第21話 クマとの遭遇

 寺山たちが冬季屋外飼養の試験を行っている頃、高度成長を謳歌していた日本の景気にも陰りを見せ、ドルショックやオイルショックによる不況の嵐が全国に吹き荒れていた。

 一方、全国各地で公害問題がクローズアップされるようになっていた。急激に経済発展した陰で、車の排気ガスや工場の煤煙、有害物質を含んだ工場排水や廃棄物などによる、公害病と呼ばれる疾患が、各地で発生していた。このため、排出規制や使用制限、さらには自然保護や環境保全を求める声が高まっていた。農林水産業においても、農薬の人体や動植物への影響、過度の開発による自然災害の発生などが問題となっていた。


 牧野開発においても、大型機械を用いた大規模開発が、北海道内各地で行われていったが、急峻な斜面を切り開いたため、雨や雪解けによる土壌浸食を起こす牧野や、想定よりも牛が集まらず、牧野が荒廃していく牧場も出てきていた。このため、農務省も、牧野の造成や管理に環境保全的考えを取り入れて計画する必要があると考え、そのための研究を推進していた。その目玉となる研究の一つが、広中が取り組んでいたリモートセンシングであった。


 リモートセンシングには、いろいろの定義があるが、広中が行っていたのは、飛行機などから撮った空中写真を用いて調査する方法だった。

 空からの写真撮影は、19世紀中頃には行われており、20世紀初頭には地図の作成に利用されるようになったと言われている。測量の他には、森林の調査などに利用されてきた。牧野も森林と同様面積が広いので、地上でその状態を把握するのは、労力が掛かる。このため、リモートセンシングは、草地管理の手法として大きく期待されていた。


 広中たち、リモートセンシングの研究者は、写真に写る牧草や木々の色の違いから、ある植物の広がり具合や生育状況、病害の有無などを知ろうとしていた。そのために、いくつかの波長に分けて撮影できるマルチスペクトルカメラという機械を使って、富岡砦の上から牧草を撮影したり、庁舎の近くの畑作物の畑に、高さ十メートルの足場を組んで、小豆やバレイショの葉を撮影したりするなど、いろいろと試みていた。

 寺山が広中に見せてもらった写真では、普通のカラー写真では、はっきりしなかったバレイショの葉っぱの病変が、赤外線フィルターを通して撮った写真で、はっきりと分かった。


 広中は、このような基礎的な研究を進めた後、気球にカメラを吊して上げたり、小型飛行機を飛ばしたりして、より高い高度からの撮影も行っていった。広中以外にも、全国の牧野研究者が、リモートセンシングに取り組み、牧野に生えている牧草と雑草の割合がどのように変わっていくのかとか、土壌浸食がどのように広がっているのかなどを調べて、牧野の環境保全に役立てようとしていた。

 一方、広中と富岡は、雨が多い日本は、植生遷移における極相である森林にもどりやすく、牧野を安定して維持するには、現在森林になっている場所は、その形成段階で、地形(方位や傾斜角など)や土壌、気象が大きく関わっており、牧野だけでなく森林の生態についても調査する必要があると考えた。そのため、道内の単独峰を中心に山腹の森林を調査することにした。その一環として行った恵庭岳周辺の調査に、寺山も同行することになった。


 恵庭岳は、支笏湖の北西に位置する単独峰で、山体の形成に当たって何回も噴火を繰り返してきた。18世紀頃から噴火活動は治まっているが、噴火口では、噴気が続いているので、山頂付近は、立入り禁止になっている。

 恵庭岳の名前は、アイヌ語の「エ・エン・イワ(頭のとがった山)」からきており、その名の通り、突き出たような頂上から山麓に向かって急斜面が続いている。山腹にはエゾマツ、トドマツとダケカンバを主体とした針葉樹と広葉樹の混生林が広がっており、支笏洞爺国立公園に指定されている。


 寺山たちは、山を南西から北東にかけての直線上を調査することにしていた。全てを調査することは無理なので、航空写真を見ながら、山頂に近い部分と山麓に近い部分を選び、何日間か掛けて、木の種類や密度、胸の高さでの直径などを測定していった。南西側は、登山道が整備されていなかったので、まずは南東側の調査を行った。


