二〇〇那由多の手を尽くしても、君の心に触れない。 【第2回 MF文庫J evo】

森林梢/MF文庫J編集部

二〇〇那由多の手を尽くしても、君の心に触れない。

 はまさかやまはなまつり


 五月中旬に、浜坂山のふもとで開催される花火大会。さほど規模の大きいものではないが、開催時期の妙なのか、毎年それなりに盛況らしい。

 一説によると、世界平和と国際親善にするために始まった花火大会だそうだ。他に方法は無かったのかよ。ぼんぼこ火薬を爆発させておいて『世界平和と国際親善に寄与したいっす!』は笑えないぞ。あるいは、『突き詰めると武力でしか平和はしえない』という意味なのか。それもまた笑えない。


 そんなお祭りに、俺は余命一年の恋人、かやかわすずと一緒に来ている。

 等間隔に並び立つ屋台を冷かしながら、人々の隙間を縫いながら、時おり他愛ない雑談を交わしながら、俺たちは歩行者天国を進む。

 しばらくすると、涼音は、昨晩したためたという遺書の内容を唱え始めた。


『ハローエブリワン。ウェルカムトゥー、トーキョーディ●ニーシー』

「夢の国で事切れるつもりか!?」


 条件反射的にツッコむ。右隣を歩く彼女が、こちらへ目線を向けた。

 艶やかな黒の長髪が、様々な屋台に取り付けられた、暖色の照明を反射して輝く。

 白磁の肌はきめ細かく、群青の瞳は澄んだ湖面のような美しさ。しなやかな手足が、丁寧な所作をより色っぽく魅せる。

 服装は、ゆったりとしたピンクベージュのトップスに、カジュアルなデニムのミニスカートを合わせており、ラフな印象。実に爽やかだ。

 顔には、俺と同様に、上半分だけの狐面を付けている。祭りを存分に楽しんでいることが見て取れた。

 そんな彼女は、柔らかな微笑みを浮かべる。


「えぇ、最後まで楽しい気持ちで逝きたいから」

「残された人たちの気持ちを考えろ!」

「勿論、考えているわ。だからこうして遺書を」

「そういう意味じゃねぇ!」


 居合わせた人間全員、二度とまいはまに来れなくなるぞ。

 俺の嘆きを意に介さず、涼音が続ける。


「この手紙を誰かが読んでいるということは、彼女はもう、この世にはいないのでしょう」

「書いてるお前は誰だよ!?」

「今のが世に言うじょじゅつトリックです。意外とチョロいですね」

「違うわ! 全ての書き手に謝れ!」

「ごめんなさい」

「遺書が返事するな!」


 怒涛の勢いで飛来する、虚言と妄言と冗談と軽口。俺はそれらを的確に叩き、弾き、かわし、避ける。その姿は、さながら弾幕をい潜る剣豪のごとし。

 ふと、言葉の乱れ撃ちが止まった。涼音は急に真面目な顔を作る。


「こほん、ジョークはほどほどにして、本題に移りたいと思います」

「っ……」

つい身構えてしまう。


「……皆さん、香典、いくら包みました?」

「そんな話するな!」


 そして、そんな話を【本題】と呼ぶな。

 思っても願いは届かず、涼音は【本題】を続ける。


「まさかとは思いますが、五千円しか入れていない不届き者はいませんよね?」

「やめろ! せんさくするな!」

「言っておきますが、最低五万円からですよ? それ以下の人はたたりますよ? ポルターガイスト起こしますよ?」

「冥界から強請ゆするな!」


 その後もしばらく、おかしな遺書の読み上げは止まらなかった。

 最後だけ厳かに締めて、満足げに鼻を鳴らした涼音が、俺に訊く。


「どうかしら?」

「駄目に決まってるだろ! 却下だ却下!」

「あら残念。頑張って作ったのに」


 そう言いながら、口元はいたずらっぽく笑っている。

 つまり、これは本気の遺書ではないのだ。

 俺をからかうためのジョーク。冗談。嘘。でまかせ。

 自然と、返す言葉も荒くなってしまう。


「そもそも、遺書で遊ぶな! 不謹慎だぞ!」


 注意に、涼音は真顔で首を傾ける。


「重病人はジョークを言っちゃいけないの? 私は死ぬまでずっと、悲しみに暮れていなくちゃいけないの?」


 虚を衝かれた。今の俺の発言こそ、配慮に欠けていた。遅まきながら気付かされた。


「……いや、その、そういうつもりじゃなくて、……ごめん」

「嫌よ。許さないわ」


 薄桃色の頬を膨らませて、腕組みした涼音が言い切る。


「罰として、香典の前払いを要求するわ。しゅう君、どうせ来るんだから、今この瞬間に貰っても問題ないはずよ」

「あるよ! 問題だらけだよ!」


 勢い任せの全力ツッコミ。涼音は楽しそうに笑った。

 呼吸を整えていると、涼音が尋ねてくる。


「逆に、修君が遺書を書くとしたら、どんなことを書くの?」

「……この遺書に名前を書かれた者は死ぬ」

「死に際に、とんでもないものを産み落としたわね」


 及第点の冗談に、涼音は口角を上げた。

 ……今のは、嘘だ。

 本当に、俺が涼音に向けて書くべきは、謝罪文だ。

 ずっとだましていて、二股していてごめんなさいと、伝えなければいけない。



 全ての発端は、今から三か月前。高校一年生の二月。

 ばりしゅういちは、ほぼ同じタイミングで、余命一年の女の子二人から告白された。

 一人は、小学生の頃から仲が良かった、優しくて、穏やかで、お茶目な女の子。

 もう一人は、病になんか負けたくないと、懸命に生きようとする、強い女の子。

 二人とも、すごく魅力的で、同じくらい名張修一を想っていて。

 同じくらい、この恋に懸けていた。

 文字通り、人生を。

 彼は激しく思い悩んだ。

 無理もない。余命一年の少女二人のうち、どちらかを絶望の底へ叩き込まなければいけない。その役目を、突然に背負わされたのだから。

 自分に拒まれた女の子は、その後、どうなってしまうのだろう?

 もし、名張修一が誰かと恋仲になったことを知ったら、どう思うのだろう?

