第4話 出会い

走って、走って、とにかく走った。息が上がっても口内に血液の味がしても走った。一刻も早くあの家から離れたかった。口から吐き出される白い息がぐんぐんと後ろの方へと遠ざかった。

「何なんだよ…何なんだよ!!」

声を上げずにはいられなかった。体力も尽きて足が動かない。よりどころを失った不安に押しつぶされない様に沸き上がった怒りのままに喚き散らかすしかできなかった。何処へ行けばいいのか分からない、誰を頼ればいいのか分からない。

「父さん……帰ってきてよ」

もう最後の会話すら思い出せない程に突然帰って来なくなってしまった父親の影を求める。ふらふらと何処へ行くのか分からない。足の赴くままに進んだ。周囲の明るさがだんだんと闇に塗りつぶされていく。それは生物の本能なのか、ざわざわと足元から不安と焦燥が這いあがってきて思わず胸元を押さえた。これからどうすればよいのだろう。未成年、まだ高校に通っている自分が出来る事など何が出来るだろう。寝泊まりする場所は?食事は?金は?どう確保する?どう確保すればいい?手先が冷えて心臓が大きく鼓動する。寒さのせいだけではない唇の震えに気付いて自分の頬を思い切りひっぱたいた。

「だめだ!考えろ!!」

絶望すると本当に死んでしまうぞ、と自分を叱咤激励する。思考を止めてただの葦になり下がるんじゃない。あれ以来音沙汰の無い神は、これも見ているのだろうか。自分を見て、せせら笑っているのだろうか。愚かな自分達を見て、面白がっているのだろうか。掌の上で、転がされている自分達はさぞかし滑稽なのだろう。望んでいた“退屈でない日々”なのだから、楽しむぐらいの気概をあのふざけた神に見せてやれ。

「見てろよ」

異常なほどに赤と橙に染まった空は嫌悪を抱くほどに綺麗だ。一番星もそう遠くはない。


宵の明星が見え始めた空の下、ひたすらに歩き続けた。部活帰りに友人と歩いたその道を、今日は1人で歩む。あの時は何を話していたっけ、とても楽しかったはずで皆が笑ってて思い出すこともできないほどにくだらなくて馬鹿な事を言い合っていた。少なくとも、卒業するまではこんな日常が続くと思っていた。暗闇に順応しきれない視界が周囲をどんどん見えなくしていく。

暗い

大した整備もされていない、虫の死骸にまみれた電灯がぽつりぽつりと点滅する。もう、夕飯の時間だ。

「そろそろ帰らなきゃ怒られるな」

そう呟いて、自分で自分を嘲笑する。あれだけの事があって、覚悟も決めたはずなのにまだ頼る気でいるのか。まだ、あの日常の残滓に縋っているのか。もう戻ってこない、温かさと幸せとくだらない日常に嘆いても、あの日は寄り添ってくるだけだ。解決策も、手助けも、何一つ差し出してはくれない。

「…今、“あの日に戻りたい”って思ったか?」

あの退屈でありふれた日常に戻りたいと、自分が?あんなにも非日常を切望していたというのに?

「くっふふ…あは、はははは!!」

なんて滑稽なのだろう!なんて愚かでくだらない!あの非日常への切望も懇願も、所詮は恵まれた日常の上に胡坐をかいたものだったのだ!あんなに見下していた“他人”と何ら変わらないではないか!

身体を轟音が貫く。頭上の鉄橋を駆け抜ける電車を見上げればスマホに項垂れる乗客達が見えた。こちらのことなど一切意に介していないのだろう。一方的に観察されているとも知らない乗客達に部屋にあった虫かごに囚われている蟻達を思い出した。

「あら?あなた、こんな所に一人?もうすぐ暗くなるってのに」

駆けられた声に振り向けばそこには自分と同い年ぐらいの青年と少女がいた。声をかけて来たのは少女の方らしい。

「別に」

「ふぅん?」

怪訝そうな顔をしている少女は長い髪をポニーテールにして腕にはいくつかのシュシュをつけている。こんな寒い季節だというのにホットパンツで寒くは無いのだろうか、なんて余計な思考に意識が持っていかれそうになる。少女の傍らにいる青年は何かスポーツでもやっているのだろうか、体格が良くこちらをじろりと睨んだ。

主に青年のせいでどことなく居づらい雰囲気に目を逸らす。そんな僕の様子などお構いなしといった風に少女はその場から動かずにこちらを眺めている。いよいよ沈みそうになっている夕日の最後の光に照らされて琥珀色に光るその瞳は丸く大きい。

