第38話 朝ヶ谷ゆうと水無月東弥 2


 9月4日の放課後の事であった。藤宮がトイレに行くと言って席を立ち、僕が教室に残って待っていると、ふいに水無月東弥が片手を上げて近づいてきた。サッカー部のユニフォームに着替えていない所を見ると今日は部活が無いのだろう。


 思えば僕と藤宮が懇意こんいになるきっかけを作ったのは水無月東弥である。何の意図があってかは分からないがお礼の一つでも言っておくべきだろうと思った僕は「やあ」と言って席を立った。


「君、ずいぶん楽しそうじゃないか」


「おかげさまで。藤宮があんなに可愛いとは思わなかった」


「うん。彼女はとても可愛いよ。視野が広がったようで何よりだ」


 水無月はうんうん頷いて言った。彼の周りはいつも数多の女子が取り巻いている。僕は様々な事を勉強してきたけれど恋愛に関しては彼の方が博識であることは認めなければいけない。


「視野が広がる……か。そうかもしれないな。文字と向き合っているだけじゃ分からないことが、この世にはたくさんあるんだな。人の心など無数にありすぎて僕は一向に興味が湧かなかったよ」


「君は、藤宮氷菓が好きか?」


「そうだね。これは、恋だろう。僕は藤宮氷菓に恋をしているのだろう」


 僕はそう答えた。


 そうだ。僕は彼女に恋をしている。彼女の事を考えた時のドキドキやキラキラは恋と呼んでしかるべき感情だろう。それはハッキリと断言できる。天ヶ崎舞羽に抱いていた説明の出来ない感情とは違う。


 あの、恋と呼ぶにはあまりにも泥臭くて愛と呼ぶにはあまりにも清廉せいれんすぎる感情とは、違う。僕は天ヶ崎舞羽に恋をしていなかった。彼女はいつだって隣にいるようであったし、ずっとそばにいるのだという安心があった。彼女が僕のそばを離れた時は「すぐに戻ってくるだろう」と思ったし、そばにいて楽しいと思う事はあっても胸がときめくようなことは無かった。


 僕は天ヶ崎舞羽にどんな感情を抱いていたかを説明できないけれど、藤宮氷菓に恋心を抱いている事はハッキリと言える。


 僕は藤宮氷菓に恋をしていた。


「そうかそうか」と水無月は満足そうに頷いた。


「君の表情はとても良くなった。ひところの君とはまったく別人だね。人間的に成長した証だろうか、以前よりも男前に見えるよ」


「君にそう言ってもらえるとは光栄だね」


「だてにモテているわけでは無いからね。…………では、そんな君に一つ質問があるんだが」


 水無月はそこで言葉を切ると、声を低くして目を光らせるように言った。「その恋に『先』はあるのか?」


 僕は答えにきゅうした。


「恋から愛に変わる関係があり、恋で終わる関係がある。もし君が藤宮氷菓という女の子に恋をしているなら、あるいは愛に変わるだろうけれど、もし、藤宮氷菓とに恋をしているなら、君たちの関係は長続きしないと忠告してあげるよ」


「……………………」


「再度聞こう。君は『藤宮氷菓』に恋をしているのか?」


「痛いところをつくな……君は……」


 実を言うと、僕は薄々感づいていた。僕の恋はすべて天ヶ崎舞羽との比較の上に成り立つものであり、単独で見ればひどく心許こころもとない砂上の楼閣ろうかくであることに。


 天ヶ崎舞羽と過ごした日々がしっかりとした地盤を形作り、藤宮氷菓と過ごした日々がその上にメッキのごとく薄く塗り重ねられているだけなのだ。と、僕は気づいていた。気づいていて、どうしようもなかった。


ひどい事を言うようだけれどね、あえて言わせてもらうと君はただの浮気者だよ。藤宮と天ヶ崎の間で揺れる優柔不断な浮気者。女の敵と言って差し支えないだろうね」


「……僕は選ばなければいけない、という事か」


「どちらを傷つけるかをね。どうして俺が彼女を持たないか教えてやろうか。俺には心に決めた人がいるのだ。その人は俺に興味がないようだがね、いつか振り向いてくれる時まで諦めないつもりだし、振り向いた時に彼女がいたら罪もない女の子を傷つけることになるだろう?」


「なぜ、それを先に言わなかった?」


 僕が言うと水無月は肩をすくめて答えた。


「言っても理解できないからさ。一人の女性を好きで居続ける事は簡単な事じゃない。男も女も簡単な事で心が変わるからさ。君は意思が固く自制心も強いようだけれど、こうやってコロッと藤宮に恋をしたじゃないか。痛みをもって治療とす。君が浮気するように見えたわけじゃないぜ。ただ、誰でも浮気する弱さを抱えているという事さ」


「……………………」


「最初から出ていた答えに気づいたころだろう?」


「……………………」


 僕はムカムカと苛立ちが募るのを感じていたが、水無月はふいに口をつぐんだ。僕の苛立ちを察して黙ったわけでは無い。藤宮がトイレから帰ってきたのだ。


「ゆうく~~ん、帰ろ~~。あれ、水無月だ。2人して何の話してたの?」


「別に。ただの世間話だ。帰ろう藤宮」


 僕はカバンを引っ掴むと昇降口へと歩き出した。


「あれ、ゆう君怒ってる?」


「怒ってなんかないさ」


「怒ってるよ~。だって顔が怖いもん」


「なら、すまない」


「私に謝んないでよ。何があったの? 私で良かったら話聞くよ?」


 藤宮は隣をトコトコ歩きながら僕の顔を見上げた。


 僕は彼女の目を見る事ができなかった。人と話をするときは目を見て話す。そんな当たり前のことにすら罪悪感が邪魔をして、僕はふいと顔をそらした。


「ごめん、これは僕の問題だから」


「そっか。私じゃ頼りないかもだけど、話を聞くくらいはできるからね。話してスッキリすることもあると思うからいつでも頼って!」


「………君はいつも明るいな」


「そう? えへへ」


 彼女はそう言って頬を緩めた。なんとも健気である。藤宮はとても献身的だった。ズボラで男を繰る事に長けているように見えて実は尽くすタイプだったらしい。彼女の瞳からは信頼と恋慕の情がありありとみてとれた。


 僕は彼女の頭に手を置いてポンポンと撫でた。「セットが崩れる~~」と嫌そうにしたけど藤宮は逃げようとはしなかった。


 僕は選ばなければならない。藤宮氷菓と天ヶ崎舞羽のどちらを傷つけるのか。それは僕の責任である。一人の女性を好きで居続けるための覚悟の問題であり、僕の軽佻浮薄けいちょうふはくな行為へのむくいである。


 そして、決断の時は近い事を知っていた。


 なぜなら明日は9月5日。その日は…………。

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