第6話

 職場に連絡を入れたところ、大丈夫そうなら今日から復帰してほしいとのことだった。俺としてもこれ以上は迷惑をかけられないし、そもそも熱など出ていないので風邪をうつす心配もない。俺の生活は変化を引き連れながら、早くもいつもの流れを取り戻そうとしていた。

「先輩、大丈夫ですか? 熱あったって聞きましたけど」

 制服に着替えていると、藤沢が声をかけてきた。表情からは「風邪なんかうつすんじゃないぞ」といった嫌悪の色は一切見受けられない。いい奴だなとしみじみ思う。

「ああ……だいぶ楽になったけど、病み上がりって結構こたえる……かもな……」

 対する俺はといえば、全く大丈夫ではなかった。風邪を引いていた設定だけはぶち壊さないようにと肝に銘じていた出勤前が嘘のように、バックルームの段階でボロボロだ。

 出勤途中に何かトラブルに見舞われたわけではない。ただ単純に、体力が落ちていたのだ。

 通勤以外では歩かないだろうという自分の性格をわかった上での、少し遠い職場のチョイス。これが完全に裏目に出た。まさか丸二日寝たきりだっただけでこんなにも歩くのが辛くなるとは思わなかった。いや違う。せめて今日ぐらいは徒歩以外の移動手段を使うべきだったのだ。完全に読み違えた。

 風邪の名残を演出するまでもなく、職場に着いた頃には半分以上の体力を削られていた。ゲームでいえば黄色ゲージだ。これからが本番だというのに、先が思いやられる。

 ほんとに俺ってバカなのかもしれないぞ、と自己嫌悪のため息をつく俺の背中に、「でも」と後輩の声がかかる。俺なんかよりずっと聡明でいつもはっきりした物言いをする彼にしては、抽象的な表現が目についた。

「なんか、いつもより元気そうっていうか、『大丈夫』って感じがしますよね。今日の先輩」

「……え?」

「あ、お気を悪くされたならすみません。でもそういうことじゃなくて……っていうのはいつもの先輩が大丈夫じゃなさそうって意味じゃないんですけど……」

「いや、別に何も気なんか変わってないから大丈夫なんだけど」

 慌てて両手を振りながら弁明する藤沢に対し、俺も「気にしなくていい」という意味を込めて手を横に振るので、端から見たら近い距離で手を振り合っている変な絵面になっていることだろう。だが、ただでさえ表情が乏しい俺みたいな人間は、ジェスチャーぐらい使わないと友好的に見えないから仕方ない。

「……まあ、心当たりがないことはないしな」

 劇的な変化が起こってもおかしくないほどの出来事は経験した。……とはいえ、他人の価値観からすれば全く大丈夫ではない精神状態だった人間が、いつもより少し元気に見えるようになった程度の変化でしかないが。しかし、ほんの少しでも、いい方向に変化が起ころうとしているのは喜ばしかった。

 まあ、その原因が主に扱いに困る悪魔にあるというのは、少しばかり釈然としないのだが。

「え、もしかして彼女さんとかですか」

「……」

 学生らしい発想と言ってしまえばそれまで。だが、隣人ができたという意味ではあながち間違っていないのが、この後輩の恐ろしいところでもある。

「……え、その無反応どっちですか」

「彼女ではないし恋人でもないな」

 それだけ言って、俺は休憩室の外に出た。

 そういえば女性の悪魔ってどんな感じなんだろう、と少し想像を膨らませた。



 その事件は勤務中、夜の静けさをぶち壊すように訪れた。

 下手したらコンビニ強盗よりも凶悪で、ブレーキとアクセルの踏み間違いから車が突撃してくるよりも唐突だった。幸運なことに、俺はまだそのどちらにも遭遇したことがない。

 ただ一つ言うならば、今回の事件と似たようなことを、俺はつい最近経験したばかりだった。


「助けてください!」

 自動ドアが開くのも間に合わず、横開きのそれを正面から蹴破るようにして店に入ってくる女性が一人。間の抜けた電子音が鳴る前に、悲鳴が店内にこだました。

「化け物が……化け物が追いかけてきてっ、」

「ちょっ、大丈夫ですか……⁉︎」

 入り口側のカウンターに立っていた俺と目が合うや否や、女性は縋るようにしがみついてくる。なりふり構わない必死な様子は、顔も名前も知らない誰かに、自分の身に降りかかった呪いを押し付けるのにも似ていた。それが醜いことなのか賢明な判断なのかはわからない。ただ、「これが普通の反応なんだよな」とは、心のどこかで思った。生とはしがみつくものだ。ほかの誰を巻き込んででも。

