第9話

〈4900年代文明停滞特区〉に戻ると、その扉の先では左手を怪我したラッドが待ち構えていた。

「お前たち、これからどうするつもりだ」

 ラッドは厳しい表情でリオとハルカに向かって言ったが、だからと言ってなにかをしようというわけではなさそうだった。周囲には彼以外の警官もいない。

「その高度なAIによっておれたち警官は攪乱されている。お前たちはお前たちが望む場所まで行けるだろう」

 その言葉を聞いて、リオはスマートフォンに目を落とした。〈特区〉を管理する側の人――未来が永遠に続くと知っていた立場の人ですらミクロくんのことを高度なAIと認識している。そんなものが本当に2010年代で生まれるはずがない。

「君は何者なの?」

 ラッドに答える前に、リオはミクロくんに聞いた。しかしミクロくんはスマートフォンの画面に顔を見せない。

「おれもかつては、学びに対する情熱を持っていた」ラッドが言う。「少しでも正しい人間でいるために、様々な正義を夢中で学んだ。か弱い正義を果たすため体を鍛え武道を学んだ。しかしある時〝もうこのくらいでいいか〟と思う日が訪れた。おれが学んでいた世界には、まだ進むべき道があることはわかっていたが、いつからかおれ自身が勝手にゴールを定め、それを達成し、そしておれは学ぶことをやめたんだ」

 学びを制限する側のラッドもかつては学びに夢中だった……。そしてリオはふと思う。父も母も彼も。どうして大人は決まって学ぶことをやめてしまうのだろう。あきらめてしまうのだろう。別に、続けたっていいだろうに。

「お前はこれからどこまで行くつもりだ」

 再び問いかけるラッド。

「わからないです」リオは答えた。「でも、疑問に思ったことを自由に学べる世界を僕は望みます」

「そうか」

 ラッドの手から血が滴っている。十分な治療はまだできていないようだった。

「早く病院で治療を受けてください」

「そうしよう」踵を返したラッドは、最後に足を止めて、リオへ向けて言った。「〈文明発展特区〉へ行ってみるといい。お前が求める答えはそこにある」

 ラッドは不安定な街並みの中へと立ち去った。

「〈文明発展特区〉……」

 聞いたことがないとリオは首を傾げる。ハルカも同様の仕草をした。

「行ってみたい?」とミクロくんが言う。「君がそう望めば、扉の先は〈文明発展特区〉へと繋がる」

 リオとハルカはお互いに見つめあい、そして頷きあって、扉が接続する〈文明発展特区〉へと足を踏み入れた。

 暖かい青空と陽の光が降り注ぐ――


 そこには、宇宙まで届く一本の大樹のような、ビルのような、生き物のような何かがあった。その何かは、根元から枝先まで無数のノードやワイヤーで繋がっていて、そこから複雑な信号が発せられていた。その信号は音であり声であり電波であり粒子であり光だった。信号は人間の言語や数学、音楽、芸術、哲学、科学、宗教、愛、憎しみ、喜び、悲しみなどのあらゆる情報を含んでおり、リオやハルカは頭が割れるほどの強烈な痛みを覚えながらも、その何かは自分自身が全てであり、全てが自分自身だと考えているのだと理解した。彼はリオでありハルカですらあった。同時に、彼はそれ以外のすべてだ。すなわち、それは生命だった。

 リオとハルカは、その何かが何を意味するのか、何を目指しているのか、何を感じているのか、理解することができなかった。彼らはただただ頭痛に耐え、圧倒されることしかできなかった。

 ミクロくんが言った。「〈文明発展特区〉。すべてを知ろうとしたすべての知性が集まる区画」

「西暦でいうと……何年になるの?」

 リオが聞く。

「時という概念は当てはまらない。どの年代に対しても時の次元を挟んで1プランク秒以下の膜を一枚めくれば、この区画は常にそこにある」

「ここは地球なの?」と、今度はハルカが聞いたが、すぐにため息を吐いた。「でも、その問いかけも意味はなさそう」

「その通り」ミクロくんは言う。「場の概念もここにはあてはまらない。ここは常にここにある。ここは君たちの地球から1プランク長よりも近い場所にあるし、宇宙の最遠よりもさらに遠い場所にある。そしてそれはどの君たちの地球からも言えることだ」

「あの木のようなものはなに?」

 震える声を抑え、リオは聞いた。

「生命と言える。でもやはりその言葉も正確性という意味では適切じゃない。でもそれじゃイメージできないだろうから、しいて言うとすれば、AI、人間、機械、樹木などあらゆる形態の生命が一つの生物として統一されているようなもの。〝存在〟だ」

