御伽花死 3

 もう、すぐそこまで来ている。

 駆けた。複雑に入り組んだ廊下を鳴らして。

 私の恋心が死にたくないと騒ぎ立てた。

 宵藤太夫と私なんかが対面すればどうなるか。無数に咲いた花人の花は気持ちの発露であると同時に、粘土のように柔らかく変わりやすい心を守るお守りだ。ほかのことが入り込む余地がないくらい、たくさんの恋に夢中になれたら誘惑なんかされない。心変わりなんかしないと、自分に言い聞かせる、恋たちが責め立てる、ある種の脅迫状態に追い込むための見せしめだ。

 私はどうだ。たった一輪、頭から咲いているだけ。桂花への気持ちが弱いだなんて思わない。けれども、私の恋は純粋な一色で塗り潰されていない。強固な一枚岩の感情で組み上げられていない。

 怖かった。もし、魅力的なひとに出会って、私の恋が簡単に崩れてしまったら。

 桂花を一番に思う気持ちが萎えてしまったら。優先順位が入れ替わってしまったら。それはこれまでの私自身を裏切って、否定してしまうことではないのか。私の恋の安っぽさを証明してしまうのではないか。気持ちを失うことよりも、私が私でなくなることの方が怖かった。

 恋の終わるところ。

 それはきっと、私が絶えた最後だ。

 風南の先導に従って、廊下を満たす香りから逃げる。でも、走れば走るほど、肺のなかに侵入してくる上品な甘さは、その落ち着いた薫香と裏腹に身体から抵抗する力を奪い去って行く。

 長い直線の廊下に差し掛かる。踏み出した膝がすっぽ抜け、身体は床に投げ出される。立ち上がろうと腕を立てるが、筋肉が痙攣していうことを利かない。神経が痺れて、まるで力が入らない。

「月華っ、ああもう、あなたに耐性がないことを忘れてたっ」

 風南が私を担いで歩こうとするけれど、体躯の小さな彼女に力の入らない私は重荷が過ぎる。彼女も上位花人といえど、藤の香にいつまでも耐えれるわけではない。私を背に抱えた時点ですでに膝が震えていた。

「お、重い……もぅ、月華おっきいのよ!」

 ずるずると引き摺られるが、遅々として前進していない。とうとう、段差に爪先をひっかけてふたりして転んでしまう。私は脳内に霞がかってきて、痛みをうまく感じることもできていない。風南も私に圧し潰されて、身体の下敷きにされてもがいている。

「ちょっと、動かないぃ」

「そんなに急いで帰ったら、寂しいよ」

 少女らしい、ツンと芯の残った甘酸っぱい声が呼び止める。如何にも切なげな、ごろごろと転がる語尾に色気が灯る。声の主は姿が見えない。でも、耳元で囁かれたように鼓膜を揺らし、背筋を駆け抜けて痺れさせた。

 風南が息を呑む。

「藤姫の御成ぁりぃ」

 鈴の音来たりて。

 私たちの逃げてきた廊下に、どこからともなく覆面をした花人らが現れる。彼女らは次々と廊下の両脇に並んでいき、床に手を突いて平伏する。この光景は人間社会の疑似再現だとわかる。『植物園』内に残る記録、あるいは『花園』で太夫が知り得た外の情報から、人間文化の真似をする。仰々しい取り回しは、彼女の愛を表現する為に行われる。

 本質的に全員が姉妹で、対等な私たち花人。色恋に階級はなく、感情に貴賤はない。そんな私たちが、人間に倣って上下関係を演出する。それは自らの愛の大きさを表すため。尊敬と畏怖と、逆らい切れない甘美な誘惑へ屈してしまった自分への諦め。私たちは権力や暴力には膝を折らない。ただ愛にだけ。愛への奉仕のためだけに地に伏せる。

 太夫は証だ。もっとも愛し、愛された子である証明。

 宵藤太夫。かの少女はこの小さな世界における、絶対的な愛の象徴だ。

 彼女の恋人たちの平伏それは、もはや信仰と呼んで相違ないものだった。

「はじめまして。ううん、お久しぶりかな? こんばんは、白百合の子」

 宵藤太夫が廊下の端から耳元で囁いた。

 全身の肌が泡立ち、耳鳴りが警告する。すぐさま直視しないように顔を背けた。人間には天子という存在がいて、凡夫がその顔をみると目が焼けるのだという。それと少し似ている、と危機感なく思い出していた。私たちの場合、焼かれるのは目ではなく脳。恋焦がれた果てに、まともに思考できなくなる。あの、花に変わってしまった子のように。甘い呻きを漏らすだけの生け花になる。

