第43話 朝ヶ谷ゆうの東京行き


 電車は指定席の少し高い席が予約してあった。一両編成の電車にしか乗ったことがない僕は電車の滑り出しが静かな事に驚いた。シートに沈み込むような感覚も相まってか、自分の体だけが生きているような錯覚を抱いていた。エスカレーターを逆走する感覚と似ているだろうか。指定席の電車を利用する人はみな静かだし、公序良俗に則った大人ばかりである。僕のごとき青二才が一人で乗る乗り物ではない。しかも僕は高校をさぼっている悪ガキである。すべてがチグハグである。そもそも汗だくで乗るようなモノでも無いのだ。その意識がむしろ僕をワクワクさせた。


「1時間後には東京に着く。舞羽のいる東京に……」


 僕はバクバク鳴る胸を撫でつけて、この鼓動はどっちの原因に端を発するのだろうかと考えた。


 自転車を全力で漕いだために心拍数が上がったことは疑いないだろう。体を動かすことに慣れているとはいえ自転車とジョギングでは使う筋肉が異なるから、そのせいで普段よりも血の巡りが良くなっている事は明白である。が、それとは別のドキドキが僕の胸にはあった。


 形而上けいじじょう的な脈動とでも言おうか、藤宮に恋をしていた時よりも強いドキドキとキラキラが僕の胸を支配しており、あたかも天ヶ崎舞羽に新しく恋をしたような気分だった。


 胸が苦しいとはこういう事を言うのであろう。たった二週間そこら会えなかっただけである。だのに僕は「舞羽に会える」と思うだけで胸が高鳴るようであり、走り出したい衝動を抑える事ができず、いますぐにでも会いたいと思った。


「東京に着くまであと30分もある。……はあ、座っているだけというのはなんともどかしい事か。速度は遅くとも走って行った方が気持ちが落ち着くかもしれないな」


 僕はスマホを取り出した。舞羽に伝えようか? 僕が東京へ行くことを言ってしまおうか? 僕は伝えたい衝動に駆られていた。今から会いに行くと伝えて喜ばせてやりたい。舞羽の笑顔が見たい。そんな思いに駆られてついスマホを取り出した。


 ラインを開く。だが待て、しばし。


「言いたい。だが、サプライズというのもオシャレではないか? 今は我慢して、何も言わずに舞羽の前に現れる方が演出としては上出来じゃないか?」


 そうだ。舞羽は何も知らずのうのうと新たな学校生活を満喫しているはずである。そこへ突然現れて「誕生日おめでとう」と言う。驚いた舞羽は目に涙を湛えて言うであろう。「ずっと待ってた。ゆう、大好き!」と。そうして僕らは厚い抱擁ほうようを交わすであろう。………完璧ではないか。なんて素晴らしい演出家なのだ。僕は。


 僕は己の才能にひれ伏しながら伝えないと決めた。ラインを閉じてスマホをバッグにしまう。ところが、僕は固く心に決めたにも関わらず、条件反射のように舞羽にラインを送ってしまったのだ。


『早く来て』というラインを舞羽が送ってきたからだ。


『いま電車の中だ』という返事を、思わず送ってしまった。


『何時に着く? ねえ、何時!』


『東京へは15時に着くが、お前の高校までは時間がかかるだろうから16時前後だろう』


『分かった! 待ってる!』


 そうしてラインは沈黙した。


 僕らは簡単な会話を交わしただけだが、僕は満足していた。


 僕は、舞羽と通じ合っているような気持ちになり、彼女が『早く来て』と言うのは当然であるように思った。天ヶ崎舞羽にどんな感情が作用していたかは僕は分からない。だが、なぜだか、僕が東京へ行くことが舞羽にとっては当たり前なのだと思ったし、僕も、彼女がそう思っている事を当然なのだと思った。


 読者諸君は天ヶ崎蝶が姉に嘘を吐いた事を知っているだろう。朝ヶ谷ゆうが東京観光に来ると言った嘘である。舞羽はその嘘を信じ切っており、放課後が待ち遠しくてラインを送った。もしゆうが東京行きを決意していなければこの瞬間に嘘がバレて大変な事になっていただろう。まったく、これは奇跡としか言いようがない噛み合い方であった。


 僕のサプライズはあえなく失敗したが、それで良いと思った。僕の考える事など舞羽はお見通しなのだ。隠し事をしようとしても見抜かれる。僕らはそういう関係であるべきだと思った。


「……景色が灰色になってきた。やたら硬質化しているような気がする。東京が近づいてきているな」


 ふいに窓に写った僕の顔は、口角が上がっていた。


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