 そんな葛藤にさいなまれた。

 悲劇の主人公そのものと呼んで、差し支えないだろう。

 ……だから、俺は――。


「修君」


 手を軽く引かれて、意識が引き戻される。眼差しで涼音に用件を訊いた。


「あれ、食べない?」


 彼女が指さす先には、焼きそばの屋台。ぶ厚い鉄板の上では、ソース色の麺が香ばしい匂いを放っている。かなり人気なようで、ちょっとした行列が出来ている。

 最後尾に辿り着いたタイミングで、俺は質問した。


「そういえば、栄養バランスとか、大丈夫なのか? 変なもの食べると、体調崩すぞ?」

「問題ないわ。今日のために、丸一日、食事を抜いてきたから。今、全てが不足している状態だから」

「病人が無理するな! マジで!」

「大丈夫よ。いざとなったら点滴を」

「駄目に決まってるだろ!」


 予定変更。何でもいいから、早く摂取させなければ。焦りが募る。

 他の客も、鼻唄交じりに焼きそばを作る店主も、浜坂山花火祭実行委員会も、全てが敵に見える。

 自分たちの番が来て、注文して、会計して、パック入りの焼きそばを受け取るまでの一〇分が、数時間にも感じた。

 その後は素早く、手近な芝生に腰を下ろす。割り箸が添えられたパック入りの焼きそばを涼音に渡す。


「いただきます」

「そんなのいいから早く食べろ! あ、待て! やっぱ、ゆっくり食べろ! 急に大量に食べ物が入ると、胃腸がビックリするから!」


 どっちつかずの指示を受けた涼音は、しょうしょうの体で焼きそばをすすり、もぐもぐ頬張る。

 ……そういえば、よく行く喫茶店の看板メニューの一つは、焼きそばだったっけ。

 最後にあの店を訪れたのは、三週間くらい前。友人のと一緒だった。



「修って、本っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ当に嘘つきだよね」


 焼きそばをむさぼりながら、愛依は、苦虫を嚙み潰したような顔で言い切った。

 笑顔のよく似合う丸顔の持ち主。なのだが、その時は俺のせいでご立腹だった。

 その怒った様子と、有線放送のクラシック音楽と、古風な喫茶店の雰囲気とのミスマッチが、妙に笑いを誘った。

 断っておくが、普段は明るい元気娘なのだ。あらゆる悩みを打ち明けることができる、無二の友人関係なのだ。って言うと余計に嘘くさいけど。

 ため息混じりに窓ガラスの外を見やれば、小雨の街並み。その中には、涼音の入院する病院もあった。


「いきなり何だよ」


 旧友からの酷評に、たっぷりと溜めてから反論すると、愛依が片眉を上げて返した。


「だってそうじゃん。言動は勿論、存在してるのかすら微妙じゃん。ここにいるのかいないのか、それすらハッキリしないじゃん」

「それは別ベクトルの悪口だろ! 【存在感が薄いモブ野郎】って意味だろ!」

「自覚があるなら改めなよ」

「簡単に言うな! 出来ないからモブなんだよ!」


 自分で言ってて泣きそうだった。憂いを晴らすべく、俺は存在の証明を試みる。


「見ての通り、ちゃんと存在してるっつーの。名張修一。二月二日生まれのB型。身長一七四センチ。体重五五キロ。川北高校二年B組。しかと海馬に刻みつけやがれ」

「……嘘つき」

「もうどうすりゃいいんだよ!」

「自分で考えて」


 愛依は投げやりに言い捨てた。

 ひょっとすると、体重が五〇キロを切ったことがバレていたのかもしれない。 

 だが、それを言うと彼女は『何その体重? あおってるの?』と怒るのだ。

 かつての理不尽なうちを思い出し、人知れず憤っていると、愛依が半眼で忠告してきた。


「そうやって、適当なことばっかり言ってると、いつか絶っっっっっ対に後悔するよ」


 俺は堂々と、真っ向から反論した。


「しないね。むしろ、正直者の方が、いつか後悔する羽目になる」

「そんな訳ないじゃん! 正直者の方が得するに決まってるよっ!」


 正直者が全員報われる世界。

 だったら簡単で分かりやすくて最高なのにな。


「……本音をぶつけ合って、解り合えるなんて、幻想だ。御伽おとぎばなしだ。現実には起こらない」


 だから俺たちは、無難な嘘を交わすことに終始すべきなのだ。嘘は世界のじゅんかつ


「試したの?」


 聞こえていたのに、当時の俺は上手く反応できなかった。彼女は問いを重ねた。


「本音で誰かにぶつかったこと、あるの?」


 刹那の動揺。悟られてはいなかった。と思う。


「あるさ。今だって、お前と本音でぶつかり合ってる。でもって議論は平行線だ。ほら見ろ。やっぱり本音で話したって、解り合うことなんか出来ない」

「あたし以外の人には? 試したの?」


 愛依以外の、本音で話し合うべき相手。

 一体、誰のことを指した発言だったんだろうな。

 涼音か、もう一人の恋人か、あるいは。


「……試すまでもない」

「つまり試してないじゃん! はい論破! 論破論破論破!」


 うるせぇよ。そう思った俺は、会話を切り上げ、不味まずい紅茶を飲むことで意思表示した。

 愛依は俺に釣られたのか、初めて手元の紅茶に口を付けた。二秒後。


「この紅茶、めっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっちゃ不味い!」

「バカ! 言うな!」


 瞬間、俺は確信した。やっぱり本音なんか言うべきじゃないって。



 その時、鈍い爆発音が、辺り一帯にとどろいた。

 花火が始まったのか? 周囲を見回すが、それらしき光は見えない。


「……空砲だったみたいね」


 不満げにつぶやく涼音。表情が『紛らわしいしやがって……』と言外に語っている。

 なぜ彼女は憤っているのか。心当たりがある。

 この祭の一発目の花火には『好きな人と一緒に見ると、生涯添い遂げることが出来る』という、ありふれた都市伝説が存在するのだ。

 ……そんなの気にしなくたって、俺はどこにも行かないのに。最期まで一緒にいるのに。


 空砲が鳴った付近に目を向ける。自然と、後方の山も視界に入り込んできた。

 浜坂山。標高は五〇〇メートル弱。特にこれといった特徴はない。城跡もなければ高名な寺社仏閣もない。貴重な動植物も生息していなければ、温泉もない。登山道さえない。

 しかし、何故かこの祭りは【浜坂山花火祭】という名を冠している。名付け親の神経を疑う。『何の特徴も無い、凡庸な祭りになってほしい』とでも思ったのだろうか。

 視線を戻すと同時。涼音が、俺の顔をじっと見ていることに気づいた。

 トップスの胸元へ動きかけた視線を、どうにか留めて訊く。


「何か付いてるか?」

 涼音は首を傾けた。


穿いてるジーンズと、同じ顔色してるわよ? 大丈夫?」

「そこまで青くねぇよ!」

「つまり、顔色が悪い自覚はあったのね」


 真顔で言う涼音。返事に詰まる。

 基本的には優しい彼女だが、健康を省みない言動には、しっかり怒るのだ。


「……昨日、ちょっと夜更かししたから」


 涼音が気遣わしげに言った。


「身体は大事にして。説得力あるでしょ?」

「……気を付けるよ」


 とは言ってみたものの、生活を劇的に改めることは難しいだろう。

 自慢じゃないけど、名張修一は忙しいんだ。大変なんだ。この程度のことで弱音を吐いていては、とてもじゃないがやっていけない。

 気を引き締め直した時、ジーンズのポケットで、携帯電話が震えた。取り出す。

 兄貴からだった。

 今どこにいるんだとか、何時に帰る予定なんだとか、涼音は楽しそうかとか、色々と訊いてきて鬱陶しかった。普通、そういう話、兄弟姉妹にしたくないだろ。察しろよ。

 無難に、淡々と、必要最低限の文字数で情報交換だけを行い、通話終了。

 涼音の横に戻るやいなや、彼女は真顔で訊いてくる。


「電話、誰から?」

「図書館。借りてる本、延滞になってるから、さっさと返せってさ」

「ダメよ、ちゃんと返さなきゃ」

「面目ねぇ」


 嘘をいたのは、兄貴の話なんかしても、良いことなんて一つもないから。

 そんな心中を知らない涼音が、くすくす笑いながら言った。


「小学生の頃から、図書館の本、よく延滞してたわね」

「……そうだっけ?」

「そうよ。そのせいで、貸し出し停止になっちゃって。それでも読みたい本があるからって、ずっと図書館に入り浸ってて、そして……私と出会った」


 びっくりするくらい、本の趣味が似通っていた。

 二人とも、ファンタジー小説が大好きだった。

 中学生になっても、高校生になっても、二人の趣味こうが離れることはなかった。

 本が、小説が、物語が、二人を繋いだ。繋ぎ続けた。

 知ってる。分かってる。忘れるわけがない。

 回顧する俺の肩に、涼音が自分の肩を軽く当てた。不満げに口を尖らせている。


「ちょっと。今、あの女の子のこと見てたでしょ?」

「え? 見てないよ」

「本当に? それにしては、視線が散っている気がするけれど」

「……誤解だ」


 嘘だ。実際、視線はかなり散っていると思う。

 理由は一つ。

 もう一人の『名張修一と一緒に花火大会へ行きたい』と願った少女を、探しているのだ。

 彼女は今、この会場に来ている。

 目的は、名張修一と一緒に花火を観ること。

 これが、名張修一と花火を観る、最後の機会になるかもしれない。

 だから、どんな障壁があろうと、彼女は来る。来てしまう。

 それが分かっているから、行き交う人々の中に、視線を巡らせてしまうのだ。

 見つけたところで、俺には何も出来やしない。

 分かっていても、められない。


「いた」


 涼音の呟きで、心臓が止まりそうになった。十分の一秒くらいは、本当に止まっていたかもしれない。それくらい衝撃を受けた。

 涼音が指さす先を、ゆっくりと目で追う。


「あれ、愛依さんよね? 修君のお友達の」


 そこには愛依がいた。あでやかな浴衣を着ている。水色の布地と帯に、金や銀や藍色や桜色などのしゅうがあしらわれている。澄んだ小川が表現されているのだろう。

 ……涼音には出来ない格好だ。

 慣れない格好で出歩くと、著しい体力の消耗は避けられない。それは病身の涼音にとって命取りだから。

 愛依は、友人たちと一緒に花火大会を訪れた模様。他の面々も、色とりどりの浴衣に身を包んでいる。

 一気に、安心と疲労感が押し寄せてきた。無駄に驚かせないでくれ。頼むから。


「……涼音。ちょっとだけ待っててくれ。二分で戻る。変な奴に絡まれたら、この防犯ブザーを鳴らせ」

「過保護」


 過保護で結構。嘆息を受け流し、愛依の元へ。

 お面を少し上げて、背後から小声で呼ぶ。


「よう」

「っとぉぉっ! ビックリしたぁ! って、修!? 何してんの!? デートは!?」

「あんまり大きい声出すな」


 愛依の奇声に反応して、彼女の友人たちが、俺に好奇の眼差しを向けてきた。せっかくの楽しい場に水を差して申し訳ない。早く撤収せねば。


「今回、色々と相談に乗ってもらったから、ちゃんと面と向かって、お礼を言っとこうかなって」

「あたし、お礼言われるようなことしたっけ?」


 半笑いで応じる愛依。

 ……したんだ。してるんだ。

 全てを打ち明けられる第三者がいるだけで、救われることも多々あるんだよ。

 不意に、ばしばしと強く右肩を叩かれた。耐えかねて顔を上げる。

 愛依は、俺が少し目を離した隙に、何か購入したようだった。


「これあげる! 奢りだよ!」


 俺の返答を待たず、不敵に笑った彼女は、手に持っていた物を押し付けて、友人たちの方へ行く。浴衣をまとっているにも関わらず、人混みを器用にすり抜けていく様に感心した。