「あなたも、行く当てがないの?」

「……」

あなたも、という事は彼女らもか、と思考する。何をされるか分からない、警戒心を高めていく。生憎、人の厚意を無条件に信じられる年齢は過ぎてしまっているのだ。バックについていた両親を頼れる状況でなくなったこの状態では信じられるのは自分だけだ。

しかし、そんな心は表情に出ていたらしくこちらの顔を眺めていた少女は吹き出す様に笑い始めた。

「あははっ!そんなに警戒しなくてもいーじゃん。まぁ、警戒心は高いに越した事は無いのかもしれないけどさぁ」

少女は傍らの青年に「あなたの顔が怖いんじゃない?」なんて軽口をたたきながらこちらに向かって手を伸ばす。

「まずは握手から。貴方に危害を加えないと約束するわ」

伸ばされた手をおずおずと握ればその手はぎゅっと握られて激しく上下に揺さぶられる。

「私の名前は石橋かなめ!あなたと同じ学校に通ってるんだけど知らないよねー」

「僕は、染谷悠人。ごめん、知らないや……」

「気にしないで!あ、それとこの強面は田力凱斗。年は一個下だけど柔道やってるから強いわよー」

ぺこりとこちらに会釈をされこちらも会釈を返す。あの体格の良さは柔道由来のものだったかと納得する。

「凱斗もそんなに警戒しないの!」

「しかし…かなめに何かあれば俺達は……」

「私がトップだからってそんなに守ろうとしなくていいんだからね?私はあくまでも代表者ってだけだし」

彼等は何か団体を作っているらしい。そしてそのトップはこの少女、かなめの様だ。身分の上下はあるもののトップがそれをあまりいいものだと思っていないという訳か。

「悠人くん、行くところないんでしょ?一人で、帰る家も無い」

「かなめ、言い方ってもんが……」

「あぁ、無いよ」

ただ端的に、きっぱりとそう返した。事実は事実だ、それ以上でもそれ以下でもない。今の自分は帰る所も頼れる存在も無いのだ。彼らがこの境遇に同情して何かしてくれるのなら有難く受け取るだけ。それを恥ずかしいとか、みっともないだなんて思っていれば野垂れ死にしてしまう。プライドは胃を満たしてはくれないのだ。

「そっかそっか、じゃあ私たちのところ来る?」

「おいかなめ!」

「なによ!私に任せる事ばっかりのくせしてこういう時だけ反対するの!?」

「そ、それは……」

「貴方だって彼の気持ち分かるでしょ!?一人きりで放り出されるあの絶望と困惑と悲しさ!」

「そうだけど……」

「それなら迎え入れてあげればいいじゃない」

「それは…!!」

「なによ、私が決めた事よ?」

何やら揉めているらしい。先陣を切っている“かなめ”と呼ばれる少女が自分を仲間に引き入れようとしていて、周りの人間がそれに反対しているという事は理解できた。

「えっと…」

らちが明かないと判断したのだろうか、彼女がこちらにくるりと振り向く。

「悠人くん!私達、商店街の建物借りて暮らしてるんだけど来る?」

商店街と言えばここら辺には一つしかない。ただ、そこはシャッター街になっていたはずだ。一か所に行けば全て揃うショッピングセンターが近所に出来てからというもの、シャッターはより一層増えていっていた。そこの空き店舗を拠点にしているのだろうか。

「いいんですか」

「今更一人増えたぐらい変わらない変わらない!」

彼女は快活そうに笑った。黄昏の暗闇に花が咲いたようだった。

「でも…」

ちらり、と未だに不機嫌そうな青年の存在を視線で指す。余計なトラブルは避けたい、一応憂慮している事は示したかった。

「あ、大丈夫!そこは気にしないで!」

「ま、まぁ、俺も鬼じゃない。来たければ来ればいい」

「あ、有難うございます…!」

ぺこり、と頭を下げる。腕っぷしに自信のありそうなこのタイプなら気弱な脅威にならない人を演じればいいだろう。

「じゃぁ、早速行こうか!もう暗くなっちゃうしね!」

誘われるままについて行けば確かに、商店街の一角、元は家具屋だった店が彼らの拠点になっていた。

「ただいまー」

シャッターの傍らにある出入り口用の小さな扉の鍵穴にストラップがじゃらついた鍵を差し込む。ドアを開け放ち、これまた元気よく帰宅の挨拶をすれば建物の奥から賑わいが徐々に近付いてきた。

