第19話 雪上分娩と札幌オリンピック

 寺山たち牧野研究室は、引き続き冬季屋外飼育の試験を行っていた。育成牛を屋外で無事に飼うことができたことを受け、次は妊娠牛を飼って、雪上で分娩させることに挑戦することにしていた。

 今度は妊娠牛と言うこともあり、給与する乾草かんそうは、それなりに良質のものを使い、不足する栄養分については、サイレージと配合飼料を給与することにした。親牛は外でも大丈夫そうであったが、産まれたばかりの子牛が、寒さで弱ってしまうかも知れないと考え、子牛を風雪から守る施設を設置することにした。


 試験場の外では、オリンピックに向けた施設の建設や道路工事が行われていた。国道36号線は、拡張されて4車線の道路となっていたが、月寒の旧町役場の近くに、アイスホッケーの会場となる施設が建設されていたこともあり、工事車両などにより度々渋滞していた。

 オリンピックの準備は、渋滞だけでなく物価高も引き起こしていた。渋滞の方は、工事の終了と高速道路の開通により徐々に解消されたが、物価高の方は、続いていた。このため、試験区内に設ける予定の風除柵の資材費も値上がりしていた。


 そんな中、寺山たちが牧野センターの作業小屋で、出入りの業者から風除柵用の鋼材の納入を受けていた。そこに突然、一木いちのきがやってきた。一木は、寺山に用があってやってきたのだが、作業室の机の上に置いてあった納品書を見ると、

「なんだいこりゃ。いつからこんな高くなったのさ。儲けすぎだべさ。」

と、笑いながら言った。半ば冗談で言ったのだが、出入り業者の海野金物店の山田はまだ若かったので、困惑した顔をしていた。

「これでもギリギリ安くしてるんです。元値が上がってるんで、お願いしますよ。」

これを見て一木は、笑いながら言った。

「ほんとか、もうオリンピックの工事も終わって、資材は余ってんだから、安くしたっていいんでないか。」

「そんなことないですよ。ホテルの建設や道路の整備は続いているんですから。」

と、困り果てていると、2人のやりとりを見ていた寺山が、

「もう勘弁してやれよ。ところで何しに来たんだ。ここに来るなんて珍しいな。」

と、助け船を出した。


「そうそう、あんたたちオリンピック見に行かねえか。知り合いから頼まれちゃってよお。」

一木はある競技のチケットを出した。一木は、札幌市内のスポーツ団体の役員などをやっているので、いろいろの競技団体に知り合いが多くいた。一木が寺山たちと話し始めるのを見て山田はそそくさと出て行った。


「これって、なんだ。」

初めて聞く競技の名前に、寺山たち牧野1研の面々は戸惑いの顔を見せた。

「そり競技の一つだよ。俺も見たこないんだが、そりに乗って、曲がりくねった氷のコースを一気に滑り降りるらしい。すごいスピードが出るらしい。」

一木が説明したが、誰もピンとこなかった。寺山たちが思い浮かべるそりは、馬や犬が引くそりで、人だけで、しかも氷の上を滑るそりがどのようなものか想像がつかなかった。


 そり競技は、全般的にヨーロッパで人気があるが、当時日本では、冬のスポーツが盛んな北海道ですら、ほとんど知られていなかった。このためチケットの売れ行きが悪く、一木が頼まれたのだろう。寺山たちは、オリンピックの期間中は、屋外飼育の試験中であったが、せっかくの機会なので、塩野と広中と交替で行くことにした。


 資材が納入されると早速、風除柵と子牛用のシェルターが製作され、設置された。今回試験に用いるのはアンガス種だけで、試験牛14頭のうち8頭が、試験期間中の1月中旬から2月上旬にかけて分娩することになっていて、残りは、4月以降に分娩する予定であった。寺山は、オリンピックの観戦予定日は、分娩予定日にかからないので、観戦に行っても試験への影響は少ないと考えていた。


 この年の冬は、寒気が厳しく、雪も多かった。1月中旬になると積雪も深くなり始め、それと同時にアンガスの分娩ラッシュも始まった。

 札幌の1月は、最高気温が氷点下になる真冬日が続く、1年の中でも最も気温が下がる時期で、マイナス10度以下の寒さの中で分娩することもあった。


 深雪の中に産み落とされるより、雪が踏み固められた場所の方がいいので、育成牛を使った試験の時のように、乾草を広い範囲に撒いて踏み固めさせることにした。おかげで、比較的広範囲が踏み固められ、冬季の屋外という厳しい環境の中で、分娩しやすい環境が整っていった。


