第11話

 トラウマを夢に見るというのは、どういう心理状態を示すのだろうか。

 ハッと我に返るように瞼を開き、数秒。身じろぎもせず、ぼんやりと思考した。

 目覚めた直後の夢を見た。最低最悪の寝覚めだったが、同時に最も「生」を実感した目覚めでもあった。

 聞き慣れた声が俺の耳に届くところから、その夢は始まる。


「──う、響……!」

 名前を呼ぶのは家族の声だ。夢のくせに再現度がやけに高く、実際にその場にいた母と姉の声が、徐々に明瞭になっていく。声の輪郭がはっきりしてきたところで、俺の視界は暗闇から映像に切り替わる。一番胸クソ悪い部分だと知っているから、現実の俺は目を閉じているにも関わらず、魂とも言える意識が目を背けようと瞼を薄く引き絞っていた。

 だが、これは夢だ。俺の意思とは関係なく一方的に見せつけられる、記憶。

 だから、俺の努力なんて意にも介さず、結末へと向かって容赦なく進む。

 夢の中の俺は目を開ける。呼び声に応えるように、ゆっくりと目を覚ます。

 用意されていた映像は、無論俺のことを呼び続けていた母と姉の姿だ。背景は実家の天井。丸い照明が少し眩しく、しかし目は離せなくなる。細めることすらも許されない。

 仰向けになっている俺の両脇に、母と姉がいる。姉は必死さと悲しさと不安を詰め込んだような表情で、そして母は今にも泣き出しそうな涙目に安堵の色をたたえて、同じように俺の顔を覗き込んでいた。

 ──二度と目を覚まさないかと思った。

 母の口から零れた言葉が、いやに胸に突き刺さった。


 ……そして、現実。

 目に映る景色は、あの時とは別物だ。電気の点いていない小さな部屋で、周りには誰もいない。

「…………」

 安堵する一方で、心が冷たく閉じていく感覚が、指先を凍らせる。

「……」

 緩慢に息を吸った。呼吸は荒くない。ただ、急いで身を起こせば動悸が起こりそうだった。

 凍える指先の感覚だけを頼りに、枕元の携帯を掴む。電源を入れて表示される時刻は、普段ならぐっすり寝ている時間だった。

 ため息じみた空気の塊を吐き出し、慎重に起き上がる。一口だけ水を飲んで口の渇きを誤魔化すとすぐ、手持ち無沙汰になった。今すぐに横になれる気はしなかった。

 外の空気でも吸おう──そう思い立って、閉め切られたカーテンを暖簾のように手で退けてくぐろうとした。

 その瞬間。

「────、」

 ガラス越しに見えた光景に、掠れた吐息が逆流した。

 曇った空からかすかに注がれる陽光と、温度を感じない微風。

 それを受けて静謐に輝くシルクの髪と、どこか遠くを見つめる紅玉の瞳。霞のようにその輪郭をぼやけさせる、薄く広がった紫煙。

 わけもなく涙が出そうになった。琴線に鋭い爪が引っかかっていた。

「──響君、」

 つと滑った赤い視線が俺を捉えると、わずかに動いた唇がそうなぞった気がした。

 俺の腕が窓枠に手をかけるや否や、カルドは目に少しの驚きを落として、煙草を灰皿に押しつける。銀色の懐中時計のようなそれを懐にしまうのと、俺が窓を開ききってふと我に返るのはほぼ同時だった。

「──あ、悪い。邪魔だったか?」

 わずかに声が裏返ったことに動揺を滲ませる俺を見て、カルドは柔らかく微笑んだ。

「いや、いいよ。大丈夫。煙草なんていつでも吸えるし替えもきくけど、響君との時間は存外多くないしね」

「お前それ……どこまで本気で言ってんの?」

「ん? 全部本気だけど」

 半分取り繕い、半分呆れを示しながらつっかけに爪先を滑り込ませる俺を、カルドは穏やかな声音でもって迎え入れる。どうやらいつもより機嫌がいいらしかった。

「だって、僕はキミの何十とか何百も倍の時間を生きているしこれからも生き続けるけど、響君はそうじゃないでしょ? キミはいずれ僕の見た目年齢を追い越しちゃうし、僕よりも先に死んじゃう。たとえキミが僕に死を与えてくれる存在だったとしても、僕は必ずキミの死を見届けなきゃいけない。僕が後を追いかけるか置いていかれるかの違いだけさ」

