第33話

思い返せば、米国での最後の仕事は、灰流との案件だった。そして、妻の看病のため、日本に帰国せざる得なくなり、私は途中で仕事を投げ出すことになった。


それ以来、心のどこかで、問題なく仕事が完遂されたのか、気になっていた。


「ああ、あれですか。特に大きなトラブルなく、モデルは完成していますよ」私が尋ねると、灰流は満足そうにそう言った。「変数の数が膨大なので、計算にとかく時間がかかりますが、シミュレーションのアルゴリズム自体は満足が行くものです」


「それを聞いて安心しました。完成を見届けられなかったのが、ずっと引っかかっていたものですから。叶うならば、もう一度、あれぐらい大規模なモデルを構築する機会にありつきたいものですな」


「また仕事を再開なさるつもりなんですか?」灰流は意外そうな顔をする。「心の整理...というか、もう少し、落ち着いてから復帰されてはいかがです?」


「いえ、私の場合は、仕事をしていた方が気も紛れるみたいです。実際、少し前に、フリーランスで仕事を受けたところなんです」


「へえ、どんな仕事なんです?詳しく教えて下さいよ」


灰流にクゼの依頼について伝えようとしたが、寸前で思いとどまる。たしか、クゼは『出来る限り内密に』と言っていたはずだ。灰流が特段、口が軽いとは思えないが、依頼者の許可なくみだりに口外すべきではないだろう。


そんな私の心中を察してか、「詳細は、無理に仰って頂かなくても結構ですよ。ざっくり、どんな内容です?」と灰流は微笑を浮かべつつ、言う。


「なんというか、ちょっと変な仕事なんです」


「変、というと?」


「例えば、米国で私が作っていたシミュレーションモデルは、考慮すべき項目が無数にあるでしょう。変数が多いから、モデルの構築が難しい」


「一次方程式よりも二次方程式の方が、二次方程式よりも三次方程式の方が、解くのが難しい、というのと同じですね」


私は頷く。「その逆パターンです。つまり、変数があまりにも少ない。変数が一つしかなければ、因果も相関も何もない。ただの数列からモデルを構築するなんて、天才的なひらめきが必要ですが、悲しいかな、私にはそれがない」


「なるほど。そういった文脈で難易度が高いのですね」


「ええ、私もはじめての経験です。まさか、変数が多すぎて途方に暮れることはあっても、少なくて困ることがあるとは、想像していませんでしたよ」私は苦笑しつつ言う。


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