第7話

「ごぼっ! ごほごほっ!」

 突然視界が明るくなった。

「はぁっ、はぁっ」

 俺は辺りを見渡す。

 透明なドア、白い壁、床のタイル、お湯で濡れた浴槽のふち——風呂場だ。

 体に纏わりつくぬるくなったお湯が経った時間を教えてくれた。どうやら湯船に浸かっているうちに眠ってしまったようである。

「し、死ぬかと思った……」

 鼻からのついたお湯が流れてくる。俺は風呂で溺れかけていた。

 湯船から出た俺はシャワーを浴びて体を温めなおす。

「涼太ー! いつまで入ってるのー!?」

 母さんの声が俺を呼んだ。

「ごめーん! 寝てたー! 今上がるー!」

 俺は間抜けな口調で応える。

 浴室を出るとタオルで体を拭いて下着を穿いた。体がまだ冷えている。気温の高い時期でも寒い時は寒い。ドライヤーで髪を乾かしたのち、ようやく暖かいと思えた。


「母さん、ごめん。ぬるくなっちゃった」

 歯を磨いた俺はリビングに入る。

「そりゃあ一人で二時間も入ってればね」

 今日はいつも以上に疲れていた、そんな言い訳が頭をよぎったが、言えない。たかが風呂で寝ただけなのに、物凄く申し訳なく感じていた。いや、申し訳ないというよりも。寝ている時に観た夢のせいだろうか。内容は覚えていないが、とても酷い夢だった気がする。

「——きっとお父さんが居なくて油断したのね」

 母さんがそんなセリフを言った。

「それは違う」

「え?」

 父さんが居ない、その言葉を聞いて、否定したくなった。

「父さんはもう、大丈夫だよ。あんなに愛情のこもった弁当を作ってあげたんだからさ」

「そういう意味で言ったんじゃ——」

「わかってる」

 そういう意味じゃない事はわかっている。でも母さんは父さんが居ない時、とても不安そうなのだ。きっとまだ、母さんの傷は癒えていない。それなのにあの時、俺は心の中で父さんの肩を持っていた。あの時だけじゃなく、今までも。

「——何故か思い出したんだ。でも大丈夫、父さんも好きだけど母さんも好きだから。何かあっても俺が大丈夫にするからさ」

「涼太」

 俺は両親に気を遣っている。

 でも両親も俺に気を遣ってくれている。

 それだけじゃない。

 三人が三人を支えている。

 だから大丈夫だ。


 翌朝——。

 昨夜ベッドで寝た俺は夢を観た。なんというか、下品な夢だ。夢には嶋田が出て来た。取り敢えずそれだけ覚えてれば十分だ。

 何故か風呂での夢は、思い出せない。


 階段を降りるとテレビの音が聴こえる。リビングに入るとその内容がわかった。トイレはどうやったら爆発するのか、みたいな検証をしている。

「母さんおはよう」

「おはよう。今日はいつも通りね。お弁当もいつも通りで良い?」

 母さんの反応もいつも通りだ。

「もちろん良いけど——というか、俺の為だけに作って貰うのも、なんか悪い気がしてきた」

 俺はまだ昨日の事を引きずっている。

「昨日から何? やっぱり学校でなんかあった?」

「なんでもないって。昨日はただ朝から機嫌が良かっただけだよ」

「ホントにー?」

 しつこい。これはあれだ。たぶん母さんは女子絡みである事に勘付いている。聞かれて困る内容でもないが、誤解されると色々と面倒だ。話さないでおこう。

「それよりこの番組、なんでトイレなんか爆発させようとしてんだろ?」

「え? 知らないの? 昨日〇〇県の学校でトイレが爆発したってニュース」

「は? そんな事ある?」

 俺はスマホでもニュースをあまり観ない。

「あったからニュースになってるじゃない。誰も怪我しなかったから良かったけど」

「こわ! 俺今日から外で立ちションするわー」

「大きい方だったらどうするの?」

「そんな事本気で訊く?」

「冗談」

 母さんとこんな会話してる事は父さん以外には見せられない。きっとマザコンだと思われるだろう。家族と仲が良いのは普通だと思うのだが、世間一般では違うのだろうか。まあ事情が事情だけに少しだけ特殊なのかもしれない。


