25メートル

かどの かゆた

25メートル

 カナヅチの私は、プールが大嫌いだった。

 今でも時折、消毒された生ぬるい水が肌に浸み込む感覚を思い出す。

 25メートルを泳げない子は、みんなが自由遊泳をしている間、端っこでバタ足の練習をする。時折、泳ぎの上手い子がアドバイスをくれるが、普段は楽しくおしゃべりできる友達でも、泳ぎの話になると異星人同士のように話が通じない。力を入れすぎないって何なんだ。しぶきを上げすぎって言われても、泳いでる最中に足元なんて見られないじゃないか。

 そして最後に、決まって泳がせられる。練習の成果を確認するという名目で、晒し者にされるのだ。

 胸いっぱいに空気を吸い込んで、力の限り壁を蹴る。水は重く、身体に絡みついた。息が苦しくて必死に息継ぎしようとして、鼻に水が入ってしまう。眉間に鋭い痛みが走って、水をかく動きが鈍っていく。

 歩けば少しの距離を、あんなにも遠くに感じたことがあっただろうか。永遠にも思える時間の中で、私はひたすら授業終了のチャイムを待つことしかできなかった。


………………………………………………………………


 未だに上手に泳げない私は、都会のど真ん中で事務の仕事をしている。

 冷房の効きすぎたオフィスは、全てが灰色だった。ブラインドの隙間から夏の日差しが肌に触れて、何となく遠い日のプールサイドが思い出された。


「〇〇さん」


 呆れ混じりに名前を呼ばれて、私は自分が何かミスをしたのだと察した。

 改善事項をメモして、反省したような顔をつくりながら、心のどこかに「自分は何をしているのか」という思いがあった。

 ずっと、謝り続ける。自分のミスだ。自分の能力が足りないせいだ。事実から目を背けているつもりはないけれど、それでも、納得いっていない幼稚な自分がいる。私は今でも、屋外プールに隕石が降らないかと期待している。異常気象で水が冷たくなって、先生が授業を断念しやしないかと、甘い想像に浸っている。そんなことでは、いつまで経っても泳げるわけがない。


「何度も同じことを言わせないでください」


 お説教はそんな言葉で締めくくられた。何度も聞いた台詞だ。私は半分以上話を聞いておらず、ただ塩素の香りを思い浮かべていた。泳ぎ終えた後みたいに、ひたすら気怠かった。


 次の日、仕事を休んだ。体調不良だった。欠勤の電話をした途端、頭痛も吐き気も治り、結局暇になった。

 アパートの狭い窓から入道雲を眺めていると、ふいに胸が苦しくなる。しかめっ面で上を向く私の恰好は、きっと息継ぎをしようとするカナヅチに似ているだろう。

 これから一体、何メートル泳がなければならないのか。

 私は布団にくるまり、チャイムが鳴るのを待った。しかし、日が沈んでも、次の日が来ても、授業は終わらなかった。

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25メートル かどの かゆた @kudamonogayu01

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