第3話 やさしくされて、

「あー、ちょっと今日は具合が悪くて……」

「え、そうなのか? 具合が悪いって、どんな風に悪いんだ?」

「えっと……お腹と、頭が痛くて。あとちょっと貧血かも」

 僕は無難に嘘をついた。ちなみにこれらのレパートリーは、どれも生理中に起こりがちな症状。まさに今日、調べたものだ。


「そうなのか……」

智也先輩は、拾ったボールをどこか真面目な表情で少し見つめたのち、顔を上げた。

ワントーン、声も上がった。

「とりあえず今日のところは帰って、休んだほうがいいな。ひとりで帰れそうか?」

「はい、なんとか」

「具合が悪いときは、とにかく寝るのが一番だからな。飯も食えそうなときにはなるべく食って……けど風呂に入るかどうかは——」


 智也先輩のお節介とも言えてしまうような親切心が炸裂しているさなか、遠くから聞こえてくる「キャプテン」という声に気がついたらしい。

先輩は腹の底から「おーう!」と答えると、僕のほうを向き直して言葉を残した。


「じゃあな雄一郎。お大事にな!」


 しばらくこちらを向いたまま、遠のくほどに大きくなる声。彼は夕日の逆光で真っ暗になりながら、自分の持ち場へ戻っていった。


◉ ◉ ◉


 僕がただいまを言わなくなったのは——

いや、言う機会がなくなったのは、この都会に引っ越してからのこと。

 すっかり我らが山本家の姿になってきたマンションの一室の、やや重たい鉄製のドアがうなるように開く。


 自分の部屋へ夢遊病のように入っていった僕は、いつもならすぐにでも部屋着に着替えるところを、今日はなぜだか制服のままベッドに寝転んだ。

 ギシリと体重の乗ったベッド。仰向けになった僕は、腹にそっと手を乗せてまどろんだ。


 女転が発生した今日という一日を過ごしてみて、なんとなく自覚した。

周りにこのことを気づかれる可能性はさほど高くないが、実は無意識のうちに緊張していたのだということを。

その答え合わせであるかのように、眠気と溜め息が確かに生まれた。


 それにしても部屋の中が暑い。もう6月だし、それは当然か。寝転がる前に、窓くらい開ければよかったと小さな後悔をする。起き上がって窓辺に行くことすら面倒なほど、眠たい。


 サッカー部は、ミニゲームでもしている頃だろうか。部活が後半に差しかかるとこれが始まって、負けたチームは片付けをすることになるので割とみんな本気になる。

 井上先輩は足が速くて、川村くんはパス回しが上手い。残念ながら、彼らは敵チームにいる。

 だけどこちらも負けていない。智也先輩が司令塔になって、チーム全体を上手く動かすから。あの人は部員の得意なプレーだけではなく、性格面まで考慮して指示を出す。

 俊敏かつ頭のいい清水先輩とは以心伝心のようにかけ合いをするし、脚力は強いが自信のない吉田くんには、積極的に得点を狙わせる働きかけをする。


 僕はといえば、部員の中で一番の低身長というハンデを抱えているし、パワーにも欠けている。

だからこそ、周りを見てどこにパスを出せばいいかとか、仲間の位置関係とか、経験と観察でなんとか努力してきたつもりだ。


 智也先輩は懐に入ってきた僕になんとなく気づいていて、敵チームにバレないように、一瞬のうちにもボールを催促してくる。

僕が短くパスを出せば、簡略化された動作のように自然と点が入る。

フィジカルに恵まれた彼のシュートは、見ているだけでも物怖じしてしまう。

 そしてゴールを決めたとき、振り返って笑顔で肩を叩いてくる。そのあとは、次の攻撃に備えて真剣に、だけど楽しんでいる顔をして構える。


 キャプテンという立場にふさわしい人だと改めて思う。体が大きくて少し怖いが、実のところ世話焼き。サッカーをこよなく愛している。部員をよく見ていて、アドバイスすることもあれば、どうでもいいような話をしてリラックスさせたりもする。


 今日だって、少し体調不良を訴えただけなのによく喋ってきた。

先輩やキャプテンというよりは、もはや父親と言ってもちょうどいい。心配性なのか?


 頼りになる人だ。優しくて裏表がない感じで、智也先輩を嫌う人なんて——

「……ん?」

眠気に身を任せているうちに、いろいろと考えてしまっていた。

いろいろと考えて、意識がはっきりした。


 今日はなんだか、やけに智也先輩のことを考えている気がする。特に、部活中の彼とやり取りをしたあたりから。

「いやいや、え……?」

こんなに人のことを考えるのは、もしかすると初めてのことかもしれない。

ひとりで帰れるか心配してくれた、とか。

具合が悪いときのありきたりな過ごし方を教えてくれた、とか。


 仰向けのまま頭をめぐらせていると、スマホのバイブレーションが作動した。寝たまま画面を見る。


[ちゃんと家着いたか? 必要なら薬も飲むんだぞ?]

[お大事にな。ちゃんと治せよー!]


 ——おそらくこれで、向こうには既読がついただろう。だけど僕は、すぐには返信をしなかった。

 アプリを閉じ、また別のアプリを開いて文字を入力する。




【突発性女転 女性ホルモン 恋愛対象】

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