天明五年 初春 八重姫様御奮闘
第1話 反撃
かねてから依頼していた通り、
屋敷の主人たる
「今日にも
松平家の用件は、万喜の説得だ。亡夫の菩提を守るのは諦めて、龍助と共に実家に帰れ、と。万喜の実家の語気は日に日に強まって、最近では意地を張ることこそ意次の厚意への不孝だ、などと詰め寄られることもあるのだとか。まったくもって身勝手極まりない言い分だ。
嫁ぎ先の嫡子を奪うなど、本来ならば許されない暴挙のはずなのだ。だが、今回に限っては意次が弱気になっている。万喜や龍助までもが田沼家に向けられた嫉妬や敵意の標的になるのを恐れるのは、無理のないことではある。だが、当の本人たちがそれを望んでいないのだ。近しい身内としては、ここでひと肌脱がずに何としよう。
「父がいては、それこそどうぞどうぞと龍助を渡してしまいかねないご様子なのでしょう。ならばこの機会に時間稼ぎをさせてもらいましょう」
「私は、隣で龍助殿と控えております。何があっても攫わせたりなどはいたしません。それに、殿の『芝居』が楽しみなのですわ」
万喜と、母の傍に控える龍助に向けて、八重と金弥はあえて軽やかに笑ってみせる。
父も交えて、彼女たちは何ができるか、を語らっていた。
孫への累が及ぶことを恐れる意次の説得も、必要だろう。しかし父をもってしても心を変えさせることができぬならば、当面の相手は松平周防守であろう、ということになったのだ。
屋敷の主が不在の日であるから、今日は田沼邸も請願の人の列とは無縁だ。喪中の家に相応しい静かさの中、八重は龍助と共に襖も締め切った薄暗い部屋に籠った。隣では、万喜と金弥が遣いの到着を待っている。
「私も、母上をお守りしたいのですが」
まだ寒い季節のこと、こちらの部屋にも火鉢を置かせているが、龍助は不要と言わんばかりに姿勢良く端座して八重を見上げている。叔母に庇われて匿われる立場が不満らしく、むくれる姿も愛らしい。聡明で知られた父に似た利発さからして、たとえ幼くても松平家の者に言い包められるようなことはないのだろう。でも、子供が矢面に立つ必要はない、というのが大人たちの一致した考えだった。
「まあ、頼もしくていらっしゃいますね」
だから、八重は龍助の目を見つめて、ゆっくりと含めるように諭す。
「ですが、万喜様や龍助殿をお守りする者がいることを、おじい様に信じていただかなくてはなりません。ですから、今日のところは叔父上と叔母上にお任せくださいませ」
子供の意地を宥めるには、理屈では到底足りないだろう。事実、龍助は何か反駁しようと大きく息を吸った。が、同時に隣から襖を開ける音がしたから、八重は人差し指を唇に当てて甥を黙らせる。松平家の
「これは──
「事前に伝える暇がなくて申し訳ございませんでしたね。ですが、大切なことですからご同席いただくことにしたのです」
「はあ、然様でございますか……」
松平家から遣わされたのは男がふたり。無論、襖越しでは顔色を窺うことなどできないが、戸惑う声の色からは、予期せぬ邪魔者の存在に顔を見合わせているのがありありと見えるようだった。
(ひと目で殿が分かるとは、話が早くて助かること)
田沼家を介した姻族同士、松平家の家中にも金弥の顔を見知った者はいて当然だった。とはいえ、実際に名乗るまでもなく気付いてくれるのはありがたい。
「呼ばれもせぬのに居合わせる非礼は詫びよう。だが、実家でもあるし義姉上のたっての願いでもあるし、構わぬな?」
(まあ、なんと楽しそうに……!)
あらかじめ決めていた台詞を
「万喜様、これは──」
「貴方がたが申すのが本当かどうか、確かめねばなりませんもの。迂闊なことを触れ回っては、水野様にも大変な失礼になってしまう」
不躾な用件を携えて来た実家の者たちに対しては、万喜もさすがに硬い声で応じている。そうでなかったとしても、既に座を占めている者に面と向かって帰れとは言えまい。だから──彼らは心構えもないまま金弥に対峙するしかないのだ。
「聞けば、松平殿のご家中ではこの俺が田沼家を継ぐことになっているとか。だが、先ほど呼び掛けていただいた通り、俺は水野家に婿入りした身。いったいどうしてそのようなことになるか──周防守様はどうしてそのようにお考えなのか、説明してもらえるのだろうな?」
「それは……その」
「私どもは遣いで参っただけで」
計算通りに遣いの者たちの声が途切れるのを聞いながら、八重は不思議そうに目を瞬かせる龍助に微笑みかけた。声を立ててはならぬから、唇の動きだけで、伝える。
(申した通りになりましたでしょう?)
こくりと素直に大きく首を頷かせる龍助の姿が愛らしくて、八重は笑みを深める。前もって筋書きは知らせていたけれど、こうも上手く行くとは思っていなかったのだろう。万喜も龍助も、父たちの水面下でのやり取りの全容を知ったのはつい最近だから、無理もないが。
金弥は間もなく水野家を放逐される──内密のはずの話は、老中を勤める家々の間に思いのほかに知られてしまっているようだ。直接の当事者ではないはずの松平周防守に漏らしたのが意次なのか、あるいは父の言動の端々から知られてしまったのか、はたまた父の近侍に不心得な者がいたのかは分からないが。とにかく、周防守も父の尻馬に乗って田沼家を見限ろうと決意したていどには、既定のこととして認識されている。
だが、内密のことはあくまでも内密のこと、なのだ。金弥は表向きは変わらず水野家の嫡子として扱われている。父も意次も、表だってそのようなことは口にしない。誰が何をどこまで知っているか──確かに断言できる者などいないのだ。
「兄の非業の死を良いことに、俺が実家の家督を奪おうとする男に見えたのか? 婿に迎えてくださった出羽守様の御恩を裏切り、妻を捨てて甥を追い出してまで? 見損なわれたものだな!」
だから、松平家の者たちには分からない。金弥が離縁の話を知らされているのかいないのか。知った上で惚けている、などとは疑えまい。婚家から斬り捨てられようという者にとっては、実家に席が空くのは確かに僥倖──松平家の言い分に加担するのが道理なのだから。
(だから、殿は何も知らぬと考えるはず)
そして、貴方は離縁されるはずです、などと面と向かって言えるものではないのだ。心情としてできぬのはもちろんのこと、この遣いの者たちにそのような権限はない。万一、金弥が本当に何も知らぬなら、迂闊なことを教えてはことを荒立てることになってしまう。
「失礼いたしました。何かの行き違いがあったようです」
「さ、然様。これは一度出直しませんと」
恐らくは混乱のただ中であっても、松平家の遣いたちは正しい結論に至ることができたようだった。つまりは、主に話を持ち帰り、指示を仰ぐ。周防守とて、父や意次にはっきりと質すことはできないだろうから、懊悩に幾らかの時間を費やしてくれることだろう。
「そのようにしていただきたいものだ。俺の評判にも関わることだからな……!」
捨て台詞のように吐き捨てた──と見せかけて、金弥は内心では快哉を叫んでいるはずだ。襖越しの声でも顔が見えずとも、今の八重ならそれがはっきりと分かるのだ。
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