第5話 伊那 15歳 魂の病

 夜になると、また足を引っ張られる。朝になり、陽の光が差せば戻れるが、体と魂がうまくつながらない。体と魂の間にずれができてしまったようだ。

 伊那は「離魂病」という霊的な病にかかっていた。魂魄が体から抜け出てしまい、いつもうつろで反応のない人間のことだ。

 原因ははっきりわかっていた。

 一か月前、伊那は真夜中に目が覚めた。部屋の外から光が射している。だがこの光は、天使や神仏が通るときの光ではない。光は冷たい白銀色に輝いている。伊那は寒気を感じた。


 見ないほうがいい。

 

 本能的にそう感じた。だが、もう遅かった。

 白銀の光の道を通り、きらめく氷のような寒々とした光に包まれた小さな女の子が現れた。割れしのぶの髪形に色とりどりの花かんざし。白銀に塗られた能面のような顔と振袖に半だらの帯。姿形は舞妓だが、明らかに魔物だった。

 

 見てはいけない。


 伊那は必死に目をそらしたが、舞妓姿の魔物は伊那の真正面に回り込み顔を見上げると、にやり、と笑った。

 幼い顔に真っ赤な口紅がまるで血がしたたるようだった。


 ただ、目があっただけだ。でもその日から、伊那は完全にバランスを崩していた。


 いつもだるく、疲れやすい。目覚めていてもいつもうつろで集中できない。心配した家族や友達がいろいろ言ってくれたが、その言葉も耳に入って来ない。


 そして夜になると、伊那の部屋は魔界に姿を変える。幽霊ではない。幽霊ならいくらでも対処はできる。奇々怪々な姿を持つものが、あちらこちらから集まってくる。あるときはまるで動物のようにキーキーと声を出しながら騒ぎ、あるときは恐ろしい大声で威嚇する。目覚めている間は対抗できるが、疲れ果てた伊那が眠りに落ちた瞬間に体に触れられる。ときには手足を引っ張られ、ときには爪を立てられる。魔物が爪を立てると、皮膚ではなくて、骨を直接削られるかのような痛みが走る。伊那は完全に疲弊していた。どうしたらいいかわからない、というよりは、もはや解決しようとする気力が出てこなかった。


 伊那はこういうときに相談する人を持っていなかった。


 幼いときから、スピリットフレンドがずっとそばにいたことの弊害だ。現実の世界の中に見えない世界のことを相談する相手がいない。いまはスピリットフレンドもいない。宇宙図書館にアクセスすることもできない。別次元の自分に出会うこともできない。そもそも十三才のときに出会った少女ー過去世の自分自身は、次に会うのはずいぶん先になる、と予言していた。


 伊那は食事が喉を通らなくなった。家族は心配して、優しく諭したり、ときには激しく怒ったりしたが、どの言葉も耳に入ってこない。伊那はどんどん痩せていった。学校だけは行っていたが、毎日体を引きずって生きているかのようだった。

 伊那は抵抗する気力もなくなっていった。

 なにもかもどうでもいい。そんな思いに囚われていった。


 ある夜、伊那は、なにかどろりとしたものに体を撒かれ、空中高く吊り上げられた。

 

 連れていかれる!


 伊那の中に眠っていた、最後の生命力が目を覚ました。だめだ、連れていかれてはいけない、逃げなくては。


 助けて!

 

 伊那の魂が叫び声をあげた。


 その瞬間、伊那の体は柔らかいシルクのような布にふわりと包まれた。

 すべるように空中を運ばれ、静かに優しくベッドの上に降ろされる。もともとの伊那のベッドだ。

 布がはらり、と取り払われた。


 伊那の目の前に立っていたのは、全身を包む紅蓮の炎、隆々とした体躯、異形の姿。しかし、その瞳は凪いだ透明な青い海のごとく澄み切っていてどこまでも優しい。


 不動明王だ!


 目を見開いてベッドの上に身を起こした伊那から、すっと不動明王は後ろに下がった。

「我に触れてはならぬ」

 その声は、空間を伝ってくる人の声ではなく、直接、伊那の頭の中へ荘厳な鐘の音のように静かに優しく広がって響いてきた。伊那は動きを止めた。

「我の炎でそなたの身を焼くわけにはいかぬ」

 炎は不動明王の周囲の空間を轟轟と燃やし続けている。それは炎だが、地上で見たどの炎より美しく、その舞うような美しく柔らかい動きに伊那は魅了された。なんて綺麗な炎だろう。伊那は、一瞬、いまの状況を忘れて炎に魅入られていた。

