第2話 次の手

 遣いの者たちが退出したのを見計らって、龍助りゅうすけを連れた八重やえが襖を開けると、万喜まきたもとで目元を抑えていた。


「母上、どうなさいましたか!?」

「構いません、龍助。嬉しくても涙は出るものなのだから」


 その言葉通り、顔を上げた万喜は微笑んでいた。この一年近く、悲しみや憂いに沈む表情ばかりを見ていた八重にとっては眩しいほどの晴れ晴れとした笑顔だった。かつてはこの方の常だったふわりとした表情で万喜は八重と金弥きんやを見渡し──深々と頭を垂れた。


「本当に、何とお礼を申して良いか……。龍助のこともありますが、何よりも金弥様と八重様に失礼だと思っていましたもの。はっきり言っていただけて、胸がすく思いでしたわ」

「私も同じです。本当に……! 近ごろは、鬱憤が溜まることがあまりに多かったものですから」


 八重も、そして恐らくは金弥も、自らの心のままに振る舞っただけ。万喜に頭を下げさせるいわれなどごうもないから、八重は慌てて義姉の傍らに進み出て助け起こした。万喜の手が八重の腕に縋り、一瞬、抱き合うような形になる。そうして間近に微笑み合うのは、悪戯が成功した子供のような心地だった。


「──それにしても、先ほどの者たちの慌てようと来たら……!」

「面白いほど顔色がくるくると変わっていましたのよ。八重様がご覧になれなかったのが残念なくらい!」


 金弥や龍助の目も憚らず、そして年甲斐もなく、八重と万喜はしばし、高らかに笑い声を唱和させた。けれど、笑いの発作が収まると、万喜はまた心配そうに眉を顰めた。


「……でも、よろしかったのでしょうか。その、おふたりは、もう……だから、先ほどの人たちが後になって……」


 万喜が言いづらそうにして、はっきりと言葉にすることができなかったのが何なのか、八重にも金弥にもよく聞き取れた。彼女たち夫婦の離縁はもはや避けられぬと伝えた時も、この方は大いに嘆き同情し、憤ってくれた。だから、「そのように」思い至るのも当然のことだ。


 他家の者にまで噂が及ぶ中で、水野みずの家の若殿は自身の進退について何ひとつ知らぬし気付いていない、ということになってしまったのだ。うの体で逃げるように退出したあの男たちも、冷静になったらどう思うだろうか。すぐに取り上げられる立場に驕った愚かな若者と、笑い草にでもするだろうか。


「承知しております。切り捨てられるのも知らずに吠えていたと、せいぜい笑えば良いのです」


 自身に向けられるであろう嘲りや憐憫を予想して、けれど金弥は不敵に笑っていた。その表情は、夜遅くまで語らった時の父のそれとよく似ている。酒杯を傾け、頬を紅潮させながら、父もまたやけに楽しそうにうそぶいていたのだ。


『水野家の悪評に磨きがかかることになるな! 婿に何も知らせず画策しているのかと、周防守すおうのかみ殿もさぞ呆れ果てることであろう……!』


 娘夫婦にすべてを明かしたことで、肩の荷が下りたかのようだった。もちろん、意次や周防守に対しては、まだまだ父に矢面に立ってもらわなければならないから安心してもらっては困るのだが。恩人の没落はどうあっても止められぬと悟っての、自棄のような思いもあるのだろうが。


『ご自身の企みを棚に上げて、ということになりますな。実のところは何も知らぬのはあちらのほうだというのに!』


 それでも、父と夫はかつてなく親しげに酒を酌み交わして八重を喜ばせた。婿の振舞いに内心苦い思いを抱えていたであろう父と、実家の格に遠慮と負い目があった夫と。このような機会だからこそかえって心が近づいたのは、八重と同じ、なのだろうか。


(だから良かった──などとは、思えぬが……)


 だが、父を疑い不満と苛立ちを募らせるだけだった日々を思えば、少なくとも前に進んでいると思える。金弥の余裕も、為すべきことを見出したことが心の糧になっていると見えた。


「どうせ世の者は何も知らぬのですから。何を囁かれようとも気にすることではございません。義姉上は心穏やかに、龍助は健やかに──それだけで良いではございませぬか」

「金弥様……」


 決して無理に励ますのではない、強がるのでもない──心からの言葉だと、万喜にも伝わったのだろう。不安に翳っていた顔に、ようやく微笑の光が射した。


「今日のこと、父には私から報告いたしましょう。そろそろ弱気を叱っても良いころ合いでしょうから」


 まずは機先を制することができたが、結局のところ金弥は田沼たぬま家を離れた身なのだ。当主たる意次が周防守の圧力に屈する──というか、喜んで龍助を逃すつもりなら抗えない。父の説得だけでは力不足だというならば、残った息子にも言葉を尽くしてもらわなければ。それに──


「あの、でも──松平まつだいらのおじい様は、これで諦めてくださるでしょうか……?」

「さすが、龍助殿は賢くていらっしゃる。すぐに油断なさらないのは良いことです」


 大人と同じ視座で鋭く──けれど不安げに──指摘した龍助の目を覗き込んで、八重は微笑んだ。母君ともども彼のことを守る、と宣言したのは嘘ではない。嘘にはさせない。こちらには、まだ手札があるのだ。


「金弥様だけでなく、私の父も田沼様のために尽力する所存です。それに──この、私も。殿方だけに任せようなどとは思っておりません」

「叔母上……?」


 女だてらにいったい何ができるのか、と。浮かんだ疑問を口に出せずに首を傾げる龍助に、八重は今は何も言わない。まだ、確かに約束できることではないからだ。


「万喜様も龍助殿も、どうか信じてくださいませ。世間の流言に関わらず、貴方様がたを心から案じる者がいるのですから」


 母子の目を交互に見て訴えながら、八重が思い浮かべるのは吉太郎きちたろうの姿だった。将軍世子に仕え、かつ、その御方の信任篤いという彼に、主君からの口添えを依頼することができれば──そんなことができれば、田沼家の後継についてもはや誰も口出しできない。


 いずれ将軍位を継ぐ御方が、いちいち臣下の跡目に関心を持ってくださるかは、分からないが。そもそも、吉太郎には先日の非礼を伏して詫びなければならないのだが。──それでも、やるしかないだろう。


(しかし、気にしない、とは──結局、あのお人の言うのもごもっとも、ということになるのか?)


 金弥も八重自身も、図らずもかつて吉太郎が言ったのと似たようなことを述べてしまった。何も知らぬ者の言うことになど耳を傾ける必要はない。何が正しいかは自身が承知していれば十分。無責任な放言なのか、真理を突いた金言なのか──もう一度会えば、分かるだろうか。

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