 ……涼音も、あんな風に動き回りたいのかな。

 押し付けられた物の正体は、メーカー小売希望価格の五割増しくらいの値段で売られているジュースだった。

 缶のメロンソーダ二本。三〇〇ミリリットル。キンキンに冷えてやがる。

 つまりは、名張修一の好物だった。

 それらを手に、涼音の元へ戻り、事情説明。

 遠ざかる愛依の背を見ながら、彼女は呟く。


「いい人ね」

「……あぁ、本当に、いい根性してるよ」


 俺は失笑しながらプルタブを開けて、メロンソーダを口内へ流し込む。喉の最奥に炭酸が刺さった。

 五感の一つである触覚を刺激されたことで、記憶と、葛藤と、決意が蘇る。



 二週間前の一幕だった。


「いや無理じゃん。絶っっっっっっ対ダメじゃん」


 狭い屋内に、マイク越しの愛依の大声が響いた。場所は郊外のカラオケボックスだった。

 そこで『二人の女子と、同じ時間に、同じ場所で、花火大会デートがしたい』という極めて身勝手な願望を俺が話したところ、冒頭の回答が返ってきたのだ。

 そんな愛依の全否定を、俺は全否定した。


「いや、大丈夫。何とかする」


 ここで折れてしまったら、必死で嘘を吐いている意味がないから。

 涼音の理想を全て叶えてあげることこそ、俺の使命だから。至上命題だから。

 愛依が眉根を寄せたまま、机上のグラスを手に取り、注がれたメロンソーダを飲んだ。

 テーブルには、同じグラスがもう一つ、メロンソーダが入った状態で置かれていた。

 それを指して、彼女が俺に尋ねた。


「飲まないの? せっかく注いできてあげたのに」

「……俺が炭酸苦手なの、知ってるよな?」

「勿論! 嫌がらせだよ! 嘘つきだから、飲むかと思って」


 言いながら、愛依はサムズアップした。いっそすがすがしかった。

 メロンソーダを口に含み、思い切り渋面を作ってやった。舌がひりついた。


「修が嘘吐く時ってさ、人が心底嬉しそうな時だよね」


 愛依の言葉に、上手く反応できなかった。彼女は俺の目をじっと見据えた。


「美味しいとか、楽しいとか、嬉しいとか、相手が本気で思ってそうな時ほど、我慢して同調してる気がする」

「……気のせいだ」

「嘘つき」


 嘘じゃない。『人を幸せにしない嘘に、存在する価値なんかない』と思ってるだけだ。

 逆説的に、人を幸せにするためであれば、どんな嘘を吐いてもいいと俺は思ってる。

 多分、愛依に言ったら、大反対されるけど。

 ふと彼女の顔を見やれば、その表情は曇っていた。


「てか、顔色ヤバくない?」

「……生まれつき、不健康顔なんだ」

「なるほど」

「ちょっとくらい否定しろ!」


 当時の俺が『そんなことないよ』を求めていることは、火を見るよりも明らかだったのに。そのくらい、人の気持ちを汲み取れるようになってほしいぜ。

 そんな俺の、不満の眼差しを無視して、愛依は聞いてきた。


「カナちゃんは、説得できないの?」


 カナちゃん。もう一人の、名張修一の恋人。

 その名前を聞いた瞬間、気が重くなった。しかし背に腹は代えられない。

 彼女は、名張修一の二股を知る、数少ない人間の一人なのだから。

 どんなに心苦しくても、避けては通れない。全ては涼音のためだ。


「……多分無理だけど、話してみようと思ってる」


 愛依の反応は鈍い。提案してみたものの、難しいことだと当人も分かっていたのだろう。

 努めて気丈に返した。


「安心しろ。駄目だった時のことも考えてある。伊達に日頃から【どうすれば二股が露呈しないか】ばっか考えてるわけじゃねぇよ」


 単なる強がりではなかった。あの時も、今も、マジでそればっかり考えてるからな。

 そのために生きてると言っても過言じゃない。

 たとえば、スケジューリング。デートの日付が、加奈の予定と被らないようにするのは当然。更に、涼音たちのスケジュールを分単位で把握しておき、が生じないよう日々細心の注意を払っている。

