清廉ならぬセイレーン

織葉 黎旺

序破急

 どうにも居心地が悪くて、甲板に出た。

 夜行フェリーの最下等室は空気が澱んでいて、疲れ切った表情の人々に混じって雑魚寝する気にはなれない。

 吹き荒ぶ風の中、展望デッキに上がり、空を眺める。雲のせいで星なんてまったく見えず、遠くに偏在する灯台たちが、その代わりとばかりに光るばかりだった。

 初冬の船上は思っていた数倍寒くて、微かにあった眠気は秒で吹き飛んだ。どうにか暖を取ろうとライターに着火して、一息。冷たい空気が肺に染み渡って、いつもより美味しい……気がする。


 灰を処理して、さて吸殻もと思ったところで、薄闇の向こうに何かが見えた。進行方向の右端、そこに無数の鳥影が浮かんでいる。何かを啄んでいるようだった。魚でも食ってんのかな、そう思って眺めていれば、声が聞こえた。



「ら、ら」


 掠れた高音。故に最初は気づけなかったが、それは確かに歌だった。船の駆動音の方が遥かに喧しいはずなのに、それを突き抜けて聞こえてくる。そしてその歌声は、明らかに鳥たちが群がる方向から響いていた。

 やがて鳥たちは飛び立って、頭上を横切る。声も動いていることに気づいて何となく、吸殻を宙へ放った。すると見事に海鳥に直撃、小さく悲鳴が聞こえると同時に、抱えていたものが落ちてきた。


「わっ……だ、大丈夫ですか!?」


 それがヒトの女性である事に気づいて駆け寄る。彼女は小さく顔を上げ「うーん……何か食べ物か、飲み物を」と譫言うわごとのように呟いた。


「えっと……ダメだ、缶チューハイならあるんですけど」


「それでいい。むしろ、それでお願いします」


 食い気味に頷かれた。ので、プルタブを開けて手渡す。すると彼女は缶チューハイを口に含み、飲み込み、そして残りをだらだらとの方にかけた。


「ぷはーっ! 生き返るわ!」


「その凄惨な姿で言われるとマジで洒落にならんけど」


 腕やが啄まれて欠けた状態になっているのを見て、言う。人によってはたぶん、本気で直視できない絵面だと思う。



「大丈夫、すぐ治るし」


 実際言葉の通り、欠損はすぐに埋まって、赤い顔の女はニヤリと笑った。


「いやー、救われたわ! 君が命の恩人です、アリガト!」


「まあ吸殻不法投棄して酒あげただけですけど……それで、貴女は一体?」


「そんなん見りゃわかるっしょ、人魚です」


「本当に見たままですね」


 月光を受けて輝く金髪。潮水に浸かっていたとは思えないほど流麗に見える。豊満な胸元を隠すビキニは貝殻であり、下半身には足ではなく巨大な魚の尾びれがくっついており、もう、明らかに人魚だった。


「感謝感謝。マジで死ぬところだったね」


「だいぶ風穴空いてましたからね」


 正直、落ちてきた時は普通に死んでいると思った。結構グロいことになっていたし。


「どうしてあんな目に?」


「なんていうか……習慣? なんだよね。餌付けが」


「餌付けっていうかもう完全に捕食でしたけど」


「今日はちょっと油断しすぎたね。君がいなきゃ死んでたよ」


 ウケる、と彼女は笑った。完全にギャルのそれだった。


「人魚には痛覚とかないんだよね、だから稀に恵まれない海鳥に肉あげんの」


「募金感覚で肉を渡すな」


「滋養強壮にいいらしいかんね」


 そんなものなのだろうか。言い伝えだと、人魚の肉って不死とかに繋がる覚えがあるけど。


「さて、んじゃ命救ってもらったし、恩返しと洒落こみますか」


「え、いいんですか?」


「もち。行っちゃう? 竜宮城」


「うわー、めっちゃ行きてえ」


「おっけー。んじゃアタシの背中に掴まって」


 言われた通りにセクシーな背中に抱きつくと、彼女は勢いよく背びれで甲板を蹴って、海中へと飛び込んだ。


「わぶぶぶぶぶぶぶ」


 初冬の海はとても冷たい。あと波がめっちゃ強い。ぐんぐん泳ぐ人魚さんの首元に必死に掴まって、押し寄せる海流に耐える。が、極めつけの大きな問題として、ヒトは肺呼吸なので水中で息ができない。段々と苦しくなってきて静かにもがいていると、それに気づいた彼女がが振り返った。


「あ、めんご。忘れてた」


「ゴボァ!?」


 肩をガシッと押さえられ、唇を奪われる。同時に口内に何かを送り込まれ、それを飲み込むと呼吸が楽になった──というか、できるようになった。


「まあ長いことは保たないけど、城着くくらいまでは行けるっしょ」


「なるほど」


 できることなら速攻で効果切れるといいなあ、と思いながら海中遊泳は続く。潜りに潜って光も届かぬ深海に近づいているはずなのに、不思議なことに水圧は感じないし、水中の景色は段々とよく見えるようになってきている。群れをなして泳ぐ魚たち、甲殻類、ウツボなどなど。