 分娩が近づいた牛の多くは、風除柵の近くにある食べ残した乾草の上に横たわって休息を取ることが多かった。上手く分娩すれば、子牛はこの上に産み落とされるが、中には誤って雪の上に落ちる子牛もいた。

 子牛が産まれ落ちると親牛はすぐに子牛を舐め始める。産まれたばかりの子牛の体は濡れているが、親牛が舐めることにより乾いていくので、体温の低下による衰弱や凍死を防ぐことができる。

 分娩経験が初めての親牛の中には、子牛を舐めずに育児放棄してしまって子牛を死なせてしまうこともあるので、今回は、分娩経験豊富な親牛を選んで試験に用いていた。それでも、このような環境下での分娩は、何が起こるか分からなかった。


 子牛は、産まれて10分から15分位で立ち上がり始め、何度か倒れて雪まみれになりながら、立ち上がって親牛の乳頭を探そうとする。最初のうちは、目がよく見えないため、なかなか親牛の乳頭を探し出すことができないが、やがて、足下をふらつかせながらも乳に吸い付き、飲めるようになる。

 この間子牛は、ずっと小刻みに震えているが、小1時間もすると、足取りもしっかりとしてきて、乳を十分に飲めるようになり、震えも止まる。

 寺山は、子牛が産まれてからわずか30分程度で、親牛の乳を吸い始めるのを見ていると、その早さに畏敬の念を抱かずにはいられなかった。彼らは、いつでも分娩の補助や子牛の看護ができるよう準備をしていたが、全て無事に分娩することができ、人の手を煩わすことはなかった。


 産まれたばかりの子牛を厳寒から守るため、敷き藁代わりの乾草を敷いた子牛用のシェルターを試験区の真ん中に設置していた。産まれたその日に小屋に入って行く子牛もいれば、3日位してから入る子牛もいたが、いずれにしても、親牛は小屋には入れないので、子牛は子牛同士で群れを作って仲良く休息し、乳が飲みたくなると小屋から出てきて親牛の所に行った。

 親牛は、基本的に自分の子牛にしか乳をやらないので、授乳中は、他の子牛が近づかないように神経質になっている。一方、定期的に行われる混合飼料の給与時には、親牛達が餌場に殺到し、競って餌をあさっていた。この時に授乳が重なると、殺気だった親牛たちに、子牛が踏まれたり突かれたりされるので、このような親子は、餌場から離れて授乳していた。このため親牛は、混合飼料を食べ損なうことになるのである。

 一方、子牛も生まれてから4ヶ月ほどにもなると、親牛たちが混合飼料を食べるのに集中している隙に、自分の親でない牛から乳を吸う子牛もいた。自分の子でない牛に乳を与えるとは、普通なら起きないことだったが、隙をついた見事な盗乳であった。これを見ていた寺山たちは、牛の中にも頭が良くて要領がいい奴がいるもんだと感心した。


2月に入り、分娩予定の親牛全ての分娩が終了した頃、休憩時間に作業小屋でオリンピックの中継をテレビで見ていると電話が鳴った。寺山が電話に出ると、部長の秘書的役割もしている庶務主任からであった。寺山に会いたいというお客が来ているので、部長室に来て欲しいとのことであった。

 寺山が庁舎に戻って部長室に入っていくと、ソファーに大柄の男が腰掛けて部長の喜久知と話をしていた。その男は、20年位前に、場内の焼山の頂上近くで会ったウィリアムス元アメリカ海兵隊軍曹ことウィリーであった。


 ウィリーは、寺山が入ってきたのに気がつくと、すぐに立ち上がり、満面の笑みを浮かべながら、両腕を広げて抱きついてきた。そして体を離すと、大きな手を差し出した。寺山は、その大きな手とがっちりと握手を交わすと、昔のことが思い浮かんできた。

「テラヤマサン、オヒサシブリデシタ。アイタカッタデス。」

と、ウィリーが挨拶した。相変わらず日本語が上手であった。寺山は、ニッコリして、

「ほんと、久しぶりだな。20年ぶりくらいかな。元気そうで良かった。昔は、縦に大きかったが、横にも大きくなったな。」

と、ウィリーの大きなお腹に手を当てながら言った。ウィリーは、自分のお腹をさすりながら、

「ハハハ、グンタイヲヤメテカラ、ドンドンセイチョウシマシタ。」

と、言った。三人は、笑いながらソファーに座ると、出会った時の話に花を咲かせ、各々の近況について語り合った。


 今回ウィリーが来日したのは、札幌オリンピックの観戦のためとのことであった。当初は、息子がアイスホッケーチームの一員として参加する予定で、その応援が目的であったが、ケガで代表から漏れてしまったので、単なる観戦になってしまったと残念がっていた。息子もチームのサポート要員として来日しているが、なかなか会えないらしい。