 俺は手早く朝食を済ませ、外へ出た。

 今日もいつも通りの一日が始まる。


 ——はずだったのだが、来週の木金に期末テストがある。その為、各授業で配られるプリントの数が増加していた。

「涼太、お前大丈夫そ?」

 陸が不安そうに訊いてくる。

 背は低いが見た目がイカつい。まるで日サロに通うである。俺と同じく健全な男子である事に違いはないのだが。

「知らね。でも大丈夫だろ。ウチの学校、そんなにレベル高くねーし」

「俺にとってはレベル高えから」

 俺が通う高校はバカ高、などと呼ばれたりはしないが、それでも県内の平均よりも少し下だ。俺は家で勉強しないが陸と違って授業中はちゃんと起きてる。それだけで大丈夫だろう、たぶん。

「お前は勉強なんて考えんなよ。八月の大会で勝つ事だけ考えようぜ?」

 陸にテストなんてさせても無駄だ。それよりも部活に集中して貰った方が良い。

「本気で言ってんの? 先輩方だってそんな事考えてないだろ。楽しめればそれで良いって」

「本気なワケないじゃん。カタチだけでもそうしようってハナシ」

 実は本気だ。昨日からだけど。だが雰囲気がこんな感じなので、冗談っぽく言うしかない。

「ま、レギュラーでもない一年の俺らがカタチだけ気にしても意味ねーけどな!」

「ははは」

 レギュラーか。頑張れば取れる気もする。ただしその場合、先輩方に嫌われそうではある。弱くても一生懸命やるのが普通ではないのか——なんか面倒くさくなってきたな。コイツらに。

 昨日突然やる気を出した俺はそれまでの自分を棚に上げて、心の中で他の部員を非難した。

「お前、そういや聞いたぜ? 先輩方に」

「何を?」

「昨日学食で女とメシ食ってたんだろ? アレか? やっぱ昨日のやる気は女のせいか」

「ちげーから」

 そう言いながらも俺は目だけで教室を見渡す。窓際の隅っこに嶋田は居た。陽菜や他の女子も一緒である。陽菜は自分の話に夢中だが、嶋田とは一瞬目が合った。だがすぐに逸らされる。どうやら今の話を聞かれてはいないようだ。

「違えの? もしそうなら俺も協力しようとしてたのによ」

「どう協力すんだよ?」

「んー、八月の大会で勝つってヤツ? ぶっちゃけ俺ならすぐレギュラー取れそうだし、昨日ちょっとだけ楽しかったし」

「なら協力とか言わないで本気でやれよ」

「いや、一人だけ暑苦しいのもダセエっつーか、もしお前がやる気なら俺もーって感じなダケ」

 ……こいつ。

 いや、俺も似たようなものだった。昨日のはほんの気まぐれである。

「じゃあそれで良いか。俺、実は本気だ。お前も本気出せ。以上」

「女の方は?」

 俺はもう一度嶋田を見た。今度は目が合わない。

「まぁソッチもそれで良い。よし陸、お前は俺をカッコつけさせろ」

「よっしゃ、決まりだな。まずは今日、先輩方をボコボコにするか」

 こいつがボコボコとか言うと物騒に聞こえる。

「まだお前ほど上手くねえから俺は無理だな」

「違えって。野球部の奴らからバットでも借りてよ——」

 陸は真顔だ。

「マジのボコボコかよ?」

「嘘だっつーの。真面目にコツコツ頑張りますか」

 こいつがコツコツとか言うと嘘くさく聞こえる。

 期末テストの話題は俺達から完全に消え去っていた。 


 

 

 

 

 

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