第6話 伊那 19歳 運命が動く

 空の色が違って見えた。伊那の心には、不思議なはっきりした予兆があった。落ち着かないそわそわした感じと、揺るぎない確信が交錯していた。


 私は、今日、誰かに出会う。


 なんだろう、この感覚。そして、誰に出会うというのだろう。

 今朝アパルトマンを一歩出て、空を見上げたときからその確信はずっと伊那の心から消えなかった。

 伊那はいつも通り大学に行き、授業を受けながらその内なる確信を反芻していた。午前の授業の後には、長い昼休みがある。伊那は大学内で軽い昼食をすませると、5月の明るい光に誘われて大学外へ散歩に出かけた。大学から少し歩いたところに、同じ大学の学生たちもよく利用しているカフェーがある。普段ならただコーヒーを飲むために利用したりしないのだが、朝からずっと続いている不思議な確信を落ち着かせたくて、ゆっくりコーヒーを飲もうと思いついた。

 カフェーのドアを開けると、明かりのよく入る窓際に座る。顔なじみになっているギャルソンが笑顔で近づいてきたので、コーヒーを注文する。お昼休み?とギャルソンが問う。そう、長い休み時間なので、ちょっとコーヒーが飲みたくなった、と返事をすると、ウィ、それはいいことだね、と返事をしてギャルソンが去っていく。

 フランスの有名なカフェーには、たいていカフェーを代表するギャルソンがいる。明るくて人懐こく、客のことをよく覚えていて、話し相手にもなってくれる。ギャルソンは名前をアンドレと言った。日本で有名なマンガに出てくる名前でしょう、知っているよ、と話してくれたことがある。おかげで日本の人にはすぐ名前を覚えてもらえる。あまりにも日本の人に言われるから、僕もマンガを読んだよ。そう言って笑っていた。


 伊那は、ふとカフェーの入り口の扉を振り返る。その瞬間、朝から続いていた確信が、まるで現実であるようにはっきりしたパワーを持って迫ってくる。

 あの扉だ。あの扉を開けて、私が待っている誰かが現れる。


 伊那はもう扉から目を離せない。

 だが、すぐに扉は開かない。

 なんだろう。なぜこんな感じがするのだろう。

 こんな感じを受け取るのは生まれて初めてだわ。


 キイ、と扉を開けて、伊那の運命が姿を現した。

 プラチナのように輝く白い髪がまるで光輪のようにその人の顔を華やかに照らしている。北欧人並みの堂々とした体躯だが、顔立ちは東洋人だ。眼光は鋭く、人を圧倒するような気を放っている。入り口近くにいた年配の男性が、振り返ってその人の姿を認め、ボンジュール、と声をかけた。

 その人は、そちらを向いて「Bonjour」と声を発した。

 その声の深くて重い響き、それでいて輝くような華やかさを放って空間を満たす圧力、その声のあまりの美しさに伊那は息を飲んだ。こんな声を発する人に出会ったことはない。なんという、輝くような波動を放つ声だろう!

 カフェーにいた人はみんなその人のほうを振り返り、口々にボンジュールと声をかけた。その人のことをみんなが知っているようだった。よくこのカフェーに来る人なのだろうか。なにをしている人だろう。

 そのときアンドレがコーヒーを運んできた。アンドレもその人にボンジュールと声をかけた。その人が輝く声で「Bonjour」と返す。アンドレは、その人から目を離せない伊那を見てにっこり笑う。

「とても迫力のある人でしょう」

「ええ、そう、とても素敵な声の人だなと思って」

「そりゃもちろん、彼は歌手ですからね。」

「歌手なの?!」

 伊那は思わず大きな声を出してしまった。その声にふとその人が振り返る。その人は不思議な磁力のある強く鋭い視線でまっすぐ伊那を見つめていた。アンドレがかわりに答える。

「あなたが歌手だと説明していたんですよ」

 伊那は少し居心地が悪かった。カフェーの他の人の反応からして、かなり有名な人なのだろう。あなたのことを知りませんと言っているようなものだ。その人は表情を和らげて笑った。

「では、マドモアゼルのために私が歌手だと証明しようか」

 その人のその発言に、店にいた全員が声をあげ、拍手する。

「ロウが歌ってくれる!」「ロウが歌を!」

 その人はカフェーの隅においてあるアップライトピアノに向かって歩いていく。伊那はさらに居心地が悪くなった。この国の男性たちは基本的に大人の女性に向かってマドモアゼルとは言わない。マドモアゼルと呼びかけるときは、小娘扱いされているのだ。

 その人はピアノの蓋を開き、すっと椅子に座るとためらいもなくピアノを弾き始めた。少し哀愁を帯びた東洋的な旋律。その人は目を閉じ、息を吸うと静かに歌い始めた。

 中国語の歌、「在那遥遠的地方」だ。


 そうか、この人は中国の人なのか。


 伊那はこの歌を、有名な歌手が歌っているのを聴いたことがあった。その歌手は恋の歌らしく優しく温かく歌っていた。

 だが、いまこの人が歌っている歌には、もっともっと深い想いがある。恋よりももっと深い何か、失われた何かを思う深い想い、哀しみと懐かしさと深い愛、失った故郷を思うような、郷愁だろうか。

 伊那の心の奥に、中国のどこまでも広い草原が見えた。果てしなく広がる草原と、はるかに高い青い空、吹き抜ける風、そこに生きている人々の暮らし、笑顔、人と人のふれあい・・・。それはすべて失われたものだ。もう戻らない。その哀しみが胸に迫った。


 伊那はカフェーの中の割れんばかりの拍手ではっと我に返った。

 まるで自分自身が中国の草原にいたようだ。時空と時空がつながって、中国の大地に吹きぬける風を頬に感じていた。


 この人、ソートグラフィストだ!


 伊那は直観した。ソートグラフィストは、写真に念を映し出すことのできる「念写」ばかりが取りざたされるが、本質的にはそういう能力ではない。自分が思い描いたエネルギーを他者に送り届けられる能力のことだ。心に描いた絵を送ることができ、心に描いた感情を送ることもできる。悪用すれば他者を自分の思い通りに操ることができる。

 あの輝く声と、迫力のある容姿と、この能力があれば、歌手としてはこれ以上のぞむべくもない最高の組み合わせだろう。

 その人はカフェーの客たちの拍手に答えて笑顔を見せ、軽く会釈した。まだ拍手は鳴りやまない。だが、その人が立ち上がってピアノの蓋を閉めると、人々はさっともとの空間に戻った。伊那は人々の切り替えの早さに感心した。この国の人々は、芸術家に対するけじめ、礼儀のようなものが行き届いているのだろう・・・。

 その人は伊那のテーブルに近づいてきた。微笑んで口を開く。

「マドモアゼル、私が歌手だとわかってもらえたかな?」

 伊那はどきまぎして答えた。

「えーと、あの、ごめんなさい・・・」

 つい、日本人のくせで最初に謝ってしまってから、しまったと思った。この国の人々は滅多に謝罪の言葉を口にしない。謝罪するということは、にっちもさっちもいかない深刻なトラブルの上、自分に相当な非があるときだけだ。案の定、突っ込まれた。

「なぜ謝るの?」

「えーと、その・・・。」

 緊張しているせいか、うまくフランス語が出てこなかった。その人はふっと笑った。

「日本語でかまわないよ」

 急に日本語で声をかけられて伊那は目を丸くした。

「日本語が話せるんですか?」

「私の母親は日本人だ」

 ああ、と伊那は思った。この人は日中のハーフなのか。日中のハーフ・・・この人の年齢を考えると、それは難しい生まれなのでは、とふと感じた。

「君は日本人じゃないかなと思ったよ。ちょうど日本語で話したいと思っていたんだ。少し日本語で話してもいいかな?」

「はい、もちろん」

 その人はアンドレに合図をして、こっちに座るよ、と言った。


 カフェーの他の客たちは、伊那が中国人だと思っただろうか。だが、中国人であるこの人が日本語で話していたとしても、陸続きのヨーロッパでは隣の国の言葉を話せる人は珍しくもなく、誰も不思議に思ったりはしない。

 伊那はこの国に来てから、自分が今まで「わかってる」と思っていたことがいかにちっぽけだったかとつくづく思っていた。少し霊感があるといったところで、私は何もわかってなどいないのだ。違う国で暮らせば、自分の常識や思い込みを根底から覆される。

「私はファーン・ピョォウという」

「えっ?」

「聞き取るのは難しいだろう。ロウでいいよ」

「ロウ?」

「日本語でいえば、お兄さん、みたいな呼び方だよ」

「ロウさん?」

「呼び捨てでいいよ」

「それはちょっと、日本では呼び捨ては難しいです」

「そう、日本人にとってはそうみたいだね。君は?」

「私は伊那です。齋藤伊那」

「イナ、それは・・・珍しい名前なのかな。あまり聞いたことはない。もっとも私は一度も日本に行ったことはないのだが。」

「珍しい名前だと思います。私はイナという名前の人に一度も会ったことはないです。祖父が仏教に縁のある名前としてつけました。あ、でも、イナという町の名前はあります」

「そう、仏教に縁のある名前なんだね」

 伊那は、ロウの瞳が心なしか柔らかくなったことを感じた。この人は仏教徒なのだろうか。

「ええ、祖父が熱心な仏教徒でしたので・・・。祖父は私が生まれてすぐ亡くなりましたが、最後に私にイナと名付けてくれと言ったのです。それで両親は、私にイナと名付けました。」

「漢字を教えてくれる?」

「はい」

 伊那はバッグの中からノートを取り出した。

「大学生なの?」

「そうです、パリ大学の留学生です。去年の秋にこちらに来ました」

「フランス語には苦労しただろう?」

「今でも苦労しています」

 ロウの瞳が優しかった。伊那は久しぶりに日本語で話していて、リラックスするのを感じていた。母語で話すと素の自分に戻れる気がする。本当の想いを語っている気がする。単語のひとつひとつに積み重ねた歴史があり、小さなころから馴染んだ世界があり、そこからくる安心感には、どんなに外国語が上達しても決して超えることのできない自分の根底を支えてくれる力強さがある。

 伊那はノートに「斎藤伊那」の漢字を記した。ロウは伊那が書いた漢字をじっと見ていた。それから目をあげてまっすぐ伊那を見て

「イナ、だね。いい名前だ」と言った。

 ロウが発音するイナは、日本語の伊那ではなく、フランス式の発音のイナだった。ロウは日本で育っておらず伊那という単語は知らないのだろう。フランス式のイナになってしまうのは仕方なかった。

 ロウは伊那のペンを手に取り、伊那が書いた漢字の横に、「潘彪」と記し、「私の名だ」と言った。

 ロウが書いた「潘彪」の漢字の美しさに伊那はため息をついた。この人は書道の達人でもあるのだろうか。伊那が書いた漢字は、ロウの漢字の横では、まるで頭の悪い子供が書いた落書きのようだ。


「書道が得意なのですね」

「書道は好きだったな。美しい漢字を書くには、文字のひとつひとつが生きているように書けばいいんだよ。動物の絵を描くのと似ているかな」

 伊那は、ロウが記した漢字をじっと見つめていた。文字が生きているとはどういうことだろう。見つめていると「潘彪」の漢字がゆらりと揺れてふわりと立ち上がったように見え、伊那ははっとした。だが、息をのむとすぐに漢字はもとの文字に戻った。

 いまのはいったいなんだったのだろう。


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