもなし、今さら責める気にはならないけれど。


 ただ、誰が見ても意次の失脚は間近なのかと思うといっそう気が塞がれる。かつては神田橋かんだばしの田沼邸に頻繁に集った、身内同然だと思っていた者たちが次々と掌を返していくのだ。意次の心細さも諦観も、想像するにあまりに容易い。


「そうかもしれません。ですが、某は違う御方が後押ししたのではないかと思います」


 だが、吉太郎は首を振った。八重を慰めるための気休めにしては表情が硬い。八重は金弥と不審の眼差しを交わしてから、吉太郎に先を促した。


「と、言いますと……?」

出羽守でわのかみ様は、某の婿入りを大納言様に打診なさいました。もちろん内々のことではありますが──」

「最初は手放すのを惜しまれたということであったな。大したものではないか」


 金弥の相槌は、揶揄いなのか本気の称賛なのか、八重にも聞き分けることができなかった。吉太郎は前者と取ったようで、苦笑で応じる。


「次期将軍とはいえ、まだ幼くていらっしゃいますから。遊び仲間のまとめ役のようなものですよ」

「頼れる兄君様といったところなのでしょうね……」


 日本橋で出会った豊太郎とよたろうという利発な少年も、家斉いえなり公の小姓ということだった。その年ごろの若者の腕白さは龍助の例で多少は知っているから、西の丸の賑やかさや吉太郎の日ごろの苦労を思って八重は少しだけ頬を緩めた。


「そう、幼くていらっしゃるから──だから、某の件についても、大納言様がおひとりでお考えになったとは限らないのではないか、と。今、おふた方のお話を伺って思い至りました」


 だが、吉太郎の真剣そのものの表情に、弾んだ思いもすぐに萎んでしまう。傍らの金弥を窺えば、彼も眉を寄せている。八重にはまだ掴めない何かを、殿方たちは既に察しているのだろうか。


「気に入っているからこそ、大名家を継がせておいたほうが後々取り立てやすい──それを、ご自身で思いつかれたのかどうか、ということになるか……?」

「そのようなことは、某からも進言いたしました。その、図々しいことこの上ないのですが。なので、ようやく聞き入れてくださったと思ったのですが──思い返せば、少々お気が変わるのが唐突だったかも、と」


 ならば、家斉公を教え諭した何者かがいるということだ。恐れ多くも将軍世子にそのようなことができる者はごく限られる。しかも、ごく内密のこと、父だとてよくよく口止めを願っただろうに。──いや、もっと簡単なことだ。


「それは、つまり──」


 十を幾つかすぎたばかりの子供が、困りごとや悩みごとがあった時にいったいどうするか、ということだ。気に入りの小姓を手放したくないと、泣きつくとしたら。


 八重が言わんとしたことを察したのだろう。目に同情と気遣いの色が浮かべて、吉太郎は頷いた。


「大納言様は、実のお父上の一橋ひとつばし様にご相談なさったのでしょう。そして、一橋様がご存知と言うことは、越中守えっちゅうのかみ様にも伝わったと考えるのが妥当かと。同じ御三卿ごさんきょうで、従兄弟でいらっしゃるのですから」


 吉太郎の推測は明快で筋が通っていた。恐らくはそうであろうと納得しつつ、それでも八重は呑み込むのにいささかの時間を要してしまった。というか、それが何を意味するかを考えたくなかったのだが──都合の悪い事態から、目を背ける訳にもいかなかった。


「では……周防守様も、そのおふた方から……? そうだとしたら、周防守様が考え付かれたというよりは、一橋様や越中守様が主殿頭とのものかみ様を追い詰めんとしているのでは──」

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