第7話

 化け物とやらの来店は早かった。二人が店の奥に消えた直後と言っても嘘にはならないだろう。

 横開きのドアが吹き飛び、ガラスが割れた。外で爆発でも起こったかのような衝撃が店内の空気を震撼させ、ガラスの破片や商品は全て店の中に飛散する。ガラス片は立派な飛び道具と化していて、もはや凶器だ。咄嗟に身を低くしたのが功を奏し、どうにか無傷に終わる。カウンターの中に留まるのは行動範囲を限定されて危険だと思っていたが、今ばかりは正解だったらしい。

 ……とはいえ、だ。

「やばいやばいやばいやばい……!」

 焦りで震える手で、電話の数字を連打する。店の電話を使うためだけにカウンターの中に入ったのだ。繋がらなきゃ困る。

「早くしてくれ……!」

 こんなにも電話の発信と受信の待ち時間を呪ったことはない。あいつが電話に早く出るかどうか以前に、繋がるのが遅すぎる。

「──助け、テ……れ……」

「………………え?」

 電話が発する機械的な音に混じって、言葉が聞こえた。だが、明瞭ではない。ともすれば日本語とも判別できないような、呻き声によく似た低音。

 受話器を耳に当てたまま、俺は恐る恐るカウンターから顔を覗かせた。

「…………悪……魔……?」

 そこにいたのは、俺が想像していたものとは全く違う人型だった。

 最初に「化け物」と聞いた時、俺は自分自身の影の形を得た、あの魔物のことを思い浮かべた。俺と同じように、あの女性も魔物に取り憑かれたのだろうと。

 でも、これは違う。黒一色なんかではなく、人だった。カルドほどではないが、突飛な外見の名残が窺える。人目を引く緑色の髪。人の姿形を持ち、助けを求める言葉で呻く……悪魔。

 そのはずなのに、なんで。

 腕は木の幹だった。比喩なんかではない。茶色くゴツゴツとした樹皮を纏った、本当の木の幹だ。その表面には植物に取って代わられたように緑の蔦がのびのびと生い茂っている。ひとたび振るえば暴風とともに何もかもを破壊する──そんな圧倒的な力強さを肌で感じる。

 それとは対照的に、悪魔の身体は骨と皮だけに見えるほどやせ細っていた。元は白目だったはずの部分が黒く染まり、瞳は野性的にギラついている。足取りはおぼつかなく、生命力の全てが腕の植物に吸い取られているかのようだった。……まるで、悪魔が魔物に取り憑かれてしまったみたいに。

『……はい、』

 耳に当てっぱなしだった受話器が、ようやく息をした。プツと生命線が繋がり、日常に溶け込みつつある声が俺の鼓膜を揺らす。

「! カルドか⁉︎ 今から店に──」

「ニンゲン……タまシイ……ッ!」

「うぁあああ⁉︎」

 声に反応したらしい。こちらに向かって木の腕が薙ぎ払われる。奥に逃げてどうにか回避できたが、次はもう逃げ場がない。商品だけじゃなく店の備品もぐちゃぐちゃだ。……しばらくここで働けないんじゃないのか、これ。

『え? 響君⁉︎』

「そういうことだから早く来てくれマジで! 瞬間移動で!」

 そう叫んでから耳を澄ますと、通話は既に切れていた。見殺しにされたかと一瞬焦るが、さっきの声色からするにその逆だろう。「来てくれ」と言われる前に飛び出したとか……たぶん。信じて待つ以外に道はない。

「先輩!」

 バックヤードからひょこりと後輩の顔が覗く。

「藤沢……!」なんで来たんだ、とは喉までで留めた。「お客様は⁉︎」

「裏口です! 先輩も早く!」

「でかした!」

 ここは退却しかない。いずれカルドが到着するだろうから、無力化されるまでは逃げ続けるのが最善だ。俺も後に続くべく立ち上がる。

 ──と。

 視界の端が急激なスピードで緑に染まった。突如として起こった視界の変化を、咄嗟に目だけで追う。細かな蔦が壁を伝い、店全体を侵食していた。……まるで網だ。獲物の小魚を、逃げた先から投網で捕らえようとする。退路を塞ぐ。背後から。

 寒気がした。だが、同時に違うと本能が告げる。狙いは俺じゃない。

「まリョく……よこセ……!」

 トンネルのように張り巡らされた蔦が、前方で口をすぼめた。見る見るうちに出口が狭まっていく。囲うための網だけならまだしも、その中には槍のように先端を尖らせた、凶器にもなりかねない蕾をつけた箇所まであった。

そして案の定、凶器の矛先は俺に向かなかった。安心なんかしない。むしろ最悪だと思った。

 俺ならまだしも、なんでお前だ。

「藤沢逃げろ────ッ」

 手を伸ばし、背中を押す。

 そんな足掻きも、悪魔の包囲網の中では少しの意味も持たない。これは追い込み漁なのだ。先に進んだところで、この槍を避けたところで──出口は今にも閉じられようとしている。

 それでも、伸ばさずにはいられなかった。

 だからって何かが変わることはない。決して。それが現実だ。

 人間は無力だし、まして俺は上に行くための努力を知らない。俺を待つ報いは負の方面だけだ。

 絶望感に苛まれぎゅっと目を瞑ると、瞼の外側が一息に赤く染まる。明るい。……何かがおかしい。

 ──火。

 目を開けると、俺たちは火の海に立っていた。火事……の割には熱くない。煙もなく、視界はどこまでもクリアだ。スプリンクラーすら作動していない。

「………………は?」

 足が止まる。呆然としていた。

「……」

 前を見ると藤沢はちゃんといて、肩で息をしながら状況把握に努めていた。

 ひとまずの安心に薄く長く息をして、後ろを振り返る。

 俺たちを襲った悪魔は火のついた薪と化していた。更に奥──元は店の入り口だった方向には、新たな人影が佇んでいる。

 それを見て、俺の心臓はドキリと跳ねる。恋なんていうロマンチックな感情では決してない。言うなれば、それは一種の危機感から生じた不整脈だった。

 くるぶしほどまである丈の長い黒衣と、襟ぐりからひとつなぎになった頭巾。首に提げているのはロザリオと言うのだったか、トップに十字架があしらわれた数珠状のネックレス。

 ──見まごうことなき修道女。

 聖職者。すなわち悪魔の敵だ。

「あなたたち、無事ね?」

 修道女はフードの部分をバサリと取り払って素顔を見せると、切れ長の鋭い眼光をこちらに向けた。

 その瞳と髪色は、炎のように赤かった。

「助けてくれ」。そう呻いていた悪魔の言葉が、今になって明瞭に聞こえだした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る