第5話

「申し訳ない。集中すると、周りが見えなくなるタチでして」灰流はそう言って、先ほどの行いを詫びた。


「いえ、お気になされずに」私たちは、大学の構内にあるカフェテリアに移動していた。既にランチタイムは過ぎていたのだが、灰流は仕事に熱中するあまり、昼食を取り損ねていたらしい。私は珈琲、灰流はサンドウィッチを注文して、席に座った。


「ところで、先ほどの名刺は?」私はずっと頭に残っていた疑問を口にした。


「ああ、よく研究室まで押しかけてくるですよ。共同研究の誘いとかで、企業とかシンクタンクとかの担当者がね」


「それで名刺を置いていかれるんですか?」


「ええ。個別に対応すると、キリがありませんし。私は特に助手も雇っていないのでね。ですから、基本的に、アポ無しの訪問者は名刺を置いて行ってもらうようにしているんです。私の興味を引くものがあれば、後から連絡をしますし、なければ名刺はゴミ箱行きです」


「それは...なんというか凄いですな」私は月並みな感想を漏らしたが、内心では灰流の不遜な態度に驚いていた。


というのも、日本社会における研究者の地位は高いとは言えない。有名な研究者でも研究資金の確保には結構苦労している。一方の灰流は、パートナーである企業を選別することが可能であるようだ。


実際、この後に知ることになるが、灰流は金を集めるのが上手かった。


灰流は色々な意味で異質であり、その異質性が米国ではプラスに作用しているようだ。まず若い。これは先述の通り、30代そこそこの若さでありながら、終身雇用の教授職を得ていた。


そして、アジア人である。科学技術の総本山とも言える米国で、アジア人が研究の第一線で活躍することは並大抵のことではない。


最後に、灰流はであった。加えて、目元が涼やかでありながら鋭い眼光を持つ、周囲の目を引くような美しい容姿を持っていた。


米国はとして、人種差別・性差別がない国ということになっている。しかし、これはあくまで建前で、実際にはアジア人差別も女性差別も存在する。


いわば、彼女は幾つものハンディキャップをものともせず、現在の地位を築いたのだ。同じ日本人として、彼女のバイタリティには大いに感銘を受けた。


さて、彼女との出会いに話を戻そう。


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