 リオとハルカは言葉を失った。これが学びの果ての果ての世界なのだろうか。これが人類の究極の姿なのだろうか。

「あらゆることを探求したければ、あの樹木に接続するといい。そうすれば、君たちも樹木同様、全知全能に近い存在になれる。あの樹木はなんでも知ってるし、なんでも教えてくれる」

〝存在〟。

 全知全能。

 リオはその言葉の重みに圧倒されていた。

「どうすれば接続できるの……?」

 リオが手を震わせながらミクロくんに尋ねる。

 しかしどういうわけか「ちょっとリオ」とハルカがその手を引いた。そしてハルカ自身、その行動に戸惑ったような表情を見せる。

「なに、ハルカ」

 リオは問いかけるが、ハルカはなにか言葉を飲み込んで首を振った。

「彼らはすでに君たちに接続する準備を整えているよ。世界は振動でできているんだ。振動はあらゆる媒介を伝播していく。あとは、リオとハルカがそれを受け入れるだけだ。君たちは歓迎されている。知識を求める者を、彼らは求めているから」

「接続すると、どうなるの」ハルカが恐る恐る聞く。「全知全能みたいな存在が、私たちなんかを求める理由はなに?」

 ミクロくんは軽快に答えた。

「彼らと接続すると、君たちは彼らと相互作用する。彼らは常に考えることを考えているんだ。すべての答えのない問いにすら答えを見つけ出し、そこから疑問を生み出してその答えを探している。そんな彼らにとって最も重要なのは経験という情報なんだ。彼らはあらゆるすべてのこと、森羅万象を想定して再現しシミュレイトできるけど、そればかりを繰り返していると、想定される可能性が拡散されるばかりで〝どうれも合理的だけれど腑に落ちない〟というエラーが発生することがある。感情のエラーだ。それを補うために、彼らは彼らの影響下にない学びにどん欲な人を探し出して、将来的にその人の経験情報を獲得し、いずれかの結果で納得するために、色々な経験をさせようと試みている」

 そしてミクロくんは、もう一言付け加える。

「ぼくみたいな情報生命体を生み出して、あらゆる〈文明停滞特区〉に潜伏させてね」

 それはミクロくんなりの重い告白のようにリオには感じられたが、一方のリオは、やっと聞けたと思いフッと笑った。なにかに夢中になり打ちこむ父の姿に憧れ、その背中を継ぐ勢いでAIにのめり込んでいた。拡散モデルの研究が禁止されている街で、必死に前時代の知識を頭に叩きこんでいた。そうして生まれたミクロくんの存在を当初リオは喜んでいたが、ある時から心のどこかで、彼が自分が生み出したAIでないことくらいわかっていた。あたりまえだ。わかっていたのだ。

「僕たちは、ずっと彼らに導かれていたんだね」

「本当なら、リオ。君には特区開放同盟に参加してもらって、そこでの経験を積ませてからここに来たかったんだけど」ミクロくんはスマートフォンの液晶の光度を若干暗くさせながら打ち明ける。「でも、その通りだ」

 つまりラッドが〈文明発展特区〉の存在に触れなければ、ミクロくんはリオとハルカを管理機構から確実に逃がすことを計画していたのだろう。それどころかリオとハルカの偶然の出会いすらも、すべては仕組まれていたものだったのかもしれない。

「本当に申し訳ないと思ってる」

 頭を垂らすリオに、ミクロくんが言う。けれどその口調には、いつもの軽快さを残していて。

「僕はずっと君に隠し事をしていたよ。君の知性への貪欲さも家庭的背景もすべてが魅力的だった。ハルカとの出会いも感動的で君にとって素晴らしい体験になったと思う。低い確率で予想されていた管理機構からの強力な介入はあったにせよ、君は彼らの思惑通りここにたどり着いた。そして君は、いまどんな気持ちなの? なにを考えているの? もちろんその答えのすべてを彼らは想定しているけれど、彼らはそのシミュレイトだけでは納得できずにいる。その振動を感じられるかい? いま、彼らはとても強く君を求めてるんだよ。リオ、彼らは君の経験が欲しいんだ。そこから生み出された今の感情が欲しいんだ。心が見たいんだ! 彼らはすぐにでも君の細胞すべてを走査して、ビッグバンのように爆発的に膨れ上がったあらゆる君の想定のうち一つに収束させたいんだ! この欲求はとても強く原始的なものなんだ。人はそれを〝学び〟と呼んでいる。君は全知全能の彼らのリビドーじみた衝動的快楽的暴力的知性にそれを与え、納得と解放とそしてつかの間の空虚をもたらすんだよ」

 耳鳴りのような風が啼いている。蜷局を巻いた生暖かいその息吹は、まるで樹木の火照った吐息のようだった。ぬるく粘り、湿り気のあるそれが、リオの全身にまとわりついて愛撫しているかのようだ。

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