 ああ、そうか。平伏の仕草にもちゃんとした機能的な理由があるのだと気が付く。彼女なんかを直視してしまった日にはまともではいられなくなる。愛に恋に狂ってしまう。

「お、お帰りなさい、藤姫。今夜はずいぶんお早いお戻りで」

 声を出すべきか逡巡していると、風南が裏返った声で彼女を迎える。痺れた体でもなんとか体裁だけは整えようともがく彼女。あの香を焚きしめた覆面は、宵藤太夫の香りから身を守るためのものでもあったのだ。まだ二十歩と離れているけれど、彼女にとっては至近距離にも等しい。

「もぅ、風南ったらいたずらっ子だね。私がいない間にさ。ずるいんじゃない? 私だって会いたくても我慢してたのに……まだ旧友と再会するには早すぎるってさ」

「ごめんなさい、わ、私は藤姫の計画のために、よかれと思ってっ……」

 横目で覗き見た風南の額には汗が玉になって浮かぶ。普段の快活さを剥ぎ取られた彼女など見たことがなかった。彼女は必死に訴えていた。嫌われたくない、と。

「あーあ、実験もいつも通り失敗だしで落ち込んじゃうな」

「ごめんないさい、ごめんなさい、ごめんなさい。お、怒らないで、お願いッ、お願いだから。私をお飾りの生け花になんてしないでッ! わ、私に飲ませようとしないでッ」

「どうして? みんな、喜んで私に篭絡されたがるのに。私で頭いっぱいにして、ほかのことなんて少しも考えられない。いつか死ぬまで永遠に愛に満たされて。藤香もその方が幸せだって言ってくれるのに……どうして風南は嫌がるの?」

 小さな足音が、鳴き声をあげる廊下を踏みしめて近づいてくる。

「ま、まだ役に立てるからっ、藤姫のために働いてみせるからっ」

「風南ぐらいの魅力で? 健気で可愛らしいんだね。頑張りますのやる気いっぱいで、また私を困らせちゃうんだ」

「そんな、そんなことっ」

 私は息を詰めた。身体が動くことを許されない。

 薄く開いた視界の端に、小さな足の指が映った。爪が生える代わりに、紫の藤が咲き乱れる。上品な靴のように足を包んで彩る。見つめすぎると落ちていきそうな奥の深い紫紺から、なんとか視線を離すために厳しく瞼を閉じた。

「なんて、冗談だよ」

 宵藤太夫は硝子玉を転がしたように透き通って笑う。口付けを落した物音がして、風南が吐息混じりに崩れ落ちた。

 私は感覚を閉じて嵐が立ち去ってくれるのを願った。

「そんなに怖がらないで」

 どう足掻いても肌の触覚だけは閉じることができない。むき出しの肩と二の腕にさらりとしなだれかかる髪。体温と呼吸がすり寄り、鼓動が背中越しに共振しようとする。彼女が私を捕まえて離さない。

「大丈夫、あなたの気持ちを塗り潰したりしないから。心に隙間がなければ……そう、あなたの頭が桂花のことでいっぱいなら、誘惑される心配なんてないよ」

 私を圧し潰そうとしていた香りの圧力が消えた。囁きに神経を撫でられ、くすぐったさに思わず眼を開いてしまう。

「やっと私のこと、みてくれたね」

 へたり込んだ私の頭上に、宵藤太夫の貌があった。彼女の紫の花が咲き乱れる髪が、藤棚のように私の顔の周囲に垂れ下がって外界から隔離する。不可思議なことに、彼女の香りを吸い込んでも身体に異変が起こらない。

「興奮と沈静の香気、そのふたつを拮抗させているんだ。しばらくの間なら、花の香を嗅いでも平気だよ。それでも隙のある子なら、簡単に惚れちゃうんだけど。心はちゃんと強く持っていてね」

 彼女のカーテンで仕切られた、ふたりきりの小部屋に閉じ込められる。

「私なんかを捕まえて、なんのつもりなの?」

 互いの呼気を交換する距離。私の口から出た言葉が彼女の肺に吸い込まれていく様まで、つぶさに見て取れた。初めてみた彼女はお高く留まった貴族的な印象はなく、ツンと尖った鼻先に繊細な少女の像が宿っていた。切れ長の瞳が細められて、私の頬を視線で撫でた。

「今だけは誰にも邪魔されないから。少しだけお話しよ。ふたりっきりで、秘密のお話」

 不健康な白い人差し指が唇に添えられる。

「ここでのことは、桂花にも樹沙にも秘密だよ」

 その仕草にも、私の心臓は大きく跳ねた。

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