第39話 天ヶ崎舞羽と蝶の会話 2


 9月4日の夜。東京は立川にある一軒の民家での事である。駅から少し離れたところにあるその民家は古くからあるものと見えて、遠景に望む山々に溶け込むような木造二階建て。東京だからといってすべての地区が発展しているわけでは無い。立川はそうした片田舎の一角として、喧騒が苦手な人々の穴場として存在しているのだ。


 そんな穴場に天ヶ崎家の実家はあった。天ヶ崎舞羽の父は東京への出向が決まったときマンションで暮らすよりも実家に戻る方が便利だと考えたのだろう。いずれ家族をこっちへ呼ぶときに祖父と祖母の面倒を見てもらう事もできるし、家族の様子も見る事ができて一石二鳥だと。


 舞羽と蝶は初めてその家を見た時、想像よりもボロボロである事に驚いた。しかし住めば都という言葉の通り、二学期が始まるころには新たな家にも慣れて、もう前の家と同じように過ごしていた。


 彼女たちは立川にある青陽せいよう高等学校という高校に通った。小高い丘にあるためにちょっとした運動を強いられると生徒からはもっぱら不評である。蝶は持ち前の明るさを活かして多くの友達を作った。人に話しかけるときもおくさない彼女は転校生というブランドを存分に活用してクラスの人気者となったようである。


「個性的な友達がたくさんできたし、陸上部があって良かった!」と、ラインでそんな事を言ってきたほどだ。新しい環境になっても前の学校の友人を大切にするのが彼女が陽キャであるゆえんだろうと思う。


 一方で舞羽は、日が経つにつれてふさぎ込んでいったようだ。元々明るい性格では無かった事に加えて人間関係を一から構築しなおす事が彼女にとってどれほど大変な事か。人見知りである彼女が妹と別のクラスになれば、気安く話せる者など一人もおらず、彼女にできたことといえば僕の部屋から持ち去ったゲーテに安らぎを求める事くらい。


 新しい恋をする。そう決意した舞羽だが、初めの一歩を踏み出す事が彼女にとっては一番の難関であった。


 蝶は新しく与えられた自室にこもる姉にこう言った。


「お姉ちゃんには気分転換が必要だよ」


「気分転換……?」


「そう。お姉ちゃんはいま落ち込んでます。せっかく東京に来たんだからいろんなところを見て回ろうよ。動物園とかスカイツリーとか、新宿も秋葉原も行ってみようよ。いろんな刺激を受ければ気持ちもスッキリすると思うんだ。新しい恋も良いけど、その前に学校に馴染めなきゃもったいないよ、人生」


「………………………」


 舞羽は蝶の言葉に答えず手に持っていたスマホをぽちぽちと弄った。それはラインのトーク画面であった。


「お姉ちゃん……。またゆう君のライン見てるの」


「………うん」


「別れるって決めたんじゃないの?」


「うん」


「既読くらい、つけてあげなよ」


「うん」


 舞羽はうわの空であった。


『元気か?』『慣れない場所で無理をしていないか?』『辛いときはいつでも言えよ』という朝ヶ谷ゆうからのラインを、舞羽はずっと見続けているのだ。既読をつけない事は最後の理性だったのだろう。


 このラインが来てからというもの、決意もやる気もすべて削がれたらしい舞羽は日に日に衰弱していった。それはあたかも太陽の光を失った花がしおれてしまうように、あるいは舞羽の手紙がゆうの心を折ったように、ゆうのラインが舞羽の心をくじいてしまったのだ。


 ゆうとの思い出が溢れてしまったのだろう。もう帰らない日々が恋しくなって、太陽であった存在が遠くにいることを思い出して、舞羽は立ち止まってしまったのだ。


 朝ヶ谷ゆうのバカ、と蝶は思った。


 傷心の女の子に優しくするなら中途半端が一番よろしくない。もう一押しすれば舞羽は耐え切れずに返信をしただろう。ラインさえ送らなければ舞羽は新たな一歩を踏み出しただろう。そのどちらでもなく、舞羽の反応をうかがうようなラインを送った朝ヶ谷ゆうは本当に馬鹿だ。


 次に会ったらただじゃおかない。そう蝶は心に決めて、再び姉に話しかける。


「明日は、誕生日だね」


「…………………」


「プレゼントをさ、お父さんにお願いしたんだ。東京観光。明日の学校が終わったらお父さんたちが迎えに来てくれて、そのまま都心の方まで行くんだって。綺麗なホテルに泊まって、遊園地も行くよ。楽しみだね!」


「…………観光?」


「そう! お父さん、私達の誕生日だからって無理して休みを取ったんだって!」


「………そう、なんだ」


 舞羽は首をもたげて蝶を見上げた。頬に少し赤みがさし、目には生気が戻ったようである。


「そう、そうだよ! 一緒に行こっ」


「………うん。行く」


「やったぁ! 良かった……」


 ようやくかつての姉が戻ってきたように感じて蝶は喜んだが、


「ゆうも、来る?」


「お姉ちゃん……」


「ゆうと一緒じゃなきゃ、いや………」


 舞羽はとうとう朝ヶ谷ゆうとのトーク画面を開いた。そうして、それは無意識だったのだろう。「ゆうも来て」と送信欄に書いていた。


「来るよ。ゆう君も一緒だよ」


 姉の心に触れた気持ちになって、蝶は思わず声を震わせる。


「ほんと、本当?」


「うん、ほんとだよ………」


 蝶は目に涙をためて姉を抱きしめた。


 舞羽の顔が輝いた。それが、とても悲しく思えた。


「来てくれるから、きっと、来てくれるから………」


「えへへ……嬉しい。ゆうに会えるんだ。………嬉しい」


 それは、天ヶ崎舞羽が東京へ来て初めて見せた笑顔だった。


 とても、悲しかった。


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