「事実かもしれないけどロクでもねぇな……」

 人の力では太刀打ちできない現実をまざまざと見せつけられ、軽く絶望的な気分になる。だが、さっきの過去のリバイバルよりは温かくてずっといい。思わず口元が緩んだ。

「でもお前、俺をいずれ壊すかもとか嘆いてた割には、結構長い時間いる前提で話すよな」

「ははっ、確かに。それもそうだね」

 涼風でも吹いたみたいに、絹の髪が揺れた。声を弾ませて屈託なく笑う彼の様子を見ていると、冷や汗にまみれてベタついた思考も、穏やかに晴れていくような気がした。

「……眠れない?」

「いや。寝てはいた。ただちょっと夢見が悪かっただけだ。……昼夜逆転はどうも身体に悪いみたいでな」

 昼夜逆転に全ての責任を押しつけるなら、きっと罪には問われない。そういう下心でもって、俺は言葉をつけ加えた。

「なら、いいけど」

 カルドにしては歯切れの悪い返事だった。それに、言ってしまえばよくはない。この話の流れで「眠れないだけならまだマシな方だ」と答えるには、もっと悪い状況を知っていなければならないはずだ。……薄々、感づいてはいるのだろう。俺の隠し事に。

 だが、今は時機が悪い。俺が大事にしまって何人にも共有しようとしない、この後ろ暗い気持ちを包み隠さず打ち明けるには、太陽の下はあまりにも明るすぎた。

「そういや、お前最近煙草買いに店来ないけど、禁煙したってわけでもないんだな」

「してほしいならやめるけど?」

「いや、その辺は全然気にしてねぇし」

 近くで吸われるのは俺の特性上どうしても気にしてしまうが、カルドの場合は配慮が行き届いているので神経質になるほどのことではなかった。今だって窓は隙間なく閉められていたし、普段の生活でも俺の前で煙をふかすことはまずない。もともと中毒というほどでもないのだろう。文字通り、嗜好品としての付き合いが感じられて、俺は嫌いじゃない。

 ……それに、あんな光景を見せつけられて「煙草を吸うな」と彼に言える人間なんて、この世に存在しないだろう。

「もうあそこに通う必要もなくなったから、普通に一番近いコンビニで買ってるんだよ。職場で僕と顔合わせるのも嫌でしょ? ……まあ響君の場合は満更でもないのかもしれないけど、嫌がるフリはするね。間違いない」

「は? 普通に嫌だが?」

 ……なんていうのはまあ、参観日に親が教室に入ってくるのを嫌がる息子のような気持ちなのだが、つまりカルドの言う通りの心境ではあるのだが──この見る限りほとんど完璧な男の前で仕事などしたら自分の至らぬところばかりに目が行きそうだったので、「普通に嫌」というのも嘘ではない。

 するとカルドは、心から愉快そうに喉を鳴らした。こらえきれないという風に肩を揺らす。不思議なぐらい──不自然なぐらいに機嫌がよかった。

「……お前、大丈夫か?」自分のことは棚に上げて、率直に言う。まるで自分が大丈夫であるかのような振る舞いは、たぶん俺のエゴだった。

「え? 何が?」笑いを鎮めた直後の、余韻の残る眼差しが粘っこく俺の心を絡め取っていく。その何もかもを振り切ったような無痛症の気配に、薄ら寒さすら感じた。

「いや……なんか、お前がなんの含みもなしに笑ってると、逆に怖い」

「失礼だなあ。僕だって人並みに他人と話してくだらないことで笑ったりしたいし、何気ない普通の生活を噛み締めたりしたいんだよ」

「普通に生きてる奴はそんなこと言わねぇんだよなぁ……」

 何気ない生活にありがたみを感じることができるのは、よほど自分や他者を顧みる習慣がついているか、不幸の味をこれでもかと知っている奴だけだ。そう言う俺はといえば、どちらにも当てはめることができないような気はするが。

