第32話

待ち合わせの店は、六本木でも、銀座でもなく、サラリーマンの聖地、新橋にあった。


高架下の、時代からまるで取り残されたような空間。その一角に、一見すると営業しているか、していないのか、良く分からないその店があった。


『串 なかざわ』


私は店名を確認して、その店の暖簾をくぐった。


指定された時刻の少し前であったが、灰流は既に来ていた。カウンターに座り、店の主人と思われる男性と談笑している。研究室で白衣を着ている姿とは対照的に、今日の彼女はジーンズにTシャツというラフな格好だ。


こちらに気づくと、「どうも」と右手を上げ、私を隣の席に案内する。


小さい店だった。カウンターが数席と、座敷が二つ。歴史を感じさせる内装は、ところどころ古ぼけてはいるものの、不思議と清潔な感じがする。


「わざわざご足労かけて、申し訳ない」灰流は、笑顔で言う。


「いえ、とんでもありません。こちらこそ、お声がけ頂いて有難うございます」


飲み物と料理を注文して、しばらく旧交を温めた。当初、私も彼女も、意識的に妻の話題を避けていた。彼女も、妻の帯同がない以上、病気が完治していないと判断して、気を使ったのだろう。


しかし、いつまでも、彼女を(その意図はないにしても)騙す訳にはいかない。私は、話題がひと段落したのを見計らって、妻のことを切り出した。


灰流はかなり衝撃を受けたようであった。私の話を聞き終わらないうちから、みるみる顔が青ざめていく。


「それは、なんというか」灰流は言葉を探しあぐねて、「心からお悔やみ申し上げます」


「お心遣い、恐れ入ります」


「しかし、知らないとは言え、奥様が亡くなって日が浅いのに、このような場に呼び出してしまって」灰流は宴席を設けたことを後悔している様子だった。


「いえ、本当に嫌なら、お誘いをお断りしてますので、あまり気にされないで下さい。薄情なように思われるかもしれませんが、実は正直、妻の死にまだ実感が持てないのです」


これは、ではない。事実、ほぼ毎日、妻の姿を目撃していることもあり、死の実感は持ちづらい。


「そうでしたか...」灰流は私の言葉を強がりと受け取ったのか、なおを気の毒そうな視線を私に向ける。「貴方の気持ちが分かる、などと浅薄せんぱくなことを言うつもりは、毛頭ありません。しかし、友人としてお手伝い出来ることがあれば、何でも言ってください」


友人。灰流は私のことをそう言ってくれた。これは素直に嬉しかった。別段、学生時代も友人が多かった訳ではないが、大人になると、友達を作るのが難しくなる。


そして、話題は灰流の米国での研究に移った。

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