第9話 藤宮氷菓と小テスト


 再び藤宮氷菓の話である。


 彼女はしだれ藤のごとき天然パーマと長いまつげが大人びた色香を醸し出す美少女であるが、その内側に隠された脳内にはもっとたくさんのお花が咲き誇っていた。


 英語の授業後の事であった。


「これなんでバツなの~?」


 と、いかにも不服そうな顔で返ってきた小テストを僕に押し付けたので見てみると、彼女の答案は惨憺さんたんたる有り様であった。50点満点のテストだったが片手で数えられるくらいしかマルが無い。およそ見渡す限りのバツ地獄がそこには広がっていたのだ。


 単語問題はほぼ全滅。英文章は壊滅。聞き取り問題は支離滅裂である。しかもただ間違うだけならまだしも、根本的に問題を理解していないような間違いだらけ。


「おま……え、正気か?」


 僕は危うく意識を失うところであった。


「これは小テストだぞ。大喜利じゃないんだぞ? 先生を笑わせたら点数がもらえるわけじゃないんだぞ?」


「……う、分かってるわよ~。これでも真剣に答えたんですぅ」


 頬を餅のように膨らませて遺憾の意を示す藤宮。


「だったら、ある意味天才だよ……」


 僕は答案の中から特に酷いものを選んで藤宮に見せつけた。


「『これは伊豆大島です』ってなんだ。『こちらは大島です』が正解だろうが」


「え~~、でもぉ、This is O-shimaって書いてあるよ? 伊豆大島で合ってる!」


 ほらほら! と同意を求める瞳は純粋無垢であり、僕にはどうすることもできない阿呆であると早々に悟った。


「なわけあるか……。これは電話対応の文章だ。電話を受ける側が名乗るときはThis is を使うんだよ」


「なんで?」


 藤宮はまったく理解できていないようだった。


「なんでって、日本人だって電話を受けるときはまず、相手の立場に立って自分が誰かを明かすだろ。『はい、〇〇です』って感じで」


「うんうん」


「英語でも同じように相手の立場に立って名乗るけど、I am は自分の立場に立って名乗るときに使うものだから、相手の立場に立つときは文法としておかしなことになるんだよ。だから This is を使って『あなたと話している相手は〇〇です』て伝えるんだ」


「へぇ~~~~」


「……って、授業で言ってたよな?」


「…………?」


 きょとんと首をかしげる彼女を見て「こいつマジか」と言いたくなったけれど、藤宮もまともに取り合ってはいけない人間であると自分に言い聞かせ、そういう時は可愛いと思う事にしようと決めた。いちいち腹を立てていては胃がもたないからせめてもの中和剤である。


「ね、じゃあさ、他のはどうなの?」


「他? 他は、そうだなぁ」


 ところが、どうして僕が逃げ出さなかったのか、あとから思い返しても不思議であった。


 頭痛との戦いになることは初めから予測できていたことなのに………。


「じゃあ……これ。会話文を完成させる問題だけど……」


「あ! そう、それ! その問題なんで間違ってるの!?」


 おかしいよね!? と言わんばかりの勢いで身を乗り出す藤宮を鎮めて、僕は彼女の答えを指でなぞった。


 その会話文はテストで悪い点を取った男の子と、その彼を慰める女の子の会話であった。


「テストの点が良くなかったから、お母さんにゲームを没収されちゃうよ」


 という男の子の言葉に対して女の子が、


「そうなの。それは気の毒ね」


 と返すことになっており、問題は女の子の言葉を英訳するものだったのだが、我らが藤宮の回答は誰も想像できない斜め上の答えであった。


「これ絶対間違ってないよ! この子も絶対こう思ってるって!」


 藤宮は自信満々を通り越して憤りすら覚えているようである。


 頬を赤くして僕と答案を交互に見比べていた。今度こそ味方をしてもらえると思っているのだろう。


 どうやら藤宮は、女の子と自分を重ねて、私ならこう言うのにと自分自身の答えを書いたようであるが、その答えというのが…………


「MAZIUKERU wwwwwwwww」


 僕の怒りは想像に容易たやすい事だろう。


「ね? 女の子からしたら男の子のゲームの話なんて関係ないもん。こんな話聞かされてこれ以外どう返すんだ! って感じよね」


 腕を組んでぷんすか怒っているらしい藤宮。


 僕はもしかしたら、この勉強会が終わるころには白髪になっているかもしれない。


「それは………そうだね。そうかもね………」


 わざとやってるんじゃないかってくらいあほ……可愛いヤツだと思った。


「でもな、藤宮?」


「うん?」


「ローマ字に草を生やしたらわけが分からないだろう?」


「あ、そっか! そういうことか!」


 ポンと柏手を打って絶対に間違った事で納得しているらしい藤宮はほんとうに可愛いと思う。可愛い。ああ、可愛いとも! 可愛いの権化だ!


