夏がきたなら ~あの人はきっと帰ってくる~

木立 花音@書籍発売中

第1話

 自宅に戻るまでの道のりに、広大な田園地帯がある。

 田んぼの真ん中に砂利道がまっすぐ伸びていて、その脇に用水路があるのだ。

 五月に暦が変わったばかりの今日。長閑のどかな景観の中を五歳の娘と一緒に歩いていると、用水路の中におたまじゃくしがいるのに気がついた。

「おたまじゃくし!」と喚声をあげ、娘のヤエが用水路の前にしゃがみ込んだ。小さな背中の後ろから見ると、無数のおたまじゃくしが気持ちよさそうに泳いでいた。


「アマガエルかのう」

「あまがえる?」

「おたまじゃくしが成長するとね、緑色の小さなカエルさんになるんよ。それがアマガエル」

「しってるよ。パパが教えてくれたの」

「そうかい」


 ヤエの頭を優しく撫でで、手を繋いで家まで帰った。

 歩き疲れたとヤエが途中でゴネたので、おんぶしてあげたらそのまま寝てしもうた。

 そのまた次の日も、ヤエは用水路の中を覗き込んでおたまじゃくしを見た。そのまた次の日も。そのまた、次も。


 私は、家から徒歩三十分の場所にある町で、日用雑貨を売っている店の手伝いをしている。家は夫の母と私とヤエの三人暮らしで、私の給料だけでは正直家計が苦しい。近所に住んでいる若い娘や母親たちの何人かが、今年の春先から町にある製糸工場に勤め始めた。なんでも給料がいいらしい。いつか私も、そこに行くことになるのかもしれない。

 それでも、貧しくても今の暮らしがいいと思う。

 平穏無事な、今の暮らしが。


 私の仕事が終わるのは十七時だ。

 斜陽が差し始めた農道を、義母に手を引かれてヤエが歩いてくる。

 仕事終わりの私を「おかえりなさい」と娘が出迎えて、今日も二人で用水路の中を覗いてから帰る。

 おたまじゃくしはまた少しだけ大きくなって、小さな足が出始めていた。


 それから二週間ほどが過ぎて、五月の半ばとなった。梅雨の季節を迎え、天候がぐずつく日が多くなり、雨脚が強くなる日もあった。私を迎えに出られない日は家の中でヤエがたいそうゴネて、義母を困らせたらしい。

「この強い雨の中出歩いたら危ないからね」と諭しても、なかなか首を縦に振らんかったそうだ。

 ようやく天気が落ち着いた六月の始め。私を迎えに来たヤエは、用水路の中を覗いて絶句した。


「おたまじゃくし、いない」


 もうカエルになってしもうたのか。このところの豪雨により水かさが増したことで流されてしもうたのかは定かじゃないが、おたまじゃくしは一匹もいなくなっていた。


「もしかしたら、雨で流されてしもうたのかもしれないのう」

「ヤだ! そんなのヤだ!」


 たとえ流されたとしても、きっと大丈夫だから。何度そう宥めても、ヤエは決して納得しようとしなかった。大きな声で泣き喚き続けた。

 別の場所にいるかもしれないよ、と泣きじゃくっているヤエの手を引いて用水路の中をくまなく見てまわっていると、「あのね」とヤエがぽつりともらした。


「夏になったらね。縁日につれていってくれるとパパが言ったの」

「縁日?」


 それとおたまじゃくしに、なんの関係があるんだろう。


「じゃあ、夏って、いつになったらやってくるの? とパパにきいたら、おたまじゃくしがカエルさんになったらだよ、って教えてくれたの」


 おたまじゃくしがカエルになった頃、夏が始まるんだと、あの人がヤエにそう説明したらしい。


「ああ、そうなんだね」


 ヤエがおたまじゃくしにこだわる理由が、ようやくわかった気がした。


 ――でも、あの人はもういない。


 昭和十六年十二月八日。日本海軍は、オアフ島真珠湾にあるアメリカ軍の基地と太平洋艦隊を奇襲攻撃し、アメリカに対して宣戦を布告。太平洋戦争に突入していた。若い男たちはみな兵士として戦場に駆り出されて行き、それは、私の夫とて例外ではなかった。

 夫が兵役に就いたのは今年の一月。人でごった返している駅のホームで、「じゃあ、行ってくるな」「国のために、頑張ってきてね。気をつけて」と言葉を交わし合い別れた夫が、何をしにどこに向かったのかを幼い娘は知らない。

 そうか。出かける前に、あるいは、戦争が始まる前に、こんな約束をしていたのかと思うと切なくなる。


「夏になったら、パパ帰ってくる?」

「うーん……」


 今年の夏は、この約束が叶うことはないのだろうな。


「たぶんね。パパが帰ってきたら、ばあばと四人で縁日に行こうね」と笑うと、「うん」と笑顔の花がヤエの顔に咲いた。


 来年か、それとも再来年になるのかわからないけれど、いつかこの約束が叶う日がくればいいなと思う。

 夏が来たなら。

 早くこの戦争が終わるといいな、と。


 あの人が戦っているであろう遠い南の空を見上げた。

 青く澄んだ空の下、一匹のカエルが私たちを見守っていた。


 今年も、広島の夏は暑くなりそうだ。

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