 また、使。 

 商品の配置やトイレの場所などの【来店したことがある人間しか知らない情報】を俺が知っていることに、涼音が気づき、二股を疑われる可能性があるからだ。

 そういう些細な違和感の積み重ねが、やがて大事故に繋がるのだ。

 だから、徹底的に、完全に、完璧に、隠蔽する。欠片かけらも手掛かりは残さない。

 ……涼音の世界に、浮気する彼氏なんか、存在しない。俺が消してやる。



 そう。涼音にとって不都合な存在は、全部全部、俺が消してやるんだ。こんな風に。

 二つの空き缶を、道沿いのごみ箱に放り込む。

 アルミ同士がぶつかり合う音を合図に、涼音が切り出した。


「実はね、もう一つ考えたの。遺書」


 俺の苦笑を、好感触だと曲解したらしく、涼音は紅顔で、ふんふんと鼻息を荒らげながら、また遺書の内容を暗唱し始めた。


「それではこれより、私が絶対に許さないと決めた人たちのフルネームを、一人ずつ発表します」

「待て待て待て待て!」

「まず一人目、小学校二年生の時のクラスメイト、たかゆうすけくん。私が大事に残していた、給食のゼリーを『要らないなら貰うぜ』と勝手に持っていきました」

「内容がショボい!」

「極刑を望みます」

「その程度じゃ無理だよ!」


 合成音声のような声音と抑揚で、涼音が続ける。


「次に、小学校四年生の時に、クラスにやってきた教育実習生のさくらさくさん。実習中ずっと、私のことを『山川さん』と呼んできました。何度も訂正したのに」

「いや、そういうこともあるだろ。たった数週間で、沢山の生徒の名前を覚えなきゃいけないんだからさ」

「高田君のことは一回も間違えませんでした。あんなぶつの名前は間違えなかったのに」

「もう高田君のことは忘れろ! 意味ないから!」

「校門の辺りで、リアル桜田門外の変を起こすべきでした」

「べきじゃねぇよ! 絶対に!」


 あと、日本史で登場した【桜田門外の変】も、リアル桜田門外の変だぞ。

 当然、この遺書も不採用。になったはず。そう信じたい。


「修君は、嫌いな人、いないの?」

「……いないよ。何でそんなこと聞くんだ?」


 興味本位の質問。涼音は事もなげに応じる。


「さっき、私だけが嫌いな人間を列挙したでしょう? このままだと、私が最低の人間みたいになってしまうわ。だから、修君も言って」

「そのやり口が最低だよ!」

「私より沢山の名前を挙げてね」

「嫌だよ! 俺を下げるんじゃなくて自分を上げろ!」

「ワガママを言わないで」

「こっちの台詞だ!」


 そうはんばくしながらも、俺は内心冷静だった。こういう時の返答は決まっているから。


「嫌いな奴なんかいないよ。嫌いな奴なんか、覚えておく価値もない」

「……修君らしい回答ね」


 誰も傷つけないベストアンサーに、涼音は少しだけ寂しそうな顔をした。

 そんな姿をただ見ているのが息苦しく感じて、俺は話題を継ぎ足す。


「逆にさ、涼音が一番好きな奴は、どんな奴だ?」


 途端、涼音は分かりやすく恥ずかしそうな顔をした。


「……何だか、頭の悪いカップルみたいな質問ね」

「半分正解」


 涼音が微笑む。釣られて笑った。

 笑みをこらえたまま、涼音は俺の目を見て言う。


「一途な人。カッコよくて、優しくて、真面目な人」

「つまり俺か」「ナルシスト」「客観的事実だ」


 笑う涼音。俺も口角を上げる。

 こういう時、謙虚をこじらせて卑屈にはならない。それが名張修一クオリティ。

 俺はテンポよく尋ねる。


「じゃあ、涼音が一番嫌いな奴は?」


 逡巡の後、彼女は言葉を宙に放った。


「――浮気する人」


 言葉を失った。

 何があろうと絶対に隠し通す。そう決めたはずなのに、この程度で狼狽うろたえてしまうとは情けない。

 それが絶対不変の正義だと言わんばかりに、満面の笑みで涼音は続ける。


「ああいうことする人、最低だと思わない?」

「……あぁ、浮気なんて、最低だ。最低最悪の行為だ」


 思ったより、すんなり口にすることが出来た。きっと本心だからだろう。

 俺は本気で、浮気を最低最悪の行為だと思っている。誰も信じないだろうけど。

 しばらくして、今度は涼音から質問が来た。俺の変調を察して、気を遣ってくれたのかもしれない。


「修君が一番好きな人は?」

「萱川涼音」

「……、つまり私ね」

「あぁ。主観的事実だ」


 嘘じゃない。嘘じゃないぜ。

 定期的にそう言い聞かせないと、何が嘘で何が本当か、自分でも分からなくなりそうだ。


「……嘘を吐くのって、悪いことだと思うか?」

「急にどうしたの? 何か私に嘘を吐いたの?」


 わく的に笑んだ涼音が、試すような眼差しを向けてくる。


「そういう意味じゃなくてさ。屋台見て思ったんだよ」これもまた嘘だけど。


 涼音の表情が真剣味を帯びた。俺は続ける。


「普段、生活してて、大なり小なり嘘吐くことってあるだろ? 接客してたら、思ってなくても必ずお客さんに『ありがとうございます』って言わなきゃいけないしさ。でも、それって悪いことなのかな。嘘吐いて喜んでもらえるなら、それなりに満足じゃね?」


 しばらく経ってから、後悔の念が湧いてきた。

 こんなこと聞いて、何の足しになる? アホなのか?