「アスワ、ロシア(ソビエト連邦)トノ、タタカイデス。ヤツラワ、クニニヤトワレテイル、プロノチームダカラ、タイヘン、ツヨイデス。アメリカモ、NHLノセンシュガデレタラ、ゼッタイマケナイノデスガ、ガクセイチュウシンノチームデワ、タイヘンキビシイデス。デモ、キットヤッテクレマス。オウエンシテクダサイ」

「もちろん応援するよ。でも、息子さんが出られないのは残念だな」

「アメリカとソ連なんて、最高の一戦だね。」

と、3人は、アイスホッケーの試合のことで盛り上がった。

 なお、翌日行われた試合では、ソ連が7対2で圧勝し、最終的に、全勝で金メダルを獲得した。アメリカは2位で、日本は9位だった。


 オリンピックの話を一通り終えると、寺山の試験の様子を見に行くことになった。氷点下の気温の中、寺山と喜久知は、厚手の重いジャンパーを着ていたが、ウィリーは、モコモコと餅を積み重ねたようなジャケットをワイシャツの上に羽織っただけだった。珍しそうに寺山が触ってみると柔らかかった。

「いくらからだが大きくて丈夫でも、ワイシャツの上に、こんな軽いジャンパー一枚じゃ寒いんじゃないか。」

寺山が、心配そうに尋ねた。しかしウィリーは、

「ノープロブレム。コレワ、ダウンガ、ハイッテイテ、カルクテ、アタタカインダヨ。」

と、言って、両手を広げながら言った。当時、日本ではまだダウンジャケットは、一般には広まっていなかった。


 車を降りて試験区の柵の前に立つと、親牛たちが集まってきたが、子牛たちは、シェルターの中で休んでいた。牛を見てウィリーは、

「オー、アンガスデスネ。アンガスワ、イイウシデス。ワタシノボクジョウニモ、タクサンイマス。」

と、目を輝かせて言った。さらに、

「ワタシノボクジョウワ、フィードロットナノデ、マイツキ、ナンビャクトウモ、シュッカシテイマス。ニホンニモ、シュッカシタイノデ、ワギュウヲ、カイタイデス。」

と、自分の牧場のことを話した。


 フィードロットというのは、肥育牧場のことで、アメリカの場合、一つの群れが数百頭という大規模な牧場が多い。寺山たちは、ウィリーとアメリカと日本の肥育のことや牛のこと、肉食文化のことを語り合った。

「ワタシ、サッポロニクルマエ、トウキョウノギンザデ、マクドナルドノ、ハンバーガーヲタベマシタ。ワカモノガ、タクサンアツマッテイマシタ。コレカラ、アメリカノタベモノガ、ドンドン、ヒロガッテイクト、オモイマス。ステーキモネ。」

「なるほど、ハンバーガーか。ミンチにしてしまえば、アメリカの固い肉も食べられるな。きっとハンバーガーは広がるよ。でも、ステーキはどうかな。」

ウィリーの言葉に、喜久知が応えた。アメリカでステーキを食べた経験を踏まえてのことだった。それを聞いたウィリーは、

「ワギュウノヨウニ、ヤワラカクテ、アブラガオオイニクヲツクルニワ、ナガク、カウヒツヨウガアリマス。デモ、ソレワ、ヒコウリツデス。モウカリマセン。」

と、嘆いた。しかし彼は、今は牛肉の輸入規制があり、1ドルも300円位するので、日本に輸出するのは難しいが、規制がなくなり、もっと円高が進めば、きっとチャンスがある。その時は、日本人の口に合った肉を輸出できるようにすると抱負を語った。


 すでにドルは、固定相場から変動相場制に移行していたが、国民総生産(GNP)が世界第2位になっていた日本の円は、ドルに対して安すぎると言われていた。この10数年後、円高が進み、アメリカからの牛肉の輸入自由化要求を受け入れた日本は、アメリカからの牛肉の輸入量が大幅に増え、国内の肥育農家の多くは、輸入牛肉との差別化を図るため、和牛を中心に、トウモロコシなどの濃厚飼料の多給による高品質化(霜降り重視)を目指すようになっていった。このため、寺山たちが薦めてきた草資源を活用した外国品種による牛肉生産が、国内で広がることはなかった。


 ちなみに、対日要求を主導した全米肉牛協会の幹部としてウィリーがいたことを、寺山は知るよしもなかった。 

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