「だが、そなたに残る魔の影は焼いてしまわねばなるまい」

 ふっ、と不動明王が息を吹きかけると、その炎の眩しさに伊那は思わず目を閉じた。目を焼かれたような気がしたが、瞬きのあとも同じ視界が広がっていた。

「ゆっくりお休み、つうよ」

「つう?」

「異世界に通じるもの、の『つう』だ」

 そう言い残して、すっと不動明王は消えた。


 伊那は茫然と、不動明王が消えた後を見つめていた。

 部屋には、なんの魔の影も残っていない。魔が出入りしていた空間のゆがみは消えていた。不動明王が焼いていったのだろう。もう魔物は出入りできない。もう安全だ、大丈夫だ。

 魔物の舞妓の姿を思い出しても、それは遠くゆらいでいるかのようにぼやけていた。はっきり姿が思い描けたのは、エネルギーラインがつながっていたからか。そのラインを不動明王は焼いていったのだ。


 お礼を言うヒマもなかった。


 伊那はそう思ったが、そもそもお礼など必要としない存在かもしれない。

 それにしても、どうしてわざわざ私に「つう」と呼びかけていったのだろう。


 それにしても、なんという美しく優しく響く声だったのだろう。

 私の体を包んだ布の、柔らかい優しい肌触り。忿怒の形相とはまるで違う、静かな澄んだ瞳。

 お寺でよく見かける不動明王像と実像は、ここまで違うのか。

 なるほど、「不動明王は、姿に似ず本当は優しい仏様」といろんなところで書いてあるのは、こういうことか。


 ふと伊那は思い出した。

 私と入れ替わりに亡くなった祖父は、たしか熱心な仏教の信仰者であったはず。私の名前も、仏教からつけられていると聞いた。いままでは、仏教そのものには興味はなかったけれど、私自身ではなくて、祖父のご縁ということもあるのではないか。

 いったい、祖父が信仰していたお寺というのは、どんなお寺なのだろう。


 伊那が母親に、祖父がよく行っていたお寺に行きたい、というと、母親はすぐ次の日曜日に行くよう手配をしてくれた。母から父に話がいったのか、父も一緒に来るという。伊那が急に正気に戻ったので、両親はともに安堵していた。

 伊那は久しぶりに、家族三人で小旅行をすることになった。妹は学校の部活があるので行かない、という。そもそもお寺などに興味はなさそうだった。


「私たちは画数を考えて、伊那という名前にしたのだが、いの音は維持の維で、維那、というのがお祖父さんがご縁のあったお坊さんの役職名だよ。高野山で弘法大師さまにお食事を差し上げるお役目のことだ」

 そう父が教えてくれた。

 伊那は弘法大師のことは歴史の授業でしか知らなかった。高野山、金剛峯寺、真言宗、空海、弘法大師。比叡山、延暦寺、天台宗、最澄、伝教大師。この二つを対で記憶すること、それが勉強であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。宗教に興味はなかった。

 伊那の霊的な興味は、星と数字と自然界の精霊に偏っていた。だが、偏っていることにもまだ気づいていなかった。それでも、純粋に不動明王のことを知りたいと感じていた。あんな風に人を救ってくれるとは知らなかった。神仏というのは、遠いどこかにいるお高い存在などではなく、現実的に人間界に介入する存在だったのだ。

 空海や最澄も、私のように直接、明王様や観音様に出会って、それを他の人にも知ってほしいと思ったのだろうか。


 伊那は不動明王についていろいろ調べてみた。伊那が直接出会った不動明王と、描かれている不動明王はずいぶん違う。

 右手に剣、左手に縄を持っていることになっているが、どちらも持っていなかった。忿怒相、という怒りの表情をしていることになっているが、穏やかで静かな瞳をしていた。轟轟と燃える炎を背負っていたのは確かだ。


 だが、どんなに本を読んでも、伊那が本当に知りたいようなことは書いていなかった。

 どうやって助けを求める人間の声を聞き分けるのか。

 持っていた布は何だったのか。

 そもそも、人間界とどういう関わりなのか。

 魂はあるのか?寿命は?宇宙の最初からいるのか?星との関わりは?

 一体なのか?多体なのか?分裂するのか?

 中国から渡ってきたことになっているが、では国籍があるのか?神仏の国境はどうなっているんだろう?

 日本の神々のほうが古くて、仏教は新しい、つまり仏教系の観音や明王は若いのか?


 なぜ、つうと呼んだのか?

 私との関係は?

 呼べば来てくれるのか?呼び方は?