 早くも逃げ出したくなった僕を今度は藤宮が捕まえた。


「じゃあさ、じゃあさ、これはなんで間違いなの?」


 彼女の瞳はただ純粋にきらめいており、新しいおもちゃを見つけた子供のように楽しそうだった。


 僕はもうやけくそである。


「え、『Cute』は『可愛い』だろ……? どうしたら『泣けるぜ』になるんだ?」


「だって、ゲーム実況動画の字幕に出てたもん」


「あ、バイオ〇ザードね、最近リメイクされたもんね」


 可愛い。


「あとこれ! 『Play』の過去形って『Replay』じゃないの!?」


「あ、藤宮ってゲーマーなんだね……。そうだよね、プレイとリプレイだよね。格ゲーとかで見返すのって、過去の自分のプレイだよね」


 可愛い。


「あとあとあと! ……………」


 可愛い。


 可愛い。


 可愛い。


 可愛い。


 ……………………………………………


 ………………………


 …………



          ☆☆☆


 結局、僕は放課後になってようやく解放された。時間にしたら30分程度と思うが、僕にとっては永遠にも感じられる時間だった。


「ゆう君ってほんとに頭いいんだね~~~。いっぱい教えてくれてありがと!」


 藤宮の頬はどこかツヤツヤしているように見えた。まるで友達とお出かけした帰り道のように口角が上がっているが、疲労困憊している僕からすれば、生気を搾り取るサキュバスのようにしか見えない。


「……ああ、うん、いいんだよ、気にしないで」


 まだ日も明るい空がなんだか色せて見えるくらい、僕は疲れていた。


 だけど、僕に課せられた懲役もこれで終了である。


 終わったのだ。やっと解放される。そう思うと無性に嬉しくなってきた。


「まあ、なんだ、これから勉強をちゃんとしてくれればそれでいい……あれ?」


 ところが、藤宮はお礼だけを言い残してどこかへ消えてしまったではないか。影も形もない。ただカバンを残して教室から姿を消してしまった。これだけ人を拘束しておいて自由なヤツだ。


 まあ、それでこそ藤宮氷菓。我らが自由人である。


「さぁて、僕も帰るか………うわ!」


「あっはは! なにビックリしてんの」


 腕を大きく伸ばしてストレッチをしていると、首筋に冷たいものが押し当てられた。その冷たいものとは、炭酸飲料水であった。自販機で今しがた買って来たのだろう。


 見れば、顔をニヤつかせた藤宮が冷えたペットボトルを持って背後に立っているではないか。


 何をしに帰ってきたのか。僕がやおら警戒していると、藤宮は隣の椅子に腰かけて僕にペットボトルを渡すと、えへへ、と笑ってぽつぽつと語り始めたではないか。


「お礼だよ、お礼。私ね、あんまり本気で勉強したことが無くって……ほら、いつも適当じゃん? 私。……だから、すっごく頭が悪くって、みんな最初は優しく教えてくれるんだけど、最後は呆れられて、っていうか怖がられちゃって……ちょっと、苦手だったんだよね」


「…………………」


 彼女はそこで言葉を切った。いやな事を思い出したのか、それとも悲しくなったのか。それは定かではないが、決心の要ることを僕に打ち明けているというのは充分伝わってきたし、まだ続きを話そうとしているように見える。


 彼女には悪いが怖がられるのは仕方のない事だと思う。あの答案はたしかに地獄……いや、未知との遭遇に近い脅威を感じるものだった。言葉の通じない相手と会話をしているような、そんな気分になった。それを怖いと感じるのは至極当然のことであろうと思われる。が、それを口に出す事ははばかられた。


 もっとも、僕は気骨ある男であるからして、普段の会話で茶化す事はあれど、本気で話す相手を馬鹿にすることはしないのだから、普段の会話でも言わないだろうけど。


「でもね、ゆう君だけは最後まで付き合ってくれて……嬉しかった! 勉強って楽しいんだって思えた……だから、そのお礼っ」


「いや、お礼を貰うようなことじゃな―――――――」


「じゃあね!」


 藤宮はそれだけ言うと、頬を赤らめて立ち去った。


 突然やってきたかと思えば去り際も突然である。


 僕が呆気に取られて彼女の出て行った後のドアを眺めていると、ふと、ペットボトルに何か、油性ペンで書かれていることに気がついた。


 見れば、


『ありがとっ♡』


 と、書かれていた。


 僕は初めて、藤宮氷菓を可愛いと思った。


「………まあ、いっか」


 僕はカバンを引っ提げて教室を後にした。



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