第3話 御大変

 森田もりた座から浜町はまちょう水野みずの家中屋敷に戻るまでの道行は、八重やえの人生でもっとも不快なものだった。駕籠かごは大いに揺れる上にやたらと速くて、暴れ馬に乗せられているかのような心地で。駕籠のかき手たちも、江戸城での変事を知って動揺しているのだ。


 きっと、万喜まきのほうも似たような有り様だろう。江戸の街中を疾走する武家の駕籠は人目を惹くに違いない。駕籠に付された紋に気付く者は、どれだけいるだろう。いずれにしろ、森田座で事件を知ってしまった客たちも、各々の家族や知人に吹聴して回っているはず。田沼たぬま意次おきつぐの嫡男が斬られたとの報は、今夜のうちにも江戸中に広まることだろう。


(いや、まだご容体は知れぬ……何より、山城守やましろのかみ様に非などあるものか……!)


 彼女自身の夫のことはさておき、万喜の夫の意知おきともも、その父であり比類なき権勢を誇る意次も、少しも驕ったところのない穏やかで柔和な人柄だ。義理の父も兄もその妻も、悲しむところなど見たくない。だが、凶報をもたらした田沼家の遣いの者の、声も表情も張り詰めていた。いったい何が起きているのか──不安は、駕籠の揺れと相まって八重にひどい酔いを味わわせた。




 屋敷の奥に戻った八重は、落ち着かない表情の奉公人たちに迎えられた。彼女らも、八重が知らされたのと同じ程度の情報しかまだ与えられていないらしい。

 予定よりもだいぶ早く帰邸できたとはいえ、もちろん呑気に寛ぐことなどできるはずもない。しかも、幸か不幸かは分からないが、夫の金弥きんやは邸内にいないようだった。


「殿は、また神田橋かんだばし様に?」

「はい。今日はあちらにお泊りになると、先ほど報せがございました」

「この場合では当然であろうな。主殿頭様や万喜様もお心強いことであろう……」


 彼女の不興を恐れているらしい侍女に、八重はできるだけ平静な表情を保って頷いた。主としての配慮でもあるし、そもそも夫の不在に寂しさや心細さなど感じない。夫がいたところで、きっとまた口論になるだけだ。それくらいなら、田沼家にいてもらったほうが良い。


 日が傾き、夕餉の時間になっても新たな情報がもたらされることはなかった。田沼家の人々を思って箸が進まない八重を余所に、猫のはなだけがいつも通り主と同じ膳を平らげてご満悦の表情で毛繕いしている。


 重苦しい空気に耐えかねたのか、侍女のひとりが溜息混じりに漏らした。


松本まつもと御大変おたいへんの時もこのようだったのでしょうか……」


 その呟きは、無理のないものではあった。だが、同時に聞き捨てることもできないものでもあったから、八重は鋭く咎めた。


「縁起でもない。滅多なことを申すでない」


 松本御大変とは、今を去ること五十余年の享保きょうほう十年に水野家を見舞った一大事だ。当時、信濃しなの松本藩七万石を治めていた当主水野忠恒ただつねが、江戸城内で刃傷沙汰に及んだのである。刃を向けられたのは、長府ちょうふ世子せいし毛利もうり師就もろなり。互いに知らぬ者同士だったというから、忠恒が突如乱心したものと考えるほかない。


 御城内で刀を抜くなどあり得べからざる狼藉、忠恒は即刻切腹を命じられた。先例に倣えばお家も取り潰しが当然のところ、水野家は神君徳川家康公の母君於大おだいの方に連なる名門であった。その名が惜しまれたために、辛うじて七千石の旗本としてお家の存続が許されたのだ。そして、八重の父忠友の代で駿河するが沼津ぬまづ藩に封じられ、水野家が再び大名に返り咲くまでに、実に四十年以上がかかっている。まだ小娘であった八重も、その時の家中の沸き立ちようはよく覚えている。父が田沼意次に恩を感じるのも、その引き立てによってお家再興の悲願が叶えられたからこそなのだ。


 松本御大変に際しても、幕府から沙汰があるまでに家中は騒然としたという。お家の存続が叶わぬならば城を枕に討ち死にするとまで息まいた者もいるとの語り草だ。だが──


「此度のことでは山城守様は襲われた側なのだ。沙汰があるのは佐野とやらの方であろう」


 江戸の御城でのこと、下手人が既に確保されていることを八重は疑っていない。罪に対する罰が正しく下されることも。若年寄である意知がひとりきりだったはずもないから、凶行はすぐに取り押さえられたことだろう。


(そう……お命にかかわるようなお怪我ではない、はず……)


 松本御大変で斬りつけられた毛利師就も、軽傷で済んでいるのだ。この不安も落ち着かなさも、一時のこと。じきに見舞いに伺う算段をつければ良い、それだけのはずだ。


「不心得でございました。取り乱すことなく山城守様のご無事をお祈りしなければなりませんのに」

「うむ。こちらが騒ぎ立ててはかえって邪魔になるというもの。父上か殿か──すぐに、仔細を知らせてくださるであろう」


 侍女に対してはもっともらしく告げながら、八重の胸は不穏に高鳴り続けていた。


『ああ、あの七光りの!』

『調子に乗っているからだろう。良いざまだ』


 人が斬られた話を聞いて、森田座の客たちは沸き立っていた。場違いに明るいあれらの声が耳について離れなくて、どうにも嫌な予感がしてならなかった。

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