「おかえり!」

「かなめちゃん!あのね、今日こんなの作ったの!」

「さとるとたいちがけんかしたよー」

余りの勢いに暫し放心していれば背中をぐいぐいと押される。中に入れば年齢も性別もバラバラな子供達が一斉にこちらを振り向いた。

「あれ?このお兄ちゃん誰?」

「何?かなめ、また拾ってきたの?」

「拾ってきたとか言わないのっ!失礼でしょ!」

「お兄ちゃん誰―?」

沢山の瞳が自分を値踏みするように見つめている。初めの自己紹介はいつだって緊張するものだ。

「染谷悠人。ゆう、とでも呼んでくれればいいい。高2の16歳。……よろしく」

簡易的に名前だけを教えるとぺこりと頭を下げる。一瞬の静寂の後にわっと人が押し寄せた。

「かなめちゃんと同い年だ。お勉強できる?」

「ゆうちゃん、一緒に遊ぼ―」

「うんうん、もう馴染んでくれたみたいだね。安心安心!」

明るい笑い声が場を照らす。小学校低学年ぐらいだと思われる少年少女が群がってきた。警戒心の欠片も無いのは、それだけこのかなめという少女を信用しているからなのだろうか。

「早速なんだけど悠人って勉強できる?」

「まぁ…人並みには」

「よかったぁ!じゃあさ、ここのちび達のお勉強を見てくれないかな。私達だけじゃ限界があってね、最近はやる事もいっぱいあって構ってあげられなかったし、凱斗は勉強苦手だし私は国語しか教えられるのが無いしー」

お願いっ!と両手を合わせてウインクをするかなめを断れる者が何処にいるだろうか。

ところで、集団の中に新参者を入れるのはある程度のリスクがある。消費する資源の増加、人間関係の問題、分裂の可能性、彼女がそのリスクを鑑みているのかは疑問だが少なくとも“集団の中で役割を与える”という策は有効に思えた。子供達の家庭教師ならば嫌でもコミュニケーションをとらざるを得ない。集団の中で孤立する事は防止できそうだ。

「……どこまで考えてるのやら」

「どしたの?」

「いや、何でもない」

頭上に疑問符を浮かべつつもかなめは奥から出て来た中学生らしき少女に名前を呼ばれてそちらの方に行ってしまった。一方、勝手に勉強が苦手だと暴露された凱斗は罰が割る素にこちらを見つめている。

「俺は、スポーツ推薦だったから…」

「凄いね、俺も陸上やってるけどスポーツ推薦取れる程じゃなかったからなぁ」

凱斗は少し照れたように視線を逸らしながら「早く行ってやれ」と促した。僕はそれに従う様に子供達が座る長机の方へと向かった。


結論から言ってしまえば、物事は安易に引き受けるべきではない、という事だ。

「ゆうとーここ、分かんない」

「あぁ、それはここの数字をまず揃えてから…」

「ねー、ここの公式ってこれで合ってるんだっけ?」

「あぁ、合っている。正解だ」

「解けたよ!丸つけよろしくー」

「分かった」

「悠人さん、丸つけぐらいなら手伝いますよ」

「悪い!助かる!」

小学校の先生はこれの二倍の数近くを教えているんだよな、なんて考えていてもやるべき事は減らない。今は算数と数学の時間。ある程度の知識が存在する中学生相手に教えるのはそう難しい事ではない。疑問点もある程度なら絞られてくるからどこで躓いているのかも分かりやすいからだ。問題は小学生、それも低学年に対してだ。方程式なんて概念が存在しない彼らにはありとあらゆる問題が壁となって立ち塞がる。知識が限られている事がこんなにも影響するのだなんて思いもしなかった。意外にも年齢が低くなるほど教える側の難易度は高くなるのだ。

手伝いを申し出てくれたのはかなめや凱斗に続いてこの集団をまとめているらしい中澤秀一という少年だ。中学三年生だがそうとは思えないくらいに落ち着いている。勉強が得意らしく彼も小学生たちの勉強を見ている事が多いらしい。

「秀一くんは」

「シュウでいいですよ。皆にもそう呼ばれてるんで」

「じゃあ、シュウくん」

「はい、何でしょう」

「毎日この人数相手にしてたの?凄いね、俺なんてまだ一時間ぐらいしか経ってないのにへとへとだよ」

苦笑いを浮かべる。少し目を離せば喧嘩を始めたりお喋りを始めたり遊び始めたり、気の休まる時が少しも無い。

「ほっとけばいいんですよ。宿題やらなくて怒られるのはこいつらなので。悠さんも自分の学習進めないとすぐに忘れちゃいますよ」

そう言い切ってしまえば秀一は自分の課題を始めてしまった。きっぱりした子だ、こういう子の方が自分としては接していて楽なんだけどなと感じる。相手が自分の事をどう思っているのかは知らないが。

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