 全て嘘なら、せめて意味のあることしろよ。

 どうせ嘘なら、面白いこと言えよ。


「……そうね。確かに、それなりに満足かもしれない」


 涼音の口調は穏やかだった。しかし主張は鋭かった。


「でも、嘘を吐いた時点で、本当の幸せは手に入らなくなってしまうわ」


 お前は幸せになれない。そう言われたも同然だった。


「……本当の幸せって?」


 幸か不幸か、彼女は俺から目を逸らさない。


「ありのままの自分を、受け入れてもらうこと。愛してもらうこと。私は、それが本当の幸せだと思う」


 まさしく理想論。

 だからこそ真理なのかもしれない。

 誰もが望み、誰もが諦め、しかし心の奥底では求めているもの。

 それが欲しいと彼女は言う。ちゅうちょなく、はっきりと。

 ……終わりを意識して、生きているからかもしれない。


「でも、嘘を吐いたら、それはもう絶対手に入らない。だって、たとえ誰にも嘘がバレなかったとしても、自分自身の中に『嘘を吐いた』という事実が残り続けるから」


 刺さった。取り返しがつかないくらい、深々と。


「……そうか。じゃあ、嘘は言わない方がいいな」

「……言わない方が、幸せになれるはず。なのに、なぜ人は嘘を言ってしまうのかしら」


 幸せにしたいからだよ。

 喉を押さえて、言葉をせき止めた。

 思考を止めようと、周囲を見回す。

 花火の打ち上げに向けて、会場の活気も上々。屋台の呼び込みも、お調子者の下手くそな歌声も、まつりばやも、かしましい笑い声も………………。

 瞬間、意識が一点へと集中する。

 心臓が思い切り踏まれたかのように、脈拍を乱した。

 見つけたのだ。

 自分たちと同じ、狐のお面を顔に付けた少女が、反対方向から歩いてきた。右手には牛串を握っていた。

 しかし、すぐに加奈ではないと気づいた。

 その少女は、わか色の浴衣を身に纏っている。

 涼音と同様の理由で、加奈があれを着ることはないはず。

 ……神楽かぐらざか

 それが、名張修一の、もう一人の恋人の名前。

 物心ついた時からずっと病気がちだったそうだが、それを感じさせないほど明るく、芯が強く、前向きに生きる女の子。

 だからこそ、意志薄弱で根暗で嘘つきな俺とは、ぶつかり合うことも少なくなかった。

 今回も例外ではない。

 愛依とカラオケに行った日から四日後。つまりは十日前。

 俺は、神楽坂加奈が入院する総合病院の中にある、カフェテリアを訪れた。

 最低の交渉をするために。

『花火大会には来ないでほしい』と、改めて伝えるために。



 俺が来た時点で、加奈は既に、窓際の席を確保していた。

 ダークブラウンの柔らかそうな長髪を、頭の後ろで束ねてポニーテールにしていた。すいいろの瞳は、エメラルドに比肩する輝きを放っており、俺を捕捉したまま離さなかった。

 手足が非常に長く、ファッションモデル並みの常人離れした体格。

 服装も、これまた非常にあかけていた。ライムグリーンのハイネックトップスを着て、その上からダブルの黒いジャケットを羽織っていた。下には黒のワイドパンツ。

 全く病人には見えなかった。病状は、涼音と大差ないはずなのに。

 俺は軽く頭を下げながら、対面のログチェアに座った。


「悪かったな、急に呼び出して」

「気にしないでください。むしろ、病院まで来て下さって、ありがとうございます」


 加奈はにこやかに応じた。不機嫌ではなさそうだった。正直、ちょっと安心した。


「ふぅ……、」


 座り直した時に、意図せず声を漏らしてしまった。

 上手く言えないけど、起きてからずっと身体が重かった。どこか特定のしょが痛いとか、疲れてるとかじゃなくて、シンプルに重力が増えたかのような感覚だった。

 すると、加奈が労いの言葉をかけてくれた。


「随分お疲れですね。ちゃんと寝てますか?」

「ぼちぼちかな。連日徹夜してる訳じゃないから安心してくれ」

「なるほど。口ぶりからして、隔日徹夜くらいはしてそうですね」

「……」


 ご明察だった。

 沈黙が返事の代わりになってしまったようで、加奈は心配そうに眉根を寄せた。


「ちゃんと休んでください。身体を壊したら、全て台無しですよ」

「……気を付ける。けど、台無しってことはないだろ」

「台無しです。全部」


 自分自身を否定するかのように、彼女は断言した。俺は返答に窮した。

 加奈と涼音を否定するようなことは言いたくなかった。それが真実であったとしても。

 しかし、加奈は俺が無言で逃げ続けることを良しとせず、別の話題をぶつけてきた。


「どうして私には、二股していることを隠さないんですか?」


 さらりと問われて、返答に困った。


「……いや、だって」

「どうして萱川さんには隠して、私には明かしているんですか? そこには何か理由がないと、違和感がありませんか? 教えてください、お願いします」


 疑問を重ねた末、加奈が小首を傾げた。面持ちは真剣だった。

 慎重に言葉を選び、出力した。


「……お前は、大らかだから、事情をちゃんと説明すれば、許してくれる、から」


 彼女は小さく息を吐いた。どこか自嘲的で、寂しげな挙動だった。


「そうですね。私は大らかなので、貴方の二股を許容します。納得はしていませんけど」


 一瞬で心臓が縮んだ。ぎりぎりとワイヤーで締め付けられているかのように痛んだ。

 左胸の辺りを握り込んだ俺を、また質問が襲った。


「どうして私が、それでも二股を許容しているか、分かりますか?」


 数秒の回答時間を、俺は棒に振った。

 加奈はくぐもった声で呟いた。


「修一君のためです。修一君が背負う罪悪感を、少しでも和らげてあげたいからです」


 ……つまり俺は、彼女に背負わせてしまったのだ。

 病と必死に戦う加奈の背中に、本来は一人で背負うべきだった苦しみを、上乗せしてしまったのだ。


「……萱川さんの件ですが」


 さらなる追い打ち。表情筋が強張った。彼女は続けた。


「条件次第では、譲っても構いません」


 条件? 視線で問い返すと、加奈は嚙み締めるように言った。


「萱川さんに、全ての真実をお伝えしてください」

「……は?」

「貴方が何をしたのか。その全てを彼女に明かすんです」


 面持ちからして、冗談ではないと分かった。

 だからこそ困惑を隠せなかった。

 それは、譲るつもりが一切ないと、宣言しているようなものじゃないか。


「何、言ってるんだ。そんなこと、出来る訳ないだろ」

「出来ますよ。簡単です。私からお伝えしましょうか?」


 ふざけんな、という叫びが、喉の奥からあふれ出そうになった。


「っ、……どうして、そんなことしなきゃいけないんだよ」

「萱川さんのためですよ」


 迷いなく加奈は言い切った。意味が分からなかった。


「――私への余命宣告は、本来、もっと早く伝えられるはずでした」


 初めて聞く話だった。少々唐突には感じたが、耳を傾けざるを得なかった。

 爽やかな声に、毒々しい怒気が滲んだ。


「家族が、私に伝えることを躊躇ためらったそうです。私が、自分の身に起きていることの全容を知ったのは、それが家族に知らされてから、およそ二か月後でした」


 二か月。

 彼女にとって、尊く、がたく、長い時間。


「私は怒りを隠せませんでした。もっと早く知りたかった。知った上で、どうするか、自分で決めたかった」


 また別の感情が、悲哀が、声と表情に混ざった。


「私と同じ思いを、涼音さんにはしてほしくありません」


 ……単なる思い付きじゃないということは分かった。でも受け入れられなかった。


「……涼音とお前は違う」

「どうして断言できるんですか? 聞いたわけでもないのに」


 鋭利な指摘だった。ぐうの音も出なかった。


「萱川さんには、全てを知る権利があるはずです。そして、全てを知った上で、彼女自身がどうするか決めるべきです。それを阻む権利など、誰にもありません。無論、貴方にも」

「……その結果、涼音が絶望したら? 生きること自体、嫌になったらどうする?」


 初めて、加奈の返答に、ラグとちゅうちょが生じた。


「……それもまた、彼女の決断です」


 無責任なことを言うな。と口に出しかけて、止めた。

 神楽坂加奈の言葉が、涼音と同じ境遇にある彼女の言葉が、病に打ち勝つために闘っている彼女の言葉が、無責任であるはずがない。

 むしろ、無責任なのは……、

 不都合な真実から目を背けようと、強引に思考を打ち切ろうとしたが、加奈はそれを許さなかった。


「はっきり言います。貴方は【残酷な真実を言うくらいなら、嘘で誤魔化した方がいい】という自分の価値観を、何も知らない萱川さんに押し付けているだけです」


 丁寧に、丹念に、繊維の一本さえ残さないように、俺の心を叩き潰した。


「自分の都合で、他者の選択肢を強制的に狭めるなんて、最低の行いです。今の貴方は、最低です」

「っ……!」


 神楽坂加奈から言われる最低。

 それは、内面の全否定と同義だった。

 言葉を失う俺。加奈は苦しそうに俯く。


「……、ごめんなさい。言い過ぎました。貴方も辛いに決まっているのに」

「……言い過ぎじゃない。事実だ。それに、辛いのはお互い様だ」

「……ごめんなさい」


 しばらく、無言でテーブルを見つめるだけの時間が続いた。加奈の方を見る勇気が俺にはなかった。

 彼女が、俺の手元に、五〇〇円硬貨を差し出して立ち上がる。


「……条件を飲めないのであれば、私は譲りません。花火大会には行きます。行きたいです。絶対」

「……」

「もし鉢合わせになったら、私は萱川さんに、真相を話しますから。そのつもりで」


 絶対に駄目だ。止めてくれ。

 その一言が、どうしても言えなかった。



 思い出すだけで苦しくなる。

 ただでさえ、自分のことで一杯一杯の加奈を、俺の都合で振り回してしまった。

 その末に、彼女を説得できないまま、こうして花火大会当日を迎えてしまった。

 ……でも大丈夫。俺たちと加奈が顔を合わせなければ、全て丸く収まるんだ。

 幸せなまま、花火大会を終えることができる。

 涼音も。加奈も。……名張修一も。

 祭りの喧騒に混じって、進行方向から怒号が聞こえてきた。おそらく男性のもので、何やら言い争っている模様。

 涼音が眉をひそめて、俺の方へ身を寄せる。


「喧嘩?」

「みたいだな」


 案の定、声の出所では、めいてい状態の中年男性二人が、複数人の警官に取り押さえられていた。

 せっかくの楽しい雰囲気が台無しだ。

 思わず口からため息が漏れた。


「馬鹿だなぁ。楽しい場所なんだから、ちょっとくらい我慢すれば……」


 しまった。慌てて涼音の方を見ると、不服そうに目を細めている。無言が辛い。 


「……ごめん。今のなし。大事なのは我慢じゃなくて、飲み過ぎないこと」

「よろしい」


 笑みを浮かべる涼音。俺は内心で安堵した。

 あの日みたいに、また喧嘩になったら嫌だからな。


 一週間ほど前。

 花火大会に着ていく服を買いたいから、一緒に選んでほしい。

 そう涼音に言われた時、俺は本当に嬉しかった。

 涼音と一緒に、そんなことを出来る日が訪れるなんて。夢にも思わなかった。

 しかし、そんな素晴らしい機会を、俺は台無しにした。あの酔っ払いみたいに。

 断っておくが、デート自体は本当に楽しかった。今日に負けないくらい楽しかった。

 涼音の笑う顔を見るだけで、心が弾んだ。胸が躍った。足が軽くステップを踏んだ。

 デートの際は、涼音に合わせて、俺も新しい衣類やズボンを購入した。ついでに香水も新調し、美容院で髪も切ってもらった。


 そうやって、二人の時間は、和やかに過ぎていった。

 ずっと涼音は楽しそうで、俺も本当に楽しかった。

 そして俺は思った。

 やっぱり、全部全部、嘘でいいんだ。

 俺は間違ってなかった。

 涼音の余生に、不都合な真実なんか要らない。綺麗で楽しい嘘だけでいいんだ。

 それに、こういう生活を続けた結果、涼音が治療に積極的になる可能性だってある。

 むしろ、希望があるからこそ、絶望に立ち向かおうと思えるんじゃないか? 

 そうだよ。そうに決まってる。

 心中で繰り返しながら、涼音を病院まで送るため、駅の付近まで来た時だった。

 俺は、ちょっとしたコンクリートの隙間でつまずき、転んでしまった。

 問題は、その後だった。

 身体に力が入らなくなり、起き上がれなくなってしまったのだ。

 寒かった。全身の節々に、軋むような痛みが走った。

 一方で、意外と恐怖は薄かった。まだ現実を受け入れられていなかったのだろう。『健康って、ありがたいことなんだなぁ』みたいな感想しか出てこなかった。

 それでも、はたから見て異常事態なのだと気付けたのは、涼音がいたからだった。

 今も声が脳裏に残っている。


 ――修君!? 修君! 大丈夫!?


 彼女は、俺の肩をかなり強く揺さぶった。表情には鬼気迫るものを感じた。

 心配させてしまった。悲しませてしまった。罪悪感が心を覆った。

 加奈の言うとおりだった。身体を壊すと、全て台無しだ。バレない嘘つきの条件に、健康であることも加えておくべきだった。

 返事を口にすることは叶わず、そのまま視界はブラックアウトして。

 次に目を開けた時、視界に広がったのは白い天井だった。

 見覚えがあった。

 以前、涼音が定期検診を受けるため、病院を訪れた時、俺は彼女に同行したことがある。その時に見た天井だった。

 つまりここは病院。

 ベッドに寝ているということは病室。

 割とスムーズに把握できた。

 上半身を起こすと、異様にだるかった。自分の身体なのに、全然思い通りに動いてくれなかった。

 ベッドの脇の椅子には、涼音が座っていた。

 俺が彼女の存在を認識するよりも先に、彼女は動き出していた。

 涼音は、ベッドの上の俺にしなだれかかるように、抱きついてきたのだ。

 細い手指が、柔らかな腕が、きゃしゃな肩が、綿わたあめみたいに甘い香りが、熱い体温が、微かにえつを含んだ吐息が、俺にしがみついてきた。

 ぎゅうぅっと、締めつけられた。

 想像以上の力で胸骨を圧迫され、咳き込んでしまったほどだ。


 診断結果は、過労だった。涼音が教えてくれた。

 自覚症状が全くなかったと言えば嘘になる。

 疲労が蓄積していることには気づいていた。

 体重は一ヵ月で七キロ減った。

 寝不足も相まって、体調の優れない日も多く、顔色は前にも増して悪くなっていた。

 しかし、事ここに至ってもなお、危機感は抱けなかった。

 以前、大学生の親戚が言っていたからだ。

 酒を飲み始めたばかりの頃は、アルコールの許容量が掴めず、酒席で失敗してしまうことも少なくない。しかし、失敗を繰り返すうちに、段々と許容量が分かってくる。

 要するに、今回の俺は【疲労】の許容量が分かっていなかっただけなのだ。

 今後は、潰れない範囲で、壊れない範囲で、無理をすればいい。それだけだ。

 だが、そんな思いは、涼音には受け入れられなかった。

 彼女は俺に言った。


 ――身体は大事にして。説得力あるでしょ? 


