第5話

 落ち着いたころ、クランから体を離した。

 いつのまにか日が暮れはじめ、森のなかはうす暗くなっていた。遠くから鳥の鳴き声が木々のあいだをぬけて響いてくる。

「大丈夫?」

 優しくクランが問いかけてきた。

「うん、まあ」

 僕が曖昧にうなずくと、彼女はこちらの顔をまっすぐ見てくすりと笑った。

「顔、すごいことになってるよ」

 いわれて気づいた。さきほどまで泣きじゃくっていたせいで、目が痒く、鼻の奥はつんとし、こめかみのあたりにずきずきとした痛みがある。おかしそうに笑うクランも泣き腫らしてひどい顔になっていたが、そのことには触れず、僕は自分のシャツで顔をぬぐった。

「そういえば、カクタスは?」

「ここにいるよ」

 くぐもった声がすぐそばから聞こえてきた。

 地面にすわりこむ僕らの斜めうしろに、右手の手のひらで鼻と口をおさえているカクタスが立っていた。彼の指のあいだから赤いものがもれて流れている。鼻からの出血はまだとまらないらしい。

 クランがたずねた。「あなた、大丈夫なの。結構ひどいように見えるけど」

「痛みはあるけど、問題ないさ。ちょっと折れただけだ」

「いや、それ大変だよ」

「大丈夫だって」

 心配そうな僕の言葉に、カクタスは笑ってこたえた。しかし口元をおさえてるせいで声はこもり、歯もかけているせいか発音もおかしかった。

「それよりさ」

 彼が、僕とクランふたりの顔を見渡し、それから神妙な表情をうかべた。殴られた左のほほが赤黒く腫れ、その大きくふくれた患部が左目をふさいでいる。その奥にうっすらと光が見えた。無事な右目を赤く充血させ、唇をかみしめ、鼻をすすったあと、カクタスは頭をさげた。

「ごめん」

 震える声で彼はいった。

「俺が森にいこうっていったせいで、ふたりをこんなひどい目にあわせちまった。本当にごめん」

 僕とクランは驚いた表情で、おたがいの顔を見合わせた。

 目のまえにはカクタスの刈りこまれた茶色の頭頂部がある。彼は腰を直角にまげ、深々と頭をさげている。めずらしいことだった。いや、はじめてといってもいい。彼がここまで申し訳なさそうに謝罪する姿を見たことがなかった。それほど反省しているのだろう。僕は静かにいった。

「気にしてないよ」

「でも」

「本当に気にしてないから。だから顔をあげて」

「そうよ」優しい口調でクランもうなずく。「私だってここにくること、とめなかったんだから。カクタスのせいだけじゃないわ」

 彼は頭をさげたまま、拳を握っていた。なにかを決意した気配がある。ゆっくりと頭をあげたとき、目のなかに新しい光がやどっていた。

「ごめんな」

「いいよ」

 泣き笑いのような顔のカクタスに、僕は首をふってこたえた。

「それにさ」

 クランが彼の顔を指さし笑った。

「ひどい目にあわせたっていうけど、あなたの顔が一番ひどいじゃない」

「え?」

 カクタスがきょとんとまぬけな顔になり、僕はおもわずふきだしていた。

 ふたりに笑われた彼はしばし憮然としていたが、やがてほほをゆるめ、一緒に笑いだした。うす暗い森のなか、僕らは笑いあっていた。三人のあいだには、困難を乗りこえたもの同士特有の奇妙な連帯感が生まれていた。小さなころから知り合いの、幼馴染のあいだにいままでとはちがう絆が生まれてもいた。

「さてと」

 笑い終えたあと、クランが立ちあがり、こちらに手を差しだしてきた。

「そろそろ帰りましょうか」

「そうだね」

 ありがとう、と礼をいいながらその手をとり、僕も立ち上がった。

「ところで、僕らのこと、父さんと母さんになんていおうか」

「ああ、そうね」

 クランが自分の服に目を落とした。

 森のなか、地面を転がったせいか、僕らの服は泥や土でひどくよごれていた。いまだ顔を手でおさえているカクタスにいたっては、鼻が曲がり、歯が数本折れているのだ。下手ないいわけはできないだろう。

 そう思っていたが、彼はあっけらかんといった。

「森のなかで転んだことにしようぜ。それで、俺は顔から地面に激突したことにするよ」

「まあ、それくらいしかないか」

 考えこんでいたクランは、視線を空中に漂わせながら消極的にうなずいた。

「本当のことを話すわけにもいかないしね。怒られるのは覚悟しないといけないけど。それじゃあ、帰りましょうか」

「うん」

 僕はうなずき、歩きだしたところで靴のさきになにかが当たった。視線を落とすと、そこにはガラス玉がついたあの柄があった。

 足をとめ、それに目をやっていると、クランの声が聞こえてきた。

「捨てておきなさいよ、そんなの」

「でもこれ、いったいなんだったのかな」

「なんでもいいじゃない。はやく帰りましょうよ」

「そうだな。日が暮れるまえに戻ろうぜ」

 ふたりが柄のことに触れようとしないのは、僕のことを思ってだろう。その心遣いが嬉しかったが、それでも見て見ぬふりをするのはいけないと思った。

 あふれでた大量の血が乾き、大きな赤いしみとなった地面のうえに、腰からまっぷたつに切断された男の死体がある。僕がやったものだ。どんな理由があれ、人殺しの十字架を背負わなければいけない。

 僕はいった。

「あのさ、埋めていかないかな」

「あれを?」

「うん。やっぱり、このまま放置するのはいけないと思うんだ。僕がやったことだから、せめてそのくらいはしようかなって」

「気に病むなよ」カクタスはいった。「仕方なかったんだ。正当防衛だよ。サシはわるくない」

「でも、僕が殺した」

 うつむいたあと、すぐに横から両手が伸びてきて、僕のほほをつかんだ。力がこめられ、むりやり顔を向けられる。

 真正面にクランのまじめな顔があった。

「いい? きみは私たちを守ったの。結果的に殺すことになったけど、そのおかげでこうして無事でいられる。だからそのことで悩むなら、ひとりで抱えこまず、私たちに打ち明けて。きみの苦しみや苦悩を、守られた私たちにも共有させて」

 言葉はどこまでもまっすぐで、コバルトブルーの瞳には澄んだ色の光がある。

 彼女の優しさに、おもわず涙がこぼれそうになったが、それを我慢して僕は無言でうなずいた。

「そう、気にする必要はない」

 遠くから、冷たく凛とした声が響いてきたのはそのときだった。

 おどろいてそちらに目をやると、小屋の向こう側、木々のあいだに、細いシルエットの人影が立っていた。

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