 彼らが、山頂付近まで来ると、眼下に碧い支笏湖が見え、湖の反対側には、風不死岳ふっぷしだけと特徴的な溶岩ドームを持つ樽前山が望めた。山の南西側に目を向けてみると、稜線に沿って、赤茶けた曲がりくねった二本の筋が見えた。数年前に開催された冬季オリンピックの滑降コースの跡だった。

 この頃の恵庭岳には、冬季オリンピックの時に作られた登山道や、滑降競技のコース跡が残っていた。恵庭岳は、国立公園内だったため、競技場の設置は、自然破壊だとして反対意見も多かった。このため、オリンピック終了後に全ての施設を撤去し、コースの跡地も植林をして原状回復を図ると言うことで開設されたのである。


 南西側の調査では、コース跡と残されていた作業道を使って登っていった。コース跡は、確かに植林され、アカエゾマツやトドマツ、ダケカンバなどの幼木が並び、土留めのために播かれた牧草が、大小様々な石が転がる中に生えていた。

 ゴール前の壁と言われた、30度以上ある急斜面をなんとか登り切って下を見ると、斜面の急さがが実感できた。

「すごい急斜面だな。大倉山のジャンプ台くらいの角度がありそうだ。」

「こんな所、よく滑り降りれるよな。足がすくんで、俺は無理だな。」

「テレビ中継で言ってた様に、支笏湖に飛び込むみたいな感じだ。」

と、口々にコースのすごさを語った。その一方で、現状について、

「木を何本植えたか知らないが、どれだけ定着したんだろう。」

「こんな石ころだらけの場所では、大雨や雪崩で流された苗木も多かっただろうし、根付いて大きくなるまで何十年も掛かるんじゃないかな。」

「原状回復させるっていうが、元の姿に戻るのは、100年くらいかかるだろうなぁ。」

と、感想を話しながら、木々に囲まれたコース跡を登っていった。

 たしかに、コースになっていた所は、一面石ころだらけで、植林された木もまだ弱々しかった。寺山は、自然破壊と言われれば、その通りだと思った。同時に、自分たちが行ってきた牧野開発も自然破壊だったのだろうかと、一瞬思ったが、牧草や野草が生い茂る山道を登るうちに、そんな思いは薄れていった。


 恵庭岳の調査は順調に進み、最後の調査地点は、山の南西側の山麓のコース跡付近の林であった。寺山が、トドマツの直径を測っていると、背後から獣くさい臭いがする風が吹いてきた。ふと前を見ると、少し離れたところにいた広中と富岡が、慌てた様子で寺山から遠ざかろうとしながら、何か叫んでいた。しかし、寺山が熊よけに鳴らしていたラジオの音が大きく、2人が何を言っているのかは聞こえなかった。

 彼らが、寺山の後ろの方を指さしていたので、振り返ると、少し遠くのササ藪の中で、黒い影が動くのが見えた。すぐにそれが熊だと分かると、彼は、血の気が引く思いがし、ヒア汗が出てきた。そして、ゆっくりと富岡たちの方に向かって歩き出し、やがて小走りになって熊から逃げた。彼らは、少し高い段差の上に登って、木の影から、熊の様子を伺っていた。

 寺山は、段差を乗り越え、なんとか富岡たちに追いついたところで振り返ると、熊は、寺山たちが出していた大音量のラジオの音に気づいたのか、こちらに向かうこともなく、反対方向に向かって歩き出し、チシマザサの藪の中に入って姿が見えなくなった。それを見て3人は、顔を見合わせて、「ふぅ~」っとため息をつくと、汗がドッと吹き出るのを感じた。