 よく口にする台詞を、いつもより何倍も怖い表情で、言い放った。

 大事にしてるさ。と俺はうそぶいた。すると彼女は吐き捨てた。


 ――嘘を吐く人は……嫌いよ。


 今から想えば、あえて取り立てるような台詞ではなかった。ごくごく普通な、真っ当な価値観だ。

 なのに、看過することに対して、尋常じゃないほどの抵抗感を覚えた。

 理由は分かっている。

 その台詞は、俺という人間そのものの全否定と言っても過言ではなかったからだ。

 それでも、ここで話が終わっていれば、愛想笑いでやり過ごしただろう。

 だが、次の発言で、たがが外れた。


 ――もっと自分を大事にして。


 自分。不思議なくらい、その言葉が引っかかった。

 自分って誰だ? 誰のことを指しているんだ? 俺は、誰を大事にすればいいんだ?

 ……俺が【本当の自分】を大事にしたら、お前は愛してくれないだろうが。

 お前が言う【本当の自分】は、本当の俺じゃねぇだろうが。

 疑念と不満と秘密と愛情が混ざり、好ましくない反応を見せた末に、ぜた。

 お前に何が分かる、とか、

 適当なこと言うな、とか、

 黙れ、とか言った。

 自分を心配してくれている人に。


「……あの時は、本当にごめん」

「大丈夫よ。そんなに何度も謝らないで」


 方々からの薄明かりに照らされた、にこやかな即答。俺を責める色合いは欠片もない。

 あんなことをしてしまった俺を、最悪の俺を、彼女は許してくれたのだ。

 涼音の面持ちが憂いを帯びる。


「私の方こそ、目が覚めたばかりの修君に、あんな言い方するべきじゃなかった。ごめんなさい」

「……涼音は悪くないよ」


 俺の言葉を、涼音は否定も肯定もしない。


「……あの時ね、本当に怖かった」


 反射で、彼女の方へ顔を向ける。涼音が湿った声で続ける。


「修君が、自分より先に死んじゃうかもしれないなんて、想像もしてなかったから」


 自分の方が先に死ぬことは自然の摂理。不変の真理。そう言われた気分だった。


「私より先に死なないでね。約束よ」

「……うん」


 返事、これで合ってるのかな。分かんねぇよ。

 俺の思考がつまずいたのと、涼音の足が止まったのは同時だった。


「りんご飴、食べない?」

「……あれ、未だに食べ方よく分かんないんだよな」

「教えてあげる」


 涼音が俺の手を引いて、屋台の方へ嬉しそうに歩を進める。俺はされるがまま。

 細い手首から、微かに脈を感じる。

 ……うん、正常だ。ひんみゃくもなし。

 このまま止まらなければいいのに。

 このまま時間が止まればいいのに。



 担当医いわく、俺に付き添っていた時、彼女は随分と取り乱していたそうだ。

 人よりも、死と近い場所で生きている彼女だからこそ、俺が死んでしまうのではないかと本気で恐怖したのだろう。

 多分あの時は、涼音も冷静ではなかった。

 だからこそ、俺が安心させてあげなければいけなかった。

 間違っても、感情的に本音をぶつけてはいけなかった。

 彼女は間違っていなかった。正しかった。

 ……間違えたのは、俺だ。俺だけだ。

 徹底して嘘を吐き続けてきたがゆえの失策。

 感情を抑圧するあまり、僅かな刺激が引き金となって、絶対に嘘を吐かなければいけないタイミングで、本音が漏れてしまった。

 【嘘】の許容量を超えてしまった。

 だから、俺はもっと、本音を言わなければいけない。もっと上手に嘘を言うために。

 ――それが、堪らなく怖い。

 いつもいつも、俺は本音を言わず、嘘を口にしてきた。

 息を吸うように本音を飲み下し、息をくように嘘をいてきた。

 そうしないと、生きていけない。嘘を吐かずに生きていく方法が、本当に分からない。

 皆は怖くないのか?

 本当の自分を見せることに、抵抗はないのか?

 ありのままの自分が、愛してもらえると、本気で思っているのか?

 理解できない。

 ……理解したい。

 そのために、出来ることから始める。

 本当の気持ちとは何か?

 本当に伝えたい思いとは何か?

 何が自分の本音なのか?

 辛うじて残っている『本当』を、取りこぼさないよう慎重に、丁寧に、拾い集めていく。

 そして、それらを、りんご飴をかじる彼女に伝えた。


「……俺はさ、本当の意味で、涼音さえ喜んでくれれば、それ以外はどうでもいいんだ」


 彼女が恥ずかしそうに少し顔を伏せて、またりんご飴を齧った。ぱき、ぱき、ぱきりと。


「つまり、涼音に否定されるってことは、俺にとって、世界から否定されてるようなもんなんだよ」


 がり、がり、がり、という涼音のしゃく音が、祭囃子や雑踏よりも大きく感じる。

 側頭部を人差し指で掻きながら尋ねた。


「……重い?」

「軽くはないわね」


 涼音は微笑で答える。そりゃ失敬。

 名張修一はメンヘラじゃないので、そろそろ話をまとめなければ。


「そういう理由で、この間は、感情的になっちまったんだ」


 涼音の反応は、拍子抜けするくらい穏やかだった。


「修君が怒った時、私、安心したのよ」

「安心?」

「初めて、完璧な修君の、人間らしさが見えた気がしたから」


 ……その人間らしさが、誰の持ち物なのか。俺には分からない。見当もつかない。


「だから、謝らないで。もっと怒って、もっと悲しんで、もっと笑ってほしい」


 涼音が優しく懇願する。


「もっと、話して。伝えて。……言って」


 その言葉に、強く心を揺さぶられた。心臓が軋んだ。

 感化された俺は、涼音にをぶつけようとして――止めた。

 涼音の背後から近づく、狐面の少女に、全ての意識を持っていかれたのだ。

 オフホワイトのインナーを着ており、下にはタイトなパンツを穿いている。垢抜けているのに、れていない。そんな不思議な印象。 

 間違いない。お面を付けていても分かる。加奈だ。

 神楽坂加奈が、前方から歩いてきた。しかも一人ではない。

 加奈の隣には、が、彼女と同じ狐面を付けて並んでいた。

 お面から垣間見える、俺と全く同じ色の瞳。全身があわった。

 そして、仮面の男女二組はすれ違う。加奈は俺の存在に気づかない。

 顔を隠している上、服装の系統も、匂いも、髪型も、前に会った時とは違うんだ。気付くはずがない。

 涼音を見て、既視感くらいは抱くかもしれないが、わざわざ声をかけてくることはない。断言できる。

 だって加奈は今、と一緒に、花火大会を満喫しているのだから。

 そんな些末なことで、自らデートを台無しにするわけがない。完璧だ。絶対、大丈夫。


 俺の目論見は当たった。加奈は振り返るどころか、立ち止まることすらなかった。 

 歩みを止めたのは、涼音の方だった。

 彼女は振り返り、加奈の隣を歩く男に、意味深な眼差しを向ける。

 俺は、声が震えそうになるのを懸命に抑えながら尋ねた。


「……どうした?」

「今の人、修君に似ていたような気がしたから」

「……気のせいだろ」

「……そう、よね」


 力なく返す涼音。納得したというよりは『これ以上は考えても仕方がない』と、諦めたかのような口ぶりだった。

 その証拠に、彼女はこんなことを言い出した。


「……この前、久しぶりに、修二君に会ったの」

「……そんなに会ってなかったっけ?」

「えぇ。四か月ぶりよ」


 ……違う。違うよ。

 