 ……俺はずっと、温室育ちの半端者だ。まっとうに生きれも死ねもしない。

「──知ってるかい。希望っていうのは蜂蜜の香りがするんだ」

 少しだけ無言になって遠くの空を眺めていると、カルドが唐突にそんなことを口にした。

「…………ええと……?」

 他人の不幸は蜜の味、とはまた違った語感だった。そんな、事実だけれど救いもない諺なんかよりもずっと、俺の心には幻想的で美しく響く。けれど、どこか切なくも感じられる言葉選びがいかにも彼らしい。

 俺が「誰の言葉だ?」と訊くのと、カルドが懐から煙草の箱を取り出すのはほぼ同時だった。それを見た俺は数秒立ち止まるように考えてから、「なんだよ」と吐き捨てる。

「煙草の話かよ」

「ちなみに僕の言葉ね。先人がいなければ、の話だけど」

「お前にとっちゃ先人なんか全部後輩みたいなもんだろ」

「意味わかんないなあ、それ」

 先輩なのか後輩なのか、と苦笑気味に呆れた後、カルドは真顔に戻って話を続けた。

「希望は甘い香りがするし、実際に吸い込んでみれば味だって感じるよ。でも、焦って全部掻き集めようとすれば、苦くて辛いばっかりだ。それに、せっかくの味が長く続かない。燃え尽きるのが早くなる。だからゆっくり、焦らず。時間をかけて味わうのが得策なんだよ。幻想に浸るみたいにね。……実体なんて求めちゃいけないのさ。希望は予感だ。未来予測を謳った願望だ。現実の幸せとは違う」

「……」

 悪夢に追い立てられるように外に出れば、待っていたのは幻想の皮を被った現実だった。まるで自分に言い聞かせているかのような語り口に、俺は閉口する。閉口して、想像する。希望の味というやつを。実際に息を吸ったら肺が煙で満たされて、下手したら死ぬだろうと思うから。

「本当は番号で言った方が良心的なんだろうけどね」

 唐突な話題転換に、真意を目で問う。しかしよく考えれば、話題は何も変わってはいなかった。

「それに『ショートホープ』って、愛称だし。店員からしたら面倒な客だろうなあ」

「んー、それは全くその通りだな」

 新人時代を思い出して、深く頷く。番号で言ってくれる客は神だと思っていた。そういう意味では、愛称で煙草を注文するこいつは店員にとっての悪魔かもしれない。が、俺の経験値もそうは呼ばせない程度には溜まっていたので、まあ結果オーライというか、今の俺は大して気にはしない。

「……え、そこは少しでもフォローするところじゃない⁉︎」

「まあまあ」珍しくツッコミに回る悪魔を笑いながら宥めて、言う。「でも何かしらあるんだろ? こだわりというか、そういうの。客の人となりが見えるのは接客業の数少ないやりがいでもある」

「……」今度はカルドが少し黙った。ついでに言えば、少し驚いた様子だった。こいつが驚きを顕にすると、赤い瞳の輪郭が鮮明になって、つい覗き込みたくなる。綺麗なものを何度でも間近で見たくて、もっと驚かせたくなってくる。「……まあ、くだらない理由だよ。面白くもなんともない」

 直訳が好きだったんだ、と、彼は続けた。自分にぴったりだと思った、と。

 ──短い希望。

 そんな言葉を何よりも大事そうに口ずさむ悪魔の横顔を、生ぬるい風が通り過ぎた。

「…………お前は──、」

 言いかけた言葉を飲み込んだ。俺が言えたことじゃなかった。

 ──お前は本当に、これから生きていくつもりあんのか?

 ──幸せになる気、ある?

「……寂しい奴だな」

 もう発してしまった声は元に戻らないから、つぎはぎの言葉を吐いた。誰に向けているのかもわからなかった。

「充分さ」

 それでも彼は、共感してもらえた嬉しさでも物語るみたいに、優しい笑顔をこちらに向ける。

「キミがいれば僕はもう充分。……充分幸せなんだよ」

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