 幸いなことに、店内に他の客はいなかった。今すぐにでも騒ぎになることはないだろう。だが、いつまでも悠長にしてはいられない。彼女は今、追いかけられていると言った。「化け物」とやらがこの場所に辿り着くのも、何も事情を知らない他の客が入ってくるのも時間の問題だ。

「藤沢!」

 俺は恐怖のあまり座り込んでしまった女性を介抱しながら、後ろに控えている後輩の名前を呼んだ。

「は、はいっ!」

「この人を奥に。話し相手になってくれるか」

「でも、先輩は──」

「俺よりお前の方が話し上手だろ。相手は化け物だって言ってんだから、対話とか交渉とか無理だろうし、適材適所ってやつ」

「それじゃ先輩が一人じゃないですか!」

「この人の前で言っちゃうのは悪いけど、まだここに何かが来るって決まったわけでもないだろ。見間違いかもしれないし──」

「見間違いなんかじゃないです! 人……人なんかじゃない……木……木が……」

「木……?」

 藤沢が困ったようにわずかに眉を寄せた。俺も内心では同じ心境だ。だが、俺は女性の主張を聞こえていない風にいなす。この女性にとっては、一度自分の言うことを否定した俺は敵みたいなものだ。助けを求めているのに、真面目に取り合ってくれない。だから、ここは一度悪役を買って出てしまった俺が、冷酷な現場指揮官を演じる必要がある。

「見間違いかもしれないし、仮に不審者が本当にいたとしても、相手が店に入って誰かに助けを求めた時点で諦めるかもしれないだろ。そしたら店には誰も、何も不審な来客なんかないんだよ。そんな時に店に普通の客が来てみろ、対応する人間が表に誰もいなくなる。流石にそれはまずいって。ワンオペならまだしも、二人も店員がいて客を放置はありえない。一人の客に二人も店員がかかずらっていいわけないってこと!」

 実際に怪物と対峙した経験があるゆえに、知らず知らずのうちに語尾の発声が荒っぽくなる。早く二人を店の入り口から遠ざけたい──その一心なのに、これじゃあ俺が一番、この女性の話す怪物の存在を信じていないみたいだ。

「本当なのよ! 信じないとあなたが死ぬ! 死んじゃうんだから!」

 女性は子供のように手足をバタバタさせる。別に彼女は、俺に死ねとは言っていない。だが、店頭に残るという選択をした俺を助けようという思いから言っているわけでもないのだろう。

 自分の言い分を信じてくれないから、当てつけのようにそう主張しているのだ。自分の痛みを理解しようとしないから、酷い目に遭っても文句は言えないのだと。それどころか、酷い目に遭ってくれたほうが、すっきりするかもしれない。他人の痛みを理解しようともしないで突っぱねる奴は、悪だ。悪は少しぐらい痛い目に遭って他人の痛みを知ったほうがいい。……本当にそうだ。その通り。

少し寄り添ってくれるだけで、耳を傾けてくれるだけでどんなに安心することか。

 ……だが、その役目は俺じゃなくて藤沢だ。そして、所詮どこまでいっても、自分の痛みは自分だけのものだ。誰ひとりとして誰かと同じ痛みは味わえない。苦しみも、些細な悩みすらも。

 だから、適材適所だ。俺の方が慣れている。この孤独な戦いに。

「俺は脳のつくりが──つーか、回路が? ちょっと人と違うから」

 自分のこめかみを人差し指でつつきながら、俺は後輩に向かって苦笑を浮かべる。

「先輩……?」

「だから、普通の人には恐ろしいことが、あんまり恐ろしくなかったりするんだよ」

 ただ鈍いだけかもしれないけれど。……それに、何もいいことばかりというわけじゃない。

 普通の人には普通にしか感じないことが、妙に恐ろしく感じたりもする。なんでもない言葉が必要以上に心を抉ったりとか。そうかと思えば、反対に状況に対して危機感が足りないと言われたりもする。抜けている、ぼんやりするな、と。違う違うと言われ続けて、自分から何か新しいことに飛び込むのをやめた。結果、役に立たない木偶人形の出来上がり。普段役に立たないぶん、こういうところで言い訳ポイントを貯めておかなければ。そうでないと、そのうち生きていることすら肯定できなくなってしまう。

「それに……俺のめんどくさい彼女が来るかもしれない」

「え?」

「なんでもない!」ああクソ、こんなものは気の迷いだ。正常になれ、正常に。「いいから行け! この人より俺のが大丈夫じゃなさそうだと思ったら戻ってきてくれればいいから!」

「わかりました」決意の声を響かせながら、藤沢が女性をゆっくりと立ち上がらせた。

「すぐ戻りますから!」

「どういうことだこのやろう」

 バックルームに向かう二人の背中を怒りながら見送り、やがて思い出したように苦笑した。

「死に急ぎ過ぎだろ……ったく、」

 さて、どうやって生き延びようか。

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