 今もずっと、君の隣にいるよ。



 ある日。名張修一は、ほぼ同じタイミングで、余命一年の女子二人から告白された。

 どうするべきだろうかと、彼は俺に尋ねた。

『余命一年の女子二人』の片方が涼音であることは、何となく察しがついた。彼女以外に、【修一に好意を寄せる、余命一年の女の子】なんて、俺は知らない。

 そして、もう一人について聞くと、修一は『神楽坂加奈』という名前を口にした。

 面識はなかったが、名前は知っていた。修一から『ボランティア部の活動で、病院を訪れた際、知り合った女の子」と聞いていた。

 ……修一の気持ちが、涼音ではなく、加奈に傾いていることは明らかだった。

 俺は思った。このままだと、涼音は選ばれない。

 文字通り、一世一代の告白が失敗し、最愛の人から拒まれる。

 その時、彼女がどうなってしまうのか。俺は悲惨な想像しか出来なかった。

 俺は提案した。


『二人とも幸せにしよう。俺に考えがある』


 俺が修一に扮して、涼音と交際する。

 お前は普通に、神楽坂と交際すればいい。

 

 提案をざっくりまとめると、そんな内容だった。

 

 その提案に、修一は強く反対した。涼音に申し訳ないから、だけではない。

 彼は、俺の気持ちを、涼音への好意をおもんぱかったのだ。

 本当に、つくづく、よく出来た兄である。

 俺は言った。

 思えば、この発言だけは、心からの本音だった。


『頼む。お前の名前で、涼音の隣に、いかせてくれ』


 こうして俺は、名張修一として、涼音の恋人になることを決めた。

 涼音の前だけじゃない。他者と話す時の俺は、常に名張修一の真似をしている。

 だって、いつどこで誰が見ているか分からないから。

 だから、常に名張修一を名乗り、名張修一として振る舞い、【名張修一ならばどうするか】という価値基準で行動選択する。有事に備え、名張修一の身分証だって携帯している。

 ……結局、俺は、修一の真似をしてばかりの人生だ。

 修一だけには、絶対なりたくないと、思っていたはずなのに。



 物心ついた時からずっと、兄の修一が羨ましくて仕方なかった。

 運動も勉強も自分より上手にこなす。明るくて友達も多い。教師や親からの信用も厚い。

 まさに彼は俺の上位互換であり、俺は彼の下位互換だった。


 しかも、当時の俺は愚かだった。

 修一に憧れて、ひたすら彼の足跡を追えばよかったのに、彼とは逆方向へと走り続けた。

 その結果、彼は学校の人気者。俺は孤独な日陰者とあいった。

『これほど正反対の双子も珍しい』と、周囲の大人はよく言ったものだ。


 当時の俺は思った。奴らの目は節穴だ。

 俺は、修一とは真逆の人間を演じていたのだ。

 修一にだけは、絶対なりたくなかったから。


 そんなある日。愚かで哀れな俺に転機が訪れる。

 それは席替えだった。

 俺は、隣の生徒と、どうしても馬が合わなかった。そのせいで問題が発生した。

 授業の一環で行われる【隣席の生徒との共同作業】が全く出来なくなってしまったのだ。

 このままでは、先生に不真面目と思われて、成績が下がってしまう。

 また修一との間に差が生まれてしまう。

 それを恐れた俺は、しぶしぶ隣席の生徒に歩み寄ることにした。その生徒がなついている、修一の言動をほうしてみたのだ。

 すると、それまでの不仲が嘘のように、関係は改善した。

 驚いた。たったこれだけで、こうも相手の態度は変わってしまうのかと。

 そして俺は変わった。

 徹底的に修一を模倣するようになったのだ。

 知的な物言い。

 丁寧な所作。

 時おり見せる無邪気さ。

 勝負事に燃える雄々しさ。

 皆と一緒にいる時のおおらかさ。

 人当たりの良さ。

 その全てを、俺は完璧に盗んだ。

 俺は瞬く間に、修一に迫るほどの人気者となった。


 ――しかし、その頃には、俺の心は乾ききっていた。学友たちの笑顔の中心で絶望した。

 あーあ、世の中なんて、こんなもんだ。

 本当の自分なんか、誰も愛してくれない。誰も好きになってくれない。

 好かれたければ、演じなければいけないのだ。

 愛されるためには、世界で一番なりたくない奴に、ならなきゃいけないんだ。

『ありのままの自分でいい』なんて大嘘だ。 

 たまたま、ありのままの自分を愛してもらえた人間が口にした、自己正当化のための、方便に過ぎない。

 その一言が、数多の嘘吐きを傷つけているのだ。苦しめているのだ。殺しているのだ。

 ふざけんな。俺の気持ちを無視するな。俺の目を見て言え。俺の全てを知ってから言え。

 あいつらの方が嘘吐きだ。みんな嘘吐きだ。

 ざけんな。

 そして俺は、世界に期待するのを止めた。


 思い出した。

 俺が嘘を吐くのは、世界がそれを望んだからだ。だから従った。

 本音を隠す理由は、世界がそれを拒んだからだ。だから従った。


 ――その果てが、このザマ。

 全てを捨てて、全てを隠して、本気で修一を演じた結果、涼音を悲しませてしまった。 

 世界で一番大事な人を、泣かせてしまった。

 どうすれば良かったんだろう。


 ……いや、本当は分かってる。何をしなければいけないのか。

 の本音を、打ち明けること。

 それが必要なんだ。

 そうしなければ、俺は前へ進めない。



 喧嘩した日の翌々日。祭りの五日前。

 地平線から顔を覗かせた朝陽が、街を淡く照らす午前八時頃。

 俺がやって来たのは、とある河川敷。

 涼音の家から歩いて五分程度の場所だった。

 敷かれたばかりのアスファルトの臭いと、草いきれの混じった匂いがこうを突いた。

 人気が少ない一方で、見晴らしは良好。時おり、視界の端を、散歩中の老人や野良猫が通り過ぎていく。そんな場所。


 待ち合わせ場所を涼音の自宅にはしなかった。こんな時間に、いきなり家に来られたら、怖がると思ったから。

 そういう意味では、服装にも、もう少し気を付けた方が良かったかも。

 その時、俺は頭にストレートキャップを乗せていた。身に着けていたのは、無駄にこだわりの強そうな古着屋で買った、やや主張の強い衣類ばかり。

 ……でも、あれでよかった。ああでなければ、俺じゃない。



 突然だった。背後から涼音の声がした。

 同時に思った。涼音は、俺の名前を呼んだのだ。

 ……好きな人に、名前で呼んでもらえるってのは、やっぱり嬉しかったなぁ。

 振り返った。

 涼音は、かつてと変わらない笑顔を俺に向けてくれた。

 それが嬉しくて、同時に少し寂しい。

 修一には、もっと素敵な笑顔を見せることを、知っているから。


「……久しぶりだな」


 こうして俺は、名張修二として、涼音の前に立った。

 いつもみたいに、双子の兄である、名張修一のフリはせずに。

 名張修二の気持ちを、萱川涼音に知ってほしい。

 それこそ、俺が最も恐れることであり、本心だった。心の底からの叫びだった。

 嘘を吐く時のように、声は簡単には出てくれなかった。


 それでも涼音は待ってくれた。

 彼女はきっと、俺の思いに気づいていた。ずっと、ずっと昔から。

 だから、前日の午後六時という、急なタイミングでの呼び出しにも、特に何も聞かずに応じてくれたのだろう。

 それでも、俺は電話口では何も言えなかったし、彼女もまた何も言わなかった。

 つまりはそれが答えなのだ。

 全て分かりきっていたことなのだ。

 なのに俺は、わざわざ無意味な事実を明らかにして、何かを決定的に終わらせた。

 意味が分からない。

 馬鹿馬鹿しい。

 くだらない。

 無駄だ。

 ……そんなのは百も承知だ。それでも。

 少しでいいから、言いたかった。

 伝えたかった。届けたかった。知ってほしかった。

 嘘まみれの、俺の、本当を。

 そして、思いを伝えた数秒後。涼音は微笑んだ。

 決して名張修一には向けない――同情をはらんだ微笑みだった。


「ありがとう。気持ちは、すごく嬉しい」と彼女は言った。


 嘘つけよ。と思ってしまった。やっぱ俺は最低だった。


「でも、ごめんなさい。私は、貴方のことを、好きになれない」


 そう呟いた彼女に、いっそ聞いてやろうかと思った。

 何が違うんだ? 何がダメなんだ? 何が足りなかったんだ?

 教えてくれよ。全部直すからさ。


 ……あ。そうか。

 全部直せる。だからダメなんだ。

 名張修一の完全模倣が出来る時点で、俺は名張修一じゃないんだ。

 俺自身として愛される瞬間は、永遠に訪れないのだ。


「……そうか、ありがとう。……、……じゃあ、それだけだからさ」


 涼音に背を向けて、俺は歩き出した。

 泣いてはいけない。名張修一と同じ容姿で、目立つ真似は駄目だ。自分に言い聞かせた。

 悲しみをかき消すため、怒りで胸中を埋め尽くそうとした。

 こんなものを、失恋を美しいと呼ぶ人間は、全員クソだ。大嫌いだ。死んじまえ。

 俺は、名張修二として受け入れてほしかったんだ。

 唯一無二の存在として愛してほしかったんだ。


 クソが、死ね。全員死ね!