「行っちゃったみたいだな。よかったな。でも寺山君は、危なかったな」

と、富岡が言った。これに寺山は、

「何言ってるんですか。何も言わずにサッサと逃げようとしてたじゃないですか。それに、さっき木に登ろうとしてませんでした。」

と言って、自分を置いて逃げようとしていたと、富岡に詰め寄った。

「そんなことないよ。たまたま君の方が熊に近かっただけだよ。木に隠れて様子を見ようとしただけだよ。木の上に逃げたって無駄なことは君も知っているだろ。」

と、富岡が釈明していると広中が間に入り、

「まあまあ、君の気持ちも分かるが、俺たちだって逃げる前に大声で叫んだんだぜ。でもラジオの音の方が大きくて気がつかなかったみたいだったんだ。」

と、状況を説明してくれた。富岡と広中がいた方が風下で、少し風もあったこともあり、叫び声が聞こえにくかった可能性もあったので、寺山は渋々納得した。

 とりあえず全員無事だったが、熊が出たこともあり、この日の調査は中止し、山林を管理する事務所に連絡して試験場に引き上げることにした。このことにより、しばらく入山が規制されることになり、調査を続けるのは断念せざるを得なくなったが、すでに必要なデータの大半を取り終えていたので、富岡と広中の研究には支障がなく、2人は、引き続き他の山や試験場内での調査を進めていった。


 試験場に帰ると寺山は、塩野や一木から、

「とんだ災難だったな。この間はトド山で遭難し、ここんとこ、災難続きだな。」

「おまえさん、厄年っしょ。ちゃんと厄払いした方がいいんでないか。」

と、はやし立てられた。寺山は、ちょうど後厄の歳になっていたので、そのことを告げると、みんなから厄払いを進められた。そこで、月寒にある神社に行って、厄払いをしてもらうことにした。しかし、その後も場内では、「寺山が、熊と戦って、一撃で熊を退散させた。」とか、「寺山の研究室の室長は、寺山を置き去りにして熊から逃げた。」などと、しばらくは噂が絶えなかった。



 広中が、牧野管理に新しい技術を持ち込んで研究しているのを見て、寺山も何か新しい技術を取り入れてみたいと考えた。牧野開発部自体、研究の主体が牧野の造成、改良技術の開発から牧野と放牧牛の管理や貯蔵飼料生産に変わりつつあった。寺山は、欧米に比べ遅れていた放牧家畜の管理に技術の進展を見いだそうと考えた。


 道内で使われている寒地型牧草と呼ばれるヨーロッパ原産の牧草は、季節によって生育速度が異なり、春は急激に生育するが、暑さに弱いため夏になると伸びなくなり、涼しくなる秋にもう一度少しだけ生育した。このため寺山は、ある牧場から、

「草があるのに、牛がなかなか大きくならない。なんでかな。」

と、相談を受けたことがあった。彼が牧場に行ってみると、確かに放牧地の入口から見ると牧草は十分に生えているように見えたが、中に入ってみると、生育が進んで堅くなった草や踏み倒された草ばかりであった。牛たちは、芝生のように短くなった場所の草を食べていた。この部分の草は、何度も牛が食べるので短く、あきらかに草が足りていなかったのである。

 これは、牧夫がよく牧野を見ていなかったために起きたことであったが、牛が放牧地でちゃんと草を食べているのかを知ることは大事なことである。特に、子牛を大きくすることが目的の公共牧場や、牛乳を生産している牧場では、放牧している牛にとって必要とする栄養分を取らせるためには、放牧草をどれだけ食べているのかを知る必要があった。このことは、放牧の研究者たちにとって永遠の課題であり、様々な研究が行われていた。


この時期、全国の試験研究機関では、進展著しい電子機器を用いた様々の方法に挑戦していた。当時最新のビデオカメラとオープンリールのビデオデッキや夜間でも撮影できる暗視装置(こちらは16ミリフィルム)で放牧牛の行動調査を行った所や、牛の体に筋電図のセンサーを取り付け、電波でデータを飛ばして記録することに挑戦した所もあった。一方、牧場の現場では、牛がどこにいるのかが簡単に分かる方法が要望され、発信器を取り付けて探すことも検討されたが、装着が上手くいかなかったり、電波が届く距離が短かったりで、上手くいかなかった。


 寺山も、独自の方法として、マイクを取り付けた頭絡とうらくを牛の頭にかけ、牛が食べている時の音を録音することを考えた。マイクを取り付けるのは上手くいったが、鞍に付けて背負わせた録音用のカセットテープレコーダーは、小型とは言え、明らかに牛の負担になっていた。このため、この方法は断念せざるを得なかった。


 いずれの研究も、アイディアはよかったが、当時の機器では、性能や大きさ、稼働時間など、様々な問題があったため、ものにならなかった。その後も、新しい電子機器が登場する度に技術開発が行われたが、実際に使える機器ができるようになるのは数十年先のことであった。

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