「綺麗ですね」


「だべ? 今日ちょうどサロン行ってきたばっかだかんね」


「いや、お姉さんもですけど海の話です」


「あーね、恥っず!」


 誤魔化すようにペースが早くなった。心なしか体温も上がった気がする。


「アタシに感謝しな、海見やすいのも圧ないのも人魚の不思議パワーのおかげよ?」


「うわー、人魚さんサマサマ」


「もーちょい心込めなさいや」


 なんだかんだと歓談している間に、遠くに光が見え始めた。所謂海底都市みたいなもののようで、珊瑚のビルや貝殻の家など、様々な建造物がまばらに並んでいる。


「はい地元到着っと」


「思ったより近代感ありますね」


「まあこの辺は都会だかんね」


 都市内は一応道路が存在しているので、地に足つけて歩く。僕の隣で人魚さんはぷかぷかと泳ぐ。夜だからか、他に出歩いてる人はいない。


「んで、ここがアタシんち」


「うお、これは……」


 立派な家だった。城とまではいかないものの、中世の貴族風のお屋敷である。屋根には何故か巨大なサメの剥製が添えられているが。



 入ってすぐに給仕服の人魚たちが深々とお辞儀した。彼女が「部屋で宴するから準備よろ〜」と軽く声がけすると、屋敷内は慌ただしくなり始めた。


「はい、ここアタシの部屋ね」


「お、お邪魔します」


 豪奢なカーペット、天蓋付きのベッド。上等なインテリアの数々がそこにあった。



「料理来るまで暇だし、着替えてきていい?」


「うん」


「あんがと。その辺のもの見て時間潰してて〜」


 とは言われても女性の部屋を物色する勇気はなく、アロマの良い匂いにソワソワしながら待つこと数分。紅桔梗の着物に身を包んだ彼女が戻ってきた。


「ういっす。どーよ?」


「うわー、めっちゃ似合ってる」


「ふふ、馬子にも衣装だかんね」


 ノックの音が響く。どうやら宴の準備ができたらしい。次々と運ばれてくる豪華な料理の数々に、思わず唾を飲む。


「お酒もあるけど飲むっしょ?」


「もちろん!」


「んじゃ、お酌してあげんね」


 明らかに高級そうな切子細工のグラスに、これまた高そうな日本酒が注がれていく。缶チューハイの対価がこれでいいのだろうか。


「気にしなくていーの。こっちがしたくてしてんだから。遠慮なく食べな?」


「ならお言葉に甘えて……」


 乾杯、とグラスを突き合わせて口に運ぶ。これまで飲んだどんな日本酒よりも香り高く美味い。その勢いのまま、タイの刺身やメゴチの天ぷらに舌鼓を打つ。


「ねー、地上の話聞かせてよ」


「いいよ。気に入るかはわかんないけど」


 酒で口の滑りもよくなっていたので、あれやこれやと色んな話をする。


蛍の舞う河、山に沈む夕日。電車の車窓だとか、飛行機から見る島々とか。彼女は聞き上手で、取り留めのない話のすべてを楽しそうに聞いてくれた。


「あ、つまみがない。おかわりあります?」


「一応あるけど──どうせなら、ちょっと食べてみたくね? 珍味」


「え、気になる」


「ふふふー」


 ニヤリと笑った彼女が、食卓に並んでいたナイフで尾びれを切りつけた。


「よっ、はい。取れたて新鮮なお刺身」


「そんなアンパンマンみたいな提供ある?」


 人が人ならドン引きだろうが、あいにく酒で倫理のブレーキは壊れていたし、何より興味が勝った。

 いただきます、と彼女に手を合わせて刺身を口に運ぶ。──美味い。白身の淡白そうな見た目の割に、きちんと脂は乗っているし、かといってしつこすぎず、コクのある深い味わいをしている。いままで食べた魚、いや料理の中でダントツの可能性がある。


「醤油もいいけど塩で食べると絶品らしいよ」


「うわー、あとで試そ」


 というか、普通に頂いちゃったけど、人魚の肉って食べると不死になってしまうのでは? 


「この量なら長生きで終わりじゃね? 知らんけど」


「適当だなあ」


 まあ生きて困ることはないのでいいか。と飲みながら思う。お腹も膨れて酒も回って、少し眠くなってきた。


「いーよ、寝ちゃっても。したらその間に送っとくわ」


「ふわぁ、助かります」


「あ、そういや忘れてた。渡しとくね、玉手箱」


 漆塗りの重箱を手渡される。中身空なんじゃないかってくらい軽かった。


「いい? 絶対開けちゃダメだかんね? マジだかんね?」


「うん」


「ほんとに開けんなよ? 開けたらもうやばいかんね?」


「はいはい」


 瞼を擦りつつ頷く。もう限界だったので、静かに横になった。


「はいヒレ枕。おやすみー」


 人魚の身体って柔らかいなあ、と思った。






 *





「……は、夢か」


 目を覚ませば展望デッキの上。徐々に空は白み出している。

 とはいえ夢じゃないのは傍らの玉手箱の存在が証明していた。一瞬迷ったが、明らかにラストのアレがだったのを思い出して開く。まあ最悪老けても、魚肉とバランスが取れていい感じになるだろう。たぶん。


「おわっ」


 もくもくと吹き出た煙に包まれる。妙に生臭いな、やっぱ老けるのかななどと思っていれば、中から飛び出した何かに押し倒される。


「きちゃった♪」


「いや、なんで?」


 豪奢な着物に身を包んだ派手髪人魚だった。首を傾げていると彼女はイタズラっ子みたいに笑う。


「楽しませてあげた時間分、アタシももてなしてもらわないと不平等っしょ?」


「そういう形で時間奪ってくるんだ」


「む、失礼な」


 やんややんやと騒ぐ空の下。水平線に昇る朝日が、今日もいい日になることを予感させていた。

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清廉ならぬセイレーン 織葉 黎旺 @kojisireo

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