 花火爆発しろ!

 事故起きろ! 中止になれ!


 自宅に辿り着き、周囲の目というしがらみから解放された時、思った。 

 花火大会、行くの止めようかな。

 バックレちまおうかな。

 そうすれば、名張修一は、大事な約束をすっぽかしたクソ野郎ということになる。

 最高だ。ざまぁみろ。これが俺の復讐だ。


 ……きっと、本来の俺であれば、そうするのだろう。

 名張修二は最低の人間だから。

 だが、名張修一はそんなことしない。

 何があろうと、大好きな女の子を、わざと悲しませるような真似はしない。


 深呼吸してから、洗面台へ移動する。

 ワックスを手に取り、髪に馴染ませて整える。

 タンスから、衣類と香水を取り出す。

 以前、涼音とのデートで購入した品々だ。


 ……今日は、この格好で行くべきだよな。

 香水を首元に付けて、服を着替える。

 花火大会当日、これを着ていけば、加奈に見つかる可能性は限りなくゼロに近い。

 修一は、指示通り、ちゃんとお面を被ってくれるはずだ。加奈も、修一の提案なら受け入れてお面を被る。

 そして、俺と涼音もお面を被れば、修一と加奈に鉢合わせしても正体はバレない。

 最後に、さっきまで着ていたダサい私服を、名張修二の抜け殻を、ゴミ箱へぶち込んだ。


 名張修一、完成。

 俺は再び家を出る。

 息せき切って、勢いよく駆け出す。

 どこへ行くのか。勿論、涼音の所だ。

 ちゃんと謝って、仲直りして、一緒に笑うんだ。いっぱい笑うんだ。

 嘘みたいに笑うんだ。本当みたいに笑うんだ。

 ……待っててくれ。

 君の大好きな人が、名張修一が、これから君の元へ行くから。



 そして、現在。

 あらゆる感情を飲み込んだ俺は現在、名張修一として、涼音の隣に立っている。

 正直、怖かった。

 あんなことがあった後で、今まで通りに恋人を演じていけるのか、デートできるのか、修一になれるのか、心配だった。


 しかし、どういう形であれ、やっぱり、恋人として涼音の隣を歩くのは幸せだった。

 フラれた直後は、あれだけ感傷的な気分だったのに。我ながらおめでたい人間だよ。

 涼音が、俯き加減で訊いてくる。


「……彼、最近どう?」


【彼】が指しているのは名張修二。確認するまでもない。


「……元気だよ。普通に」

「……良かった」


 何故か、心の底から安心した様子の涼音。

 その表情の真意を、ネガティブな方向に深読みしてしまう。そんな自分に対して、自己嫌悪が湧いた。

 何でもいい。早く話題を変えたい。焦りが裏目に出た。


「……俺に告白した時、怖かったか?」


 自分が発した問いに、自分で驚いてしまった。何で急に、こんなこと聞いたんだ。

 吐いた言葉を取り消すことはできない。おそるおそる、涼音の方へ目を向ける。

 彼女は呆れたような笑みを浮かべていた。


「当たり前でしょう。怖くて怖くて仕方なかったわ。死ぬかと思った」

「……そっか。当たり前か」


 怖いのは当たり前。

 誰しも、本当の自分を否定されたくないから。

 逆説的に、否定されたくないのは、本心だから。

 本物だから。

 つまり、恐怖の中に真実がある。本音がある。

 今回、俺はそれを学んだ。

 ともすれば爆発しかねないを、俺は優しく掴み取り、涼音に渡す。


「――治療、本当にしなくていいのか?」


 よほど意外な問いだったようで、涼音は素早くこちらに顔を向けた。お面越しにも、ろうばいは明白。瞳が所在なげに彷徨さまよう。


 ……やっぱ、言わない方が良かったかな。

 涼音の傷をえぐってしまったんじゃないかな。

 せっかく固めた決意を揺らがせて、苦しませることになるんじゃないかな。

 でも、これだけ怖いってことは、俺が心から聞きたかったことなんだろうな。


 屋台の並ぶ通りを外れて、人気のないみちまで移動した。その間、会話は無かった。

 観念したように、涼音はお面を外す。俺もならう。

 彼女はかすれ声で語り出した。


「……自分の病気のことを、勉強したの」


 その声は、今この瞬間にも消え入りそうなほど弱々しい。


「実際は、映画やドラマで語られるようなことは、ほとんど起きないの。現実は、もっと酷いし、救いがない。闘病って、文字通り闘いなの。辛くて苦しいの」


 彼女がこちらを見る。群青の瞳が潤んでいる。


「私は、貴方に、醜く衰えていく姿を見せたくない。嫌われたくない。病気の苦しみをぶつけたくない。八つ当たりしたくない。記憶の中にいる私は、素晴らしい存在であってほしい。だから、……っ」

「……っ」


 そうか。俺のせいだったのか。

 名張修一が隣にいるから、彼女は死ぬ覚悟を決めてしまったのだ。

 なのに俺は、彼女を救った気でいた。

 最っっっっっっっ低だ。

 償わなければ。

 どうやって? 決まっている。

 嘘を吐くのだ。

 口が裂けたって、俺には言えない台詞を。

 俺がずっと言ってほしかった台詞を。

 臆面もなく言い放つのだ。

 今なら、名張修一なら言えるから。

 俺は、今にも泣き出しそうな涼音の両肩を、優しく、しかし強く掴む。

 そして話した。伝えた。言った。



「これから先、何があろうと、お前がどんな姿になろうと、俺はお前を愛し続ける。絶対、そばにい続ける。約束する。誓う。絶対、絶対だ」



 届け、届け、届け、届け、

 ……届け。俺の本当。

 

 もし仮に、涼音の病気が完治したら、どうするのか。

 そんなのは、その時に考えればいいことだ。

 だから、今は、これでいい。 


 刹那、花火が天に爆ぜて散った。

 毒々しいくらい鮮やかな紅花だった。

 ……あれが噂の、恋愛成就の花火か。意中の人と一緒に観てやったぜ。

 残念ながら、俺の恋路は儚く散ったけど。涼音の恋路は偽物の出まかせだけど。

 都市伝説なんか二度と信じねぇ。ばーかばーか。

 荒む俺の名前を、涼音が呼んだ。


「……名張修一君」

「……」

 

 フルネームは勘弁してくれ。

 改めて、自分が偽物であることを痛感して死にたくなるから。

 涼音がこちらを見る。


「――私が、どんな風になっても、ずっと一緒にいてください」

「……あぁ、一緒にいるよ」


 夜空に咲く花火に彩られた涼音。

 その瞳は、俺を見ていて、俺を見ていない。

 サン・テグジュペリは嘘つきだ。

 大切なものは目に見える。目の前にありありと在る。

 しかし触れない。掴めない。抱き締められない。

 何が足りない。なぜ報われない。どうして愛されない。

 俺が欲しいのは、涼音だけなのに。

 彼女さえいれば、他には何も要らないのに。

 ……いや、正確に言えば、彼女の隣にいたいという望みは叶った。

 ただし、名張修二としてではなく。

 双子の兄の代替品として。

『涼音のため』を突き詰めたら、俺という存在が消えた。

 名張修二は必要なかった。

 ……それでも構わない。

 たとえ、時間が巻き戻って、同じ選択を突き付けられたとしても、俺はこの地獄を選ぶ。

 何度でも嘘を吐く。

 同じ過ちを繰り返す。

 正しく間違いを犯す。

 君が幸せになるまで、嘘を吐き続ける。

 

 百回でも、千回でも、一万回でも、

 一億回でも、一兆回でも、一京回でも、

 一がい回でも、一𥝱じょ回でも、一じょう回でも、

 一こう回でも、一かん回でも、一せい回でも、

 一さい回でも、一ごく回でも、一ごうしゃ回でも、

 一そう回でも、一回でも、

 十那由多回でも、百那由多回でも。


 二百那由多回でも。


 ……それだけ積み重ねても。 


 きっと。 


 二百那由多の手を尽くしても、君の心は触れない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二〇〇那由多の手を尽くしても、君の心に触れない。 【第2回 MF文庫J evo】 森林梢/MF文庫J編集部 @mfbunkoj

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