 そうした答えは、一切、本には書かれていない。


 もっとも、数字のことも、星のことも、自然界の精霊のことも、本には書かれていない。結局は、自分の感覚を信じるしかない。でも、そういった感覚もだんだん薄くなってきているのを伊那は感じていた。宇宙図書館へいく道も見つからない。


 伊那は維那について調べてみた。

 そもそも、この役職名も中国仏教からきている。中国では,僧衆を統理する意味で綱維の維と,羯磨陀那の那をとって,維那という役職を設けた、と記録に書いてあった。つまり、僧侶たちを監督するような役割らしい。

 高野山では、維那という役職名は、弘法大師に食事を捧げる役目のことを言う。


 弘法大師に食事って、なんのことだろう、と伊那は思った。大昔に死んだ人のはずだけど。


 弘法大師:空海が亡くなったのは835年4月22日だ。だが、実際に醍醐天皇から「弘法大師」という名前をもらったのが921年で、そのとき、空海の御廟、つまり墓の中に入った僧が「大師は生きたまま眠っているようだ」と伝えている。

 そもそも空海は、座禅を組んだ状態のままで入滅したと言われている。空海の呼吸が止まったことを確認し、弟子たちは空海を座禅そのままの姿で触れず、建物全体を廟とした。

 それから87年度、空海の廟に入った僧は「生きたまま眠っているようだ」と発言した。その僧は、空海ののびた髪と髭を切り、傷んだ衣服を着替えさせたのだという。

 そこから空海の伝説が始まる。

「お大師さまは死んだのではなく、生きたまま御仏になられたのだ」

 そう人々はウワサした。

 生きている間も、けた外れの霊能力の持ち主であったのだろう空海には、不思議な伝説がたくさんあった。そもそも、まともな航海技術もなかった9世紀に、当時の中国へ船で行き、生きて帰ってきて中国仏教の神髄を伝えられたということ自体が、すでに奇跡的ともいえる。空海の中国への航海は、荒れ狂う海の中を不動明王が導いたと言われていた。

 目的地の長安から遥かに離れた土地に漂着した空海は、流暢な唐語で自分たちの出自と目的を唐の人々に説明し、流麗な唐語の嘆願書を書いて、その土地の役人たちを味方に変えてしまった。長安に到着してからも、経典を理解するために必須である、難解なサンスクリット語をわずか半年でマスターしてしまったのだという。空海がこれほどの卓越した語学力を持ちえたのはほとんど神業といえる。

 空海の伝説の中には、空海に神秘性を持たせるために後世が作りあげたものもあるだろうが、それでも常人離れした才能と魅力を持つ人物だったことは間違いない。そうでなくて、伝統的に神道を信仰してきた日本にあれだけ仏教を根付かせ、現代までもその流れを引き継げるわけがない。


 空海が、いま、自らの廟の中でどのような状態なのかを知っているのは維那だけだ。維那だけが廟の中の空海に対面し、食事を捧げ、衣服を替える。そして、維那は自分が廟の中で見たものを決して他言することはない。


 祖父は、この僧が高野山の「維那」であったときに知り合い、その後「維那」の役職を辞して、地方の寺に行ったあとも追いかけるようにこの僧のもとに通ったのだという。祖父より年上であったこの僧はとっくの昔に亡くなっており、この僧のことを知る人もほとんどいない。真言宗は妻帯を禁じていないが、この僧は独身であったため血縁も残っていない。


 伊那は両親とともに、祖父がよく通っていたその寺に参拝に行った。

 そこに、不動明王がいた。


 動かない石像ではあるが、あの夜助けてくれた不動明王の、不思議な紅蓮の炎の形に見覚えがある。もちろん、石像の紅蓮の炎は動かず、伊那が見た紅蓮の炎は轟轟と燃え立っていたのだが、炎の高さと形に特徴があった。この石像を作った人は、間違いなく本物を見て、その姿を映しとったのだ。


 だが、石像は何も語らない。イメージもこない。アクセスはできなかった。それでも、アクセスできない、というよりは、不動明王が意図をもって沈黙しているように伊那は感じた。

 伊那は心の中で、そっと不動明王にお礼を言った。


 しばらくたってから、伊那はなんだかおかしくなってきた。

 不動明王さまって、まるでスーパーマンだわ。ピンチのときに颯爽と現れて、助けたらさっと去っていく。しかも、仏教の中の立ち位置と違い、なんて優しい仏様なんだろう。


 またピンチのときには表れてくれるのだろうか?呼べば来てくれるのだろうか?

 だが、それから伊那がどんなに呼んでも、不動明王は二度と現れることはなかった。不動明王がおられる、という評判のあるどの寺に行ってみても、どの不動明王も一切反応せず、コンタクトもできなかった。みんな沈黙を守っている。みんな、という表現が正しいのかどうかはわからないが・・・。

 不動明王との邂逅はただ一度、決して二度目はなかった。


 神仏が直接介入するのは、生命の危機のみ。伊那は、そんな原則を思い出した。

 本当に魔に魅入られて、死んでしまうところだったのだわ。

 そう伊那は理解した。それからも、不動明王の像をみかけたら、そっとお礼だけを言うようにしたが、不動明王は何